第一首 秋の田の
【天智天皇】
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
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ふと、頬に冷たいものを感じた。秋生は思わず指で頬を撫でる。指先がほんのわずかだか濡れていた。空を見上げると、いつの間にか、青空が分厚い灰色の雲に覆われていることに気が付いた。
「一雨来そうだな」
秋生の隣に立った同僚の照彦がぼやく。「降らないうちに勤務終わりたいな」と続ける彼に、秋生は「そうだな」と返答した。
九月の下旬。交番勤務の警察官である秋生は、同僚の照彦とともに交通量の多い中央通りで交通規制の立ち番をしていた。ここ一年で、特にこの中央通り付近では交通事故が多発していた。そのためこうやって、交番勤務の警察官が時折見回りや立ち番を行なうことになったのである。
「雨かあ。俺、雨嫌いなんだよな」
「どうして」
「偏頭痛っていうかさ、雨降ると頭痛くなるんだよ」
「そういうのって、女の人に多いんじゃなかったっけ」
「そうなの。知らないけど」
眉をひそめ、こめかみをトントンと指で叩く照彦に、秋生は「大変だな」と返す。しかし、照彦の思いも虚しく、ほどなくしてぽつりぽつりとだが灰色の空から雫が降り始めてきた。まだ九月とはいえ、半分の袖から出た腕を雨雫が濡らすと、ほんのりと冷えを感じる。
秋生はふいに、ある歌を思い出した。
「そう言えば、そんな歌があったな」
「は?」
唐突な秋生の言葉に居を突かれたのか、照彦は怪訝な顔を彼に向けた。
「昔の和歌にあった一句を思い出してさ」
「何の」
「えっと、確か――秋の田の、かりほの庵の、苫をあらみ、我が衣手は、露にぬれつつ」
「へえ、よく知ってんな。どういう意味なんだよ」
「具体的には覚えていないけど。確か、秋の田園のほとりに立てた仮小屋で、動物が田を荒らさないか見張り番をしているんだよ。でもその仮小屋の屋根は目が粗いから、その隙間から雨露が落ちてきて自分の服の袖を濡らす――そんな感じだったかな」
「へえ」
「今の俺たちの状況と、ちょっと似ているなって」
「まあ、俺たちがしているのは農作業じゃないけどな」
「見張り番っていうところが、似ているだろ」
まあ、似ているのかな。苦笑のような微笑みのような半端な表情を浮かべた照彦は、「止まねえかな、雨」と再度ぼやきながら、雨宿りのためか道路に植えられている大きめの木の下にいそいそと移動していく。秋生が空に移していた視線を目の前に戻すと、相変わらず何台もの車がせわしなく目の前を横切っており、交差点の信号下には携帯や腕時計に目を落としている人々がいた。車内にいる者も、信号待ちをしている彼らも、まだパラついているという程度の雨には気が付いていないようだった。秋生は小さく肩を竦めると、照彦の立つ場所へと足を向けた。彼の制服の袖を、米粒ほどもない微小の雨露たちが濡らしていた。
物語には、基本オチというものはあまりありません。小説の中の1シーンを切り取ったもの、そんな目線で軽く、さらっと読んでみてください。