最期の一撃
少し奥で這いずっていたぐちゃっとしたもの……いつか夢で見た奥さんの本体に今使えるすべての力を叩き込む。一応全力だったのだけど、表面組織すら剝がせない。もちろん命には届かない。
駄目だ、硬すぎる。互角だったのは相手が依代だったからとでもいうの。脆い心を映すように私の体は自壊を始めていた。おぞましい痛みを伴い手足が抜け落ちていく。
「うぎゃっ」
悲鳴に振り向いたら弓削が飛んできた。投げられたらしい。壁とかに当たったら死ぬじゃないの、受け止めたら脚が崩れ落ちて弓削ごと床へ倒れこんだ。
重たい。たかが若いホモサピエンスの個体で胸が押しつぶされて息ができない。こんなものが異常に重い。弓削のやつ半分伸びてやがる。焦燥が混乱した思考を無数に吐き出す。
眼下、染みが広がりところどころ酸に溶けたようになっているプリーツスカートから伸びる細い貧弱な二本の脚。こんなもので支えられるほど私の体が小さかったのを思い出す。もう強い爪も牙もない。
万策尽きた、かぁ……。おじいちゃんはまだ後ろのほうでじたばたもがいている。カイコガの羽化みたい。ここからは彼がいてもいなくても同じことでしょう。奥さんの本体がこっちへ来て私たちを飲み込み、場合によっちゃその前に咀嚼し、消化する。
多分効かないけどその時もう一撃叩き込んでみようかしら。体の中なら柔らかいだろうから。軋む体に力を籠めようとするけれど、完全にガタが来たみたいでどこも言うことを聞かない。
それとも私の体は知っていたのかもしれない。体内だろうと体外だろうと効かないものは効かないって。
こちらへ向かってきたのはしかし、依代の女子高生のほうだった。
やれやれ……学習されてしまったようだわ。その骨の大鎌はこだわりかしら。さっきも見たわよ、それ。獲物をなぶるように膝をつき、こちらへ屈みこんでくる。
口が臭い。息が吸えないのに、吸えないから感覚が鋭敏になって情報をあるだけ読み取っている。無意識にもがいた右手が何か硬いものに触れる。
「そうよ、結局コピーはオリジナルにはかなわないの」
無意識に、迫ってくる脅威にいやいやをするように両手を突き出した。
ずぶり、柔らかい感触が手に伝わる。よく見れば私の右手にはふきんで包んだ包丁が握られていた。いえ、包んでいた包丁ね。
ふきんがほどけて私の手にまとわりついている。そこから解放された刃先は依代の胸、心臓から少しずれたあたりを刺していた。鮮血が溢れて私たちに点々と落ちる。それを見ながら私が考えていたのは、意味ないじゃん、の一事だった。
こいつ殺したって意味ないじゃん、依代なんだもん。本体にはダメージを与えられないわ。無駄死にね、もう一人の依代さん。いえもちろん、あなたを殺して奥さんが死ぬんなら私としては万々歳。あなたもまあまあ報われるかってところなんだけど。
「……うっ!?」奥さんが急に苦悶の声を上げてよろよろと後ずさった。包丁が抜けて私の手に残る。「なに、何?お前一体何をしたの!?」
何も。口を開くのも億劫。ただ、なんとなく手を前に突き出したらその手に包丁が握られていて、たまたまあなたの依代に刺さっただけ。大事な依代だったかしら?それはいい様だわ。
人生の最後に見る景色としちゃあ悪くない。私は目を閉じた。
命を絶つ最後の一撃は、いつまでたってもやってこない。何?どうして?私はどうにか弓削の下から這い出て身を起こした。毛皮が、殻が、角がなくなった体はいやに軽い。二足歩行が思い出せずに半分地面を這いながら周囲を探る。
「あ、ああ……何で、何でよ」
苦悶する依代はすぐに見つかった。なぜか奥さんの本体と融合した状態で。そして、本体も悶えている。
どうしたのかしら、まるでほぼ致命傷……人間でいうと肺に穴でも開けられたみたいなリアクションじゃない。しかし、肺って穴が開いたら死ぬんだったかしら、まだ助かるんだったかしら。わからないわ。
「何で私が……本体が傷ついているの?」助けを求めるような声だった。「そんな……調理器具で、刺されたって、依代が死ぬだけで、私、私には何も」
でも意味が何一つ頭に入ってこない。まだ生きてるのね。まだ……私は地面を這って、奥さんのほうへ近づいた。生きてるなら、殺さなきゃ。
「やめて!痛いの!それは痛いの……来ないで!」
痛い、ねえ。取り込まれている女子高生を見る。彼女自身の顔で、声で、奥さんの表情と言葉を届けてくる。首から下は動けるよう触手で接いであるけれどところどころ骨折して、傷もある。ほとんど私がやったものね。
これらは本体にフィードバックされていないみたい。唯一本体へ貫通した胸の傷が赤々と血を流している。
ごめんね、あとちょっと我慢してね。
「あなたに体を使われて、私みたいな化け物と戦わされたその子はもっと痛かったと思うわよ」
直接的なことは何も言わないのに明確な拒絶に奥さんが目を見開く。
あら鳩さん、豆鉄砲でも食らったのかしら。逃げようともがく腕を掴んで刃先を依代の胸へ突きつける。死体蹴りは好きじゃないけど、急所がわかるのはこっちだけだから。
「た……助けて!」今度は私の背後へ呼びかけた。つくづく状況の分かってないひとね。「あなた!助けて!死んじゃう……私このままじゃ死んじゃうわ、ねえ、ねえ!」
おじいちゃんのほうをちらと見る。相変わらずじたばたするばかりね。さっきのはまぐれだったらしいわ。よかった。
「あのひとは来ないわ。動けないの。あなたに長いこと封じられていたから、体の動かし方を忘れているの」
それから私は包丁を両手に固く握らせ、奥さんの胸へ深く深く突き刺した。断末魔が高く低く耳を打ち、やがて痙攣も止まる。力が流れ込んできてうまく呼吸ができない。溺れそう。
力の奔流が収まって、顔を上げた私の前には彼が立っていた。ああよかった、と両手を広げ、私は……。
まだもうちょっとだけ続きます。




