Caterpillar
横文字にしたらちょっとロマンチックかなって。
立ちすくんで、ただ怯んでいた。どう考えても私を害せるような力は持っていないけれど、目の前の肉塊にまともな知性どころか理性があるかすらわからないの。あれは近づいていいものなのかしら?
いや、近づけ。あれには……おじいちゃんにはまともな知性もあれば理性もある、ある。まだあるんだ。もしかしたらもうすぐなくなってしまうかもしれないけど、今はまだ。まだ間に合うの。
だから行け、衣川依。
ひとあし、ふたあし、近づく。近づくにつれて弱弱しくもがく芋虫のまとう一種異様な、気とでもいうようなものをひしひしと感じた。私の中の何かが全力で警鐘を鳴らしているけれど、今は無視する。今はお構いできないの。あとで来て。
こうしてすぐそばまで来たけれど、おじいちゃんは私に気づかない。見えないから当たり前だけど、こちらを見もせずに、むなしい抵抗を続けている。
この距離まで来たら、男性の体というものが四肢を除いて、四肢がないことによってつまびらかに見渡せた。そして――汚い。汗に埃だとかそういうものがくっついているのかしら。
いっそかぶれてないのが不思議ってくらい。奥さんは拭いてあげたりしないのかしら。嫌悪と羞恥と憐憫で思わず目をそらすけれど、いつまでもそうしているわけにもいかないわ。
意を決して頬に手を触れた。辛かったんでしょう、幾筋もの涙のあとが残っている。頬なのは、顔の中で一二を争うくらいひどい造形だったからよ。ショック療法ってやつ。あれ、違うの?……まあいいや。
びくっと大きく震えて、何も映っていないだろう両目を動かして必死に私の手のほうを見ようとする。温かい。私より体温が高いのかしら。
そういえばおじいちゃんにはどこもかしこも真っ暗闇で何にも見えてないのよね。急に触ったりして、怖がらせてしまったかもしれない。さっきからピクリともしないし……。
そっと手を離して、数歩後ずさる。懐中電灯を上向きに置いて、スイッチを入れた。
さっきまであんな風だったのが嘘のように視線がぶつかる。今は私が見えているのね。何か言いたそうに口が動いたけれど、声はしない。ただ呼びかけているのはわかるから、頷く。
大丈夫、聞こえないけど、聞こえてる。
ボトルの水でタオルを濡らした。こうして拭けば、いくらかはマシでしょう。折りたたんで顔から拭いていく。ぐしぐしぐし。うーわえげつない色、まだ顔しか拭いてないわよ?面を変えましょう。痛いかな?でももうちょっと我慢して。
さすがに下半身を拭くのは気が引けたけれど、ここまで来たらさほど高いハードルでもないわ。はいはいはいっと。タオルの色が全面変わった。ビニール袋に突っ込む。後で捨てよう。分別は生ごみかしら。
今度から、捨ててもいいタオル持ってきてたまに拭いてあげようっと。
「おじいちゃん、大丈夫?」一番聞きたかったことは、ちょっと言いづらかった。「……って聞こえてないか。そうよね」
胸に指を突き立てて、「イキテル?」と書いた。カタカナなのは乱歩リスペクトじゃなくて書かれた側がわかりやすいようによ。
ひらがなよりカタカナのほうが単純な形でしょ?ら、乱歩リスペクトなんかしてないんだからっ!勘違いしないでよね!
単純という点で言うなら英語でもよかったのだけど、おじいちゃんが英語対応かどうかよくわからないでしょ。無難に日本語よ。対応してたけどね。
返事がないからおじいちゃんはどう思っているのかよくわからないけれど、思ったより純な優しい目でこちらをじっと見ている。私はこのおじいちゃんを忘れて、少なくとも一日見捨てたんだと思ったら、胸の底を締め付けられるような思いだったわ。
忘れてしまっていたのは仕方がないことだし、おじいちゃんがそんなことで私を責めたりしないことはわかっている。それでも、どうにも辛くて、「ユルシテ」と書いた。
今度は当惑したのが露骨にわかって、何だか照れ臭くなっちゃった。ジョウダン、と書いて一番新しい封印を解く。というか、古いほうの封印は私には解けないの。理由はよくわからないけど、解けないって直感した。下手に触らないほうがいいわ。
それにしてもこんなこと、いつできるようになったのかしら……。習ってもいない。あの無様な自傷行為のほかは練習をした覚えもない。
この4か月の間で明らかに、私は人間をやめていっている。まだ旧き神とかその辺には到達していないはずだけど。
今?そんなことどうだっていいじゃない。
「アシタアエル?」普通の会話なら相手の返答を待つところだけど、今の相手には返答など望むべくもない。すぐに言葉を継ぐ。「ソレジャヨロシク」




