希薄な望み
おじいちゃんが現実見る回です。
夜が来た。どうにか一日乗り切ったわけじゃ。耐える意味もない日を。これから何度でも繰り返し訪れる日を。終わらない日を。何の意味がある?いっそ殺してくれないか。一瞬でなんて贅沢は言わん。
暗闇の中で、何かが儂の頬にそっと触れた。大仰に震える。手だろうか。わずかに冷たい。妻とは違う、細い小さな指の感触。そちらを見ようと目を動かす。暗すぎて見えない。触れた時と同じようにそっと手が離れた。
まさか。何も見えないのに目を見開く。まさか、そんなことがあるはずがない。見たい、やめろ見るな。失望はしたくない。期待などしてはならん。
ぱっと明かりがついた。少し黄色みがかった白い光が暗闇に慣れた網膜を焼く。照らし出される部屋の壁は赤い。視界の中心に立つ人影。やがてピントが合う。大きくはない。心配になるほど小さく、か細い影。
白いワンピースの少女だった。肌は服の生地ほどではないが白い。片手にペットボトルとタオルを持っている。足元に古い懐中電灯が置かれていた。肩につくくらいの髪は少し淡い色をしている。前髪は目元にかかっていて思ったより軽やかじゃ。
この目で見るのは初めてだが、最初はこうではなかった、髪が伸びたということを、儂は知っている。少女の名も。
「依……衣川、依!」
呼んだつもりじゃった。声は出ない。口が動くだけじゃ。どうとったのだろう、依はいつものように表情筋が駆逐されたような顔でうんうん、と頷いて、儂の顔と体をボトルに入った水で濡らしたタオルで少々乱暴に拭った。
汚い、ということらしい。でたらめに生えた牙が邪魔で口が閉まらないが、どうにかしてよだれは垂らさないようにしようと心に誓う。
しかし拭いた後のタオル……ビニール袋にインか。捨てる気じゃな。どう見ても捨てる気じゃな。別に良いよ、そりゃあ汚かろうし……でも何じゃろうこのやりきれない気持ち。
依はおそらく儂の心情になど気づかないまま、何事か口を動かした。わからんよ、耳聞こえんから。賢明な彼女はすぐに気づいたらしい。
儂の胸元につと指を立てた。
「イキテル?」
「……」
なぜぬしも妻同様カタカナなのじゃ。しかも、質問内容……生きてる?どう見ても呼吸をしておる相手に生きてるって何じゃ。何が聞きたいんじゃぬしは。依がきゅっと眉を寄せて、悲しそうな顔になった。
「ユルシテ」
何を?何もぬしは悪くないと思うが。
「ジョウダン」
さ、左様か。冗談には見えなんだが左様かとしか言えんわ。いやそもそも口がきけんのだが。次に依は指二本で儂の額を小突いた。一番新しい封印が砕け散る。
依代に移ったりドリームランドへ行ったりすることができるようになったわけじゃ。やっぱり教えた覚えはなかったが、ありがたい。
「アシタアエル?ソレジャヨロシク」
それだけ伝えると、依は懐中電灯を消した。無明が帰ってくる。きっとタオルの入ったビニール袋とペットボトルを持って地上へのんべんたらりと戻ってゆくのだろう。
しかし、なぜ?何もかも忘れていたはずではないか。儂のことも魚のことも、何もかも忘れていなければおかしい。忘れてほしかったわけではないが、はてどうやってここへ来たのだろう。
まあいい、それも明日ゆっくり聞けばいい。時間はたっぷりある。
あと、依。濡れタオルで拭いた後そのまま放置はちと寒いぞ……。




