肉の器を脱ぎ捨てて
こんなSAN値の減らないクトゥルフ神話まがいもないよなあって。
別の印を描き加えるってのもあったわね。まじないの意味が変わるのかしら。というわけでここに取り出したるは水性ペン。何を描こうかしら。絵心はないんだけど、えい。
円にくっつけてネコミミを描いてみたけど特に何も起きなかった。水性だからなのか、方法が違うのか。いや両方でしょうね。わかってるわ。
爪で皮膚を押してみたけどくっきり紫色にならないもんね。同じような色にはならないからどうしても無理がある。わかりやすく、手っ取り早く円を切る方法でもあればいいのだけど。
切る?
私の中でぴぽーんと速押しクイズの回答権の音がした。あったよ、方法!でかした!そうよ切ればいいのよ。うまくやれば傷口だって最小限に済ませることができるわ。
さっそくキッチンに行って、できるだけ床の上の混沌を踏まないようつま先立ちで隅を歩き、包丁を手に戻ってくる。ここまではおっけー。
できるだけ小さい傷で済ますよう心掛けるけど、何せ初めての試み。それに小さい傷でも血は出るでしょうから、服を犠牲にしたくない以上全裸ね。畳に血の染みがついたら怖いし、お風呂でやりましょうか。
移動したところで、さあ、入刀です!スペースの問題で湯舟に入っているけどねえ、お湯は溜めていないから入湯じゃなくて入刀よ。えーと、円をどこから切ろうかしら?右?左?それじゃ視力検査よ。
そのとき私の頭に浮かんだのは都市伝説だった。イッポウ、ジッポウ、サンポウ、シッポウ、ゴホウ、ロッポウ、チッポウ。最後にハッカイ。そう、コトリバコよ。
前々から気にはなっていたのよね。犠牲によって八段階っていうのはまあわかる話だけど、ハッポウじゃなくてハッカイなのが気になるでしょ。七までは封じるのに、八では開けるの?
ネットの都市伝説にそこまで細かい詮索をしてもなあと思うけれど、言われてみれば気になるでしょ。うふふ。この気になるが後々私の成長に関わってくるのだけど、今は伏せておきましょう。
というわけで、八分割してみることにした。大分短絡よね。でもそのくらいがいいと思うの、こういうの。だって考えたっていいことは思いつかないし。
ぷつっと胸の皮膚に包丁の刃が押し込まれる。よく研いであるから、痛みより先に冷たさを感じる。我ながら切れ味はかなりのものだと思うわ。
直線状に円を切ってまず一気にふたつ。二回目は血と脂で切りづらくなっていた。持ってないけどカミソリとかでもよかったかも。一回ずつ取り換えるの。
それでも私はえっさほらと痛みをこらえ、切り傷を作っていった。死にゃしないでしょ。しかし、四回目は本当に困った。
「うー、刃が進まない……」
湿った厚紙を鋏の片側だけで何とか切ろうとするような感じと言ったらわかるかしら。じょきじょきじょき。力を込めてもあのトロさ、本当にイライラするわ。
しかも血管を切りまくったみたいで柄が自分の血でネットネト。うえー気持ち悪ィ。そのせいで傷口がギザギザになっちゃって痛い。なんか皮膚を引きちぎってるような状態だしひたすら痛い。
こういう時は柄を布か何かで巻けば楽だったわね。あー残念、風呂場なもんで布がない。いつだったかはハンカチを巻いたと思うけど……でもそれはいつだったかしら?
少なくとも、こんな血の出るような自傷行為が日常のメンヘラではないはずよ、私。
まあいいこれで終わりなんだから。えいやあ。とお。クソッ、もう少しなのに!いい加減動けよナマクラ!などと口汚くののしりつつ、どうにかこうにか切り終えた。
かちゃん、と冷たいタイルの上に包丁を置いて、私は何を思ったか、左胸を掴んで皮を肉ごと引きはがした。びりびりびりっ。さっきまで切り傷を作っていくのが痛い痛いと言っていた人のすることじゃないって?
確かにそうかもね。
でも私にとってはそうじゃないのよ。剥がした左胸の皮をしゃばしゃばと水ですすいで、矯めつ眇めつ検分する。胸の傷は新しい皮膚がすぐに覆って見えなくなった。
しっかし、こうして見るとずいぶん単純な『封印』ね。別にこんな力技で外す必要なかったわ。ちょっといじってやればよかっただけじゃないの……ま、それもわからないような状態にされてたから同じか。
封印自体が本体から独立しているし、封印を破ったことが術者に伝わるようなお決まりの設定もされてないじゃないの。今更『奥さん』に伝わってたらどうしようかなんて考えたけど杞憂ね。
ここまで来て、思考がごとりと書き換わる。
ちょっと待って。封印って何が?奥さんって誰の?痛いよ、なんで治ってるの――ゴリゴリと音を立てて正気が削り取られていく。湯舟の中で膝をついて、正座を崩したように座り込む。
体中がひりひりするのはなんでだろう。
「あは」
ねえどうして。どうして、私の手は真っ赤になって風船みたいに膨らんでゆくの。指の太さ、手首の太さ、腕の太さ、もう元の二倍はあるんじゃない?
膨らまないから。そんな膨れないから。ほら爪が剥がれちゃった。血はあまり出ないの?
「あはは」
笑っているけど、息が苦しくなっていく。きっと喉も腫れているんだろう。ばさりと落ちてきたのは何かと思えば私の髪だった。爪と同じで膨張についていけなかったんでしょう。
痛みなんてもう感じないわ。ただものすごくかゆいの。
「あ……は……」
喉が詰まって声が出なくなるのと、視界が狭まるのと、ほとんど同時進行ね。舌が口の外に押し出されて、歯が刺さりながらさらに膨らんでいく。眼球が飛び出すより瞼が下がって動かなくなる方が早かった。
腕や脚や胴の中で骨が押しつぶされて、ぐずぐずとその場にくずおれた。
「……」
私の体は湯舟を埋め尽くして、そこでとても薄くなっていた腕の皮膚が破けた。中身がこぼれだす。
その感触に開放感を覚えて、私の意識は終わった。
次回からはしばらく、爺さんののろけを連載します。




