神は芋虫なり
芋虫というワードで思い出すのが江戸川乱歩か虫の図鑑か綾辻行人かで読書層はわかる気がします。
衣川依というのが、娘の名前だった。
種は、ヒト。その例に漏れず知能は低い。支配されていることにも気づけず、自滅していく。これまでの認識に違わぬ愚かな生き物。
最初は、珍しくも懐いてくる個体だと思った。適合率の低い依代のせいで与える恐怖が薄いのだろうか。そう考えてあまり気には留めていなかった。
礼を知らない生意気な小娘だが、何せ子供のことなので、許した。妻が帰ってくるときにこんな良い依代を壊していたら何をされるかわからんしな。
その翌日には細胞が完全に定着したと見える。無意識下とはいえ、あれほど詳細な形を持った触手を初めてで生やせるというのは稀有中の稀有。さらに少し落ち着かせただけでコントロールを取り戻し、しまい込んで見せた。
50パーセントという数字には思った以上の性能が含まれていた。どんな変異が起きたのだろうと興味深く思って、もう少し観察しようと思った。それだけの話だった、はずだ。
なのになぜだろう。気づいたら依のことばかり考えていた。今何をしているのか、何を思っているのか、夢は?自分の感情に違和感を覚えたころには完全に手遅れだった。
困惑を振りほどいて考えてみて、理由がわかった。恋慕。下等な存在には抱くはずのない感情だった。そして初めて、依がある方向へ変質を進めていることを知る。
神獣――でもなく。
自滅――でもなく。
そして今なら、200万年にも及ぶこの拷問に終止符を打てるかもしれない、と。
高揚した。初めて現れた、赤い部屋から出られる可能性に。そしていい年をして、無謀にも賭けに出た。賭けの結果が出る前に、無様にも恐れて顔を背けた。それで。
また、ここか。
「……」
呆れてそう呟いたつもりだったが、声は出ない。声帯がない、そういう状態を保ち続けるように細工されているからだ。弛緩した唇から唾液が顎を伝ってどこかへ落ちる。落ち続ける。
口を閉じれば止まるだろうが、ではどうやって口を閉めていたっけ。この体を放置して、半年。もはや動かし方が怪しい。
地球人類を狂愛している妻によって儂の体は人に似た形に固定されている。頭、両の手足。五体にそれぞれ一つずつ封が施されている。
だが無理やり固定したせいだろう、手足が付け根からなく、大きな亀裂の入った胴体からは内臓のように感覚もない触手が這い出して勝手に痙攣している。
でも頭から生えている木の葉型の触角はもともとだ。口も耳まで裂けていてヒトのものとは思えない乱杭歯が飛び出している。さらに、蜘蛛の糸を使って空中に吊り下げられている。
だから、依が見れば発狂するかもしれないのは、事実だ。
それ以上にこんな醜い情けない姿はあれの目に触れさせたくないのだが、だから見るなと言ったのではない。儂ひとり嫌われるほうが、依の頭がおかしくなったり生命が危機にさらされるよりずっといいではないか。
いや、本当はただ嫌われるのが怖かったのかもしれない。
唾液の垂れた顎がかゆい。拭うべき手はない。せめて拭う手を空想しようにも、網膜には赤しか映らない。ずっと赤一色の世界しか見ていない脳は想像力さえ失っていた。
依代からこっちへ戻ってきてしまった理由は、考えないでもわかる。絶望。依があの言葉を口にしたときの感触は明らかに絶望だった。
少し考えればわかる。依が儂の頼みを拒否したわけではないことくらい。話が大きすぎて即答はできないという意味であることくらい分かっている。だが……そう、あれが一縷の望みなのだ。
だから過剰に期待をかけてしまった。期待した分だけ、脳天が痺れた。体のコントロールを失うくらいに。
それにしても、どうして忘れてくれなどと言ったのだろう。左様な、悠長に構える問題か?本当に忘れられたら困るのは己ではないか。
それに……まさか依が忘れろと言われて本当に忘れるとでも思ったのか?何だかんだあれは優しい娘ではないか。あそこまで切々と窮状を訴えておいて何が忘れろ、だ。
依はきっと忘れようとしても忘れられない。あんなことを言ったらもう、忘れようともしないはずだ。それとも、そう仕向けたかったのか。前者なら度し難い愚か者だ。後者なら……腐れ外道で。
どっちでもないなら、何だろうな?
「……」
赤い部屋には何の変化もない。長く居すぎた。もう目を開けているのか、閉じているのかも判然としない。また思考が塗りつぶされる前に、他の感覚を得なければ。そうしないと復活にまた時間がかかる。
でも今は依代に移りたくない。
「イイノヨ」
胸に片仮名で四文字が記された。目は閉じていたらしい。開けると髪の短い輪郭が見えた。赤い部屋の中に黒く浮かび上がる、これは女か?
依、と声も出せないのに呼びかける。なぜ?依はここへは来ない。来ないはずだ。だってそうするよう指示しただろう。今の姿も見られたくないくせに、勝手な。では、これは誰だ。
「アナタハズットココニイテイイノ」
髪を撫でられる。違うのなら、妻……か。依ならよかったのに、と少なからず落胆する自分が情けない。どうよかったんだ。笑い飛ばしたいけど、口の動かし方がわからないままだ。
髪を撫でる手が髪から首筋をとおって胸元、腹と下へ降りてゆく。目的が分からないわけではない。了承も得ずに触れられるのは正直言って不快だ。
だが拒む方法もないし、何か無以外の感覚を与えてくれるならこのままでいいかもしれないと思う自分もいるのが事実だ。だけど何で、この手は依ではないのだろう。
依、依、依。
ああ、もう訳が分からない。変なことを考え出したらおしまいだ。もっとましなほうに考えよう?大体、もし仮にこの手が依だとしても本体は、儂は会ったこともないではないか。どんな匂いがするか、どんな触れ方をするか、肌の柔らかさも知らない。確かめる方法がない。
なら、依だと思っておこう?少し考えればすぐにわかるけど、せめて違いがたくさん浮き彫りになって、違和感で埋まるまでは、そう思っていよう。惨めでちゃちな現実逃避を続けよう。
だから、願わくば。
――しばらく依であってくれないか?
今回は乱歩式で。




