着ぐるみ女
ペースアップしたいけどできない、そんな話です。
ここは、どこだろう。広い。空も何も真っ白で、足元は霧がかかったようになっていて見えない。頭はフワフワしている。風はないが、足元の霧が流れているように見える。
「ハッ……」
……どこだろうなんて私もとぼけたもんだ。そうだろう衣川依。ここは夢のなかに決まっているじゃないか。この手の夢はよく見たものだろう。
行ったことのない場所がこの程度か。風景のレパートリーが少ないね。夢なのが分かったところで、歩いてみよう。そのうち何か出てくるかもね。
現代社会の闇?キレる若者の心の闇?退屈な世界を生きる私が考えるにしては洒落の効いた何かが見たいな。信じてないけどな。
頑張れ、私の想像力!
私はまっすぐ前に歩き出した。景色は白紙のままで変わり映えしない。何にも出てこないな。期待外れだ。つまらないな。歩くのも疲れた。座ってしまおう。あれ?夢の中で疲れるなんて、そんなことあったかな?
気にすべきじゃないかな、細かいことなんて。だって夢だろ?
「衣川……依さんですね」
金属が擦れ合うような音がした。いや、声だ。今確かに私の名を呼んだ。金属の擦れ合うような声でしゃべる知り合いは持ち合わせがないんだけどな、と思いながら振り向く。
何だかよくわからないものが立っていた。いや、立っているのか?座っているのかもしれない。背景が白一色だから遠近感があいまいで高さがよくわからない。
それはゆっくり滑るようにこちらに近づいてきて、私の目の前で止まった。近くで見ると大きい。2、3メートルはあるだろうか?
植物の根のような枝のようなものが混ざった柔らかそうな肉の塊。獣のようで草木のような名状しがたいものは、想像上の邪神にも似ていた。
不思議と、恐怖は感じない。
「あなた、誰」
私は少し声を低くして短い言葉で質問した。相手の言葉に一切反応せず端的に自分の要求を述べる。こうやって書くとチンピラのやることだが私はチンピラではない。ごく一般的で善良な女子中学生。
ああ、違ったな。
私はもう中学生ではないんだ。卒業しちゃったから。
「名を告げることは難しくないけれど、私の名前はあなたには発音できないから空しいだけです。呼ばれない名にどんな価値があるのか」
ほう。いい度胸だな、こいつ。
「教える気はないのね。勝手な奴……私の夢の中にいるくせに」
「いいえ、現実です」どういうわけか相手はそう言い切った。「幻と紙一重の場所ですが、まぎれもない現実ですよ」
まぎれもなく現実だって?こんなTHE空想上の産物みたいな奴に言われてもねえ。ふう。そう言い張る夢も珍しいよなあ。私は営業用の笑みを浮かべた。
「いいわ、現実ね。それで?何か言いたいことがあるんでしょ?」
相手はぬるっとした動きで頭(?)を下げた。
「話が早くて助かります。あなたに私の後を任せたいのです」
「後を任せる?どういうこと?」
「……後は、よろしくお願いします」
さらに深々と頭らしき部分を下げる。おいおい、説明はどうしたよ。呼びかけてみようとしたがもうどこにもその姿はなかった。
自分は霞のように消え去ってしまって、どうしろっていうの。どうしろっていうのよ。後を任せるとかよろしくとか。ちゃんと説明しろよ。コミュニケーションって大切なんだぞ。
「いっ……!?」
先に変な声が出た。首筋から左腕にかけて冷たい刃物で切り裂かれたような鋭い痛み。思わず身をよじる。
何が起きた?息を震わせながら肩口を覗き込む。痛い。鋭い痛みはやがて心臓にこだましてじくじくと疼くような熱い痛みへ変わっていく。
なるほどここは現実かもしれない……こんなリアルな痛みを、夢の中で体験したことがあっただろうか?まずないな。
とにかく痛みの元を確かめたい。ただでさえよじれている身体をもうちょっと捻って肩にあるだろう傷口を見ようとしたら、さらなる痛みが襲ってきた。今度は手の甲まで。
ああ、裂けてるのか。私の体。皮膚が裂けて、その下の肉が裂けて、骨が裂けて……黒い中身が見えている。
裂けてる、だって?
「う、……痛いわけね」
ちょっと待て。何で私はこんなに冷静でいられるんだ?おかしいだろう。もっとこう、混乱とか恐怖とか狂気とか、いっそ後悔でもいいんだ!どうして私は何も感じない?いや、痛みは感じてるけど、それだけがまともって感じだ……!
ん?よく考えたら骨の中身って骨髄なんじゃないのか?何でこんなに黒いんだ?赤黒いんじゃないの?
めきめき、と嫌な音がして裂けた腕がさらに広がった。中身があふれ出す。弾力のないぶよぶよの肉だ。
おいおい。私は何を好奇心に駆られて触ってるんだ?好奇心とかそういう状況じゃないだろ?慌てる私をよそに腕の崩壊は止まらない。
とうとう腕が肩から抜け落ちた。そこからも肉があふれ出す。抜けたほうの腕は?足元の霧に溶けて消えてゆく。
自分の体から得体のしれない肉が抜けていくのは嫌な感覚ではなかった。むしろ気持ちいい。そうは言ってもとても気持ちいい、というわけではない。じりじり、遠火で焙られるような。
「んーっ」
内側の私は外に出ようとした。元々の、外側の体から内側へ意識が移っている。外側は邪魔だ。まるで分厚くて重たいコートを着ているようだ。脱いでしまおう、と思った。
おぞましい痛みとともにめりっと音を立てて、額の一点から体の正中線に沿って亀裂が入った。真っ二つになって呆然としたような私の顔だったものが見える。黒い中身からそれを見ていた。
背中にも同様に割れ目が現れる。今度は痛みはなかった。ずるずる外へ出ていく。残った体は抜けた腕と同じように白い霧へ消えてゆく。私はそれをおざなりに見送った。
不意に思いついて、自分の体を見てみた。それは獣のようで草木のようで、何とも名状しがたい造形だった。私はあれが何を言いたかったのかそれで大体理解した。
後から考えると、私はまだ全然理解が及んでいなかったのだが、納得はしたのだ。
「……よろしくって、これか」
ふざけるな。クーリングオフ制度があるんだぞ……いや、効かないだろうか。効かないだろうね。けど私は了承しただろうか?していないよな。
あんなどこにも需要のないストリップショーをやるなんて一言も言ってないな。でも途中から自分で脱いだんだし、ああ、このやり場のない苛立ちをどうすればよいのだ。
私は一人、白い空間に立ちすくんでいた……。
年齢制限は特にかけていないけど、大丈夫なんでしょうか?