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桶狭間 進発

-沓掛城-

今川冶部大輔氏真を主将とした今川勢先遣隊が沓掛に入城したのは二週間ほど前である。

先の甲斐守護、無人斎道有を副将とした先遣隊は、鳴海への後詰として遣わされた。

氏真は入城すると、軍装を解かぬうちに鷲津、丸根両砦、さらに丹下、善照寺、中島の三砦への物見を命じた。

「この一帯と大高、鳴海方面の地図を持て」

近藤九十郎景春に地図を持ってこさせた氏真はあれこれと質問し、さらに物見の箇所を増やした。

それどころか

「夕刻には戻る」

と告げては、自ら騎乗し物見を行った。

戻った近侍から鳴海まで赴いた、と聞かされた時には景春は肝が冷える思いをしたものだった。

「さすが我らの御屋形様は逸物だな」

同輩の山口教継は笑い飛ばしたが、景春の不安は消えなかった。


-当主の死

家とは所詮、人である。

いくら強大になろうとも家督相続がうまくいかなければ家は衰運する。

松平は清康の横死より衰退を続け、織田も信秀の死より抑えられていたものが噴出した。

翻って、今川は義元、氏真父子が健在であり、その両者ともが傑出した器量を示している。

たとえ義元が横死しようとも今川が揺るぐことはないと景春は思っている。

しかし、義元の後継は氏真しかいない。

次男で僧籍に入っている一月長得もいるが、器量を示してしまった氏真の代わりを務めるのは厳しかろう。

景春も氏真の器量に魅入られてしまっているのだから尚更その思いは強い。


「御屋形様の御身はご自身だけのものではありませぬ」

損な役割だ、と思いながらも景春は諫言したものである。

「御身に何かあれば今川家中は……」

「天命は、変えられるかな、九十郎?」

遮られるように告げられた言葉に、顔を上げ、二の句を継ごうとし、しかしできなかった。

詠うがごとく紡がれた言葉とは裏腹に、泰然とした表情の中に余人を寄せ付けぬ透徹さがあった。

「その時は蔵人を頼れ」

景春にできたのは、大笑し去りゆく氏真の背を見送ることだけだった。

「左馬之助ならなんと答えたか」

口をついて出たのは音となったのか、空と消えたのか、それは景春自身にもわからなかった。


-沓掛城-

「大殿が沓掛に入城する、との報せが入りました」

本隊から先触れとして長谷川紀伊守正長が沓掛に入ったのは、景春が諌止してより五日の後、昇りはじめた月が辺りを照らし出す時分だった。

あの日より氏真は城中に坐したままあれこれと差配するようになっていた。

諫言を受け入れてくれたのか、自身での見聞は十分と判断してからなのかは景春にはわからなかったが。

「紀伊守の許に案内せよ」

氏真は静かにそう告げると、小姓が動くより先に自ら歩み始めた。


「三河衆、遠江衆は鷲津、丸根の攻略に取り掛かる故、駿河衆のみが沓掛に参ります。進発は明朝を予定。」

正長はそう告げると、小姓が用意した白湯を一気に呷った。

-危うい

と感じたのは景春だけではなかった。

数瞬思案した後、氏真は景春に

「では、父上をお迎えにあがろうか。九十郎、受入れの準備を頼む」

と告げた。

駿河衆だけでも千騎もの所帯である。受け入れにも相応の準備が必要である。

そういう諸事をそつなくこなす、この時日で景春は氏真にそう評価されていた。

「留守はお任せくだされ」

ここ、ここにきては景春にいうことはなかった。

その気負った返答に氏真は笑みを浮かべ、満足そうに頷いたのだった。


近藤氏は九代、後醍醐帝の御世以前から沓掛を領している。

近藤をはじめ、山口、戸部、水野など、各氏族が居を構える尾三の国境は常に戦禍にさらされてきた。

古くは安達、足利、新田と陣営を変え、景春の代になってからも斯波、松平、織田と変転してきた。

恃むに足る主君を仰ぐのが乱世で生きる術である。

-今川につかないか

景春の元へ教継が訪ねてきたのは、信秀の喪も開けきらぬうちだった。

尾張守護の陪臣に過ぎない織田弾正忠家を富ませ、拡張した信秀は間違いなく傑物であった。

しかし、晩年は尾張国内の内紛に加え、美濃加納口での大敗、三河安城城の失陥など、精彩を欠いていた。

そんな中、信秀が、死んだ。

その跡を継いだのは嫡子信長、齢18の若造である。

しかも織田家中は大和守家、弾正忠家で争い、さらに弾正忠家の中でも不穏な動きは多かった。

一時期は斎藤と渡り合い大垣を侵し、今川の安城を攻め取ったその威は落ちるとこまで落ちていた。


山口左馬之助教継が来訪したのは、冷え冷えとした風が吹きすさぶ夕刻であった。

奪われる体温を補充するかの如く二人は酒杯を空けていった。

「今川は酒井、松平、吉良すらも従えた。苅谷の水野も時間の問題であろう」

日も落ち、景春の妻女が火皿に火を入れ退室するのを見届けると、教継はずいっと身を乗り出し、顔を寄せた。

「今なら大高を手土産にできる」

景春は思わず周囲を見回し、次いで教継の視線を受け止めた。

風が吹き、揺れた蔭は景春の心中を表していた。

従兄弟同士という以上に元来馬の合う二人である。

やってきた教継を見て、

-何か思い詰めている

と景春は察していた。

景春も戦乱の世を生きる領主である。

それが先日倒れた信秀がらみのことではないかと当たりをつけていたが、まさか城取りの誘いだとは思いもよらなかった。

「鳴海だけではだめなのだ。鳴海、大高、沓掛が揃って今川につく。九十郎、わかるだろう」

畳みかけるようにいう教継に対し、景春は沈思して答えた。

「今川はなんと言っている」

景春は目の前の男が武よりも謀を得手としていることを知っている。

当然今川方との交渉の上でこの話を持ってきたと確信しての問いだった。

それに対し、教継は破顔一笑、

「雪斎禅師より後詰を出す、と確約をいただいた。駿府殿の花押もここに」

そういうと、懐から取り出した書状を広げ始めた。

教継と雪斎は面識がある。

小豆坂の戦いの後始末、松平竹千代と織田三郎五郎信広との人質交換を仲介したのは、誰であろう教継その人だった。

言われるまま確認すると、確かに記されている花押も義元のものである。

「これは貴殿に預けおく。委細は後日詰めよう」

素早く身支度を整えた教継は、いうが早いか沓掛を後にした。

風は止み、朧月夜に照らされた先は幽玄であった。


あの日、教継を見送った場所から今は氏真を見送っている。

人生とは数奇なものだ、と景春は思う。

「ご武運を」

上げたその声量は決して大きなものではなかったが、氏真には間違いなく届いた。

振り返り片手を上げるその雄姿に、景春は己が不安な消えていることに気付いた。

まだ南西には青空が残っていた。


義元本隊の動向が伝えられてからの氏真の動きは素早かった。

もとより、出陣の用意を整えていたこともあり、早暁、氏真勢は沓掛の門前に轡を並べその威容を見せつけていた。

無人斎を筆頭に、山口左馬之助教継、都築惣佐衛門秀綱、新野左馬之助親矩といった氏真古来の寄騎に加え、牧野家牛窪六騎稲垣平右衛門尉、小原家老増田団衛門、水野沢瀉の旗印も控えている。

その数三千余。

堂々たる布陣である。

「爺、織田上総は来るかな」

沓掛より出でて半刻ほど、朱塗具足に身を包んだ氏真の隣を行くは無人斎道有である。

「来る、と考えておくべきじゃな。儂ならこの好機は逃さぬ」

嘩嘩と嗤いながら顎を一撫ですると、無人斎は表情を引き締めた。

「何はともかく一戦交えて、と」

「然り、然り」

駿河、遠江、三河、尾張半群を抑えた今川に対し、織田が掌握しているのは僅かに尾張半郡のみである。

津島、熱田を抑え、伊勢湾水運を掌握しているとはいえ、その動員力には大きな開きがある。

定石に従えば、清州での籠城を選ぶ。

だが信長は未だ家中を掌握しきれてはいない。

今も、今川の侵攻を聞いて庶兄の三郎五郎信広、岩倉の織田伊勢守信賢は不穏な動きを見せている。

籠城したところで、櫛の歯が欠けるように尾張の支配体制は揺らぐであろう。

それ故、信長は一戦を交えるという選択肢以外持ち得なかった。

-義元の首級

無人斎は己が二番煎じを信長が画策していると読んでいた。

-上条河原合戦

無人斎がまだ信虎と名乗っていた頃、福島兵庫正成率いる今川勢が甲斐に侵攻してきた。

八千にも上る今川勢を、わずか二千の手勢によって急襲、正成を討取ることで撃退したのが上条河原合戦の顛末である。

氏真、無人斎ともに今度の軍旅が失敗するのは義元の身に万一が起こった時だと考えていた。

そして、それを信長が狙っているだろうことも。

しかし、ここにきて無人斎は義元がそれを前提にさらなる一手を加えようとしていることに気付いた。

「婿殿は誘っておる」

義元が鷲津、丸根両砦に兵を入れたことは長谷川政長の先触によって知らされていた。

鷲津、丸根は監視所としては有用でも、所詮大高城への付城にすぎない。

そこに遠江勢、三河勢の大半を残してきたのである。

大高城を守備するのであれば、元康率いる三河勢に任せれば十分であろう。

大高城を松平勢、鷲津、丸根に酒井勢か吉良勢を分派すれば事足りる。

「寺部城を落として終りかと思うておったが、はてさて清州まで攻め上る気かもしれぬな」

無人斎はそういうと再び嘩嘩と嗤いながら顎を一撫でした。


「敵襲!」

来襲した織田勢に最初に気付いたのは、右翼に陣取る新野左馬之助親矩だった。

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