桶狭間 前哨
-高圃城-
尾張の国、沓掛城の支城に過ぎない、城といっても生け垣と櫓が一つのみの粗末な砦である。
今川軍の支隊が大高城に兵糧入れを行っている頃、山口左馬之助教継、九郎次郎教吉父子はそこにいた。
「父上、鳴海からはなんと」
「沓掛城と協同し、敵の援軍に備えよ、とのことだ。どうやら大殿が沓掛に入るらしい」
駿府を進発した義元率いる今川軍は、一週間ほどで知立に到達、そのまま妹婿の鵜殿藤太郎長照の守る大高城に兵糧入れを行った。
この時、山口父子には知らされていなかったが、丸根、鷲津の両砦に攻撃が加えられている。
丸根砦には松平元康率いる三河衆、鷲津砦には朝比奈泰朝率いる遠江衆が攻撃にあたった。
両支隊を分派した義元はそのまま大高にとどまらず、一度沓掛に入城し、腰を落ち着けてから尾張攻略に乗り出すつもりだった。
大高城番として丸根砦を落とした元康を任命した後、岡部五郎兵衛元信、鵜殿長照らを従え義元は軍を東へと向けていた。
「ではわれらも戦の準備を致しますか」
当年25の教吉はその男くさい顔を引き締めながら父に確認した。
沓掛の守将は現当主である今川治部大輔氏真である。
教吉は当然、氏真は手勢を率いて迎えに出るものと考えていた。
「うむ、追って沙汰があるだろうからな」
氏真には前の武田当主、無人斎道有(武田信虎)が付いている。
沓掛一体は元々織田方の領地である。
敵地で奇襲を考慮するのは当然である。
教継も沓掛城より氏真自身が今川本隊の教導役として
出陣すると確信していた。
-御屋形様は陣頭に立つのがお好きだからな
山口父子は、氏真の寄騎として参陣したことがあった。
織田信秀の死後、教継は織田を見限り今川方へ奔った。
そこに家督を継いだばかりの信長が攻めよせたのである。
鳴海城は七里の渡しにほど近い交通の要衝である。
織田家の力の源泉である伊勢湾の海上交易網を扼することもできる重要拠点である。
織田方にとってはなんとしても奪取しなければいけない要地であった。
教継の援軍要請に応え駿府より駆けつけたのが、まだ上総介と名乗っていた氏真である。
高所を取った織田方と数に勝る今川方が拮抗している最中、氏真は自らわずかな馬廻りを率いて織田方の本陣を急襲したのである。
その果断な決断と颯爽とした指揮ぶりに教継は
-やはり今川方に付いたのは正解であった。
と確信を深めた。心酔した、といってもよい。
義元から駿府在番の命を受けた時も、父祖の地を守るより氏真の側仕えが出来ると喜んだほどである。
-御屋形様は海道一の弓取りで終わる器ではない。
教継にはその先を想像することすらできなかったが、
氏真ならばその先を見せてくれるという確信があった。
-大高城-
丸根砦は城攻めとはならなかった。
4倍の数を誇る攻め手に対し、砦の守将、佐久間大学盛重は一か八かの野戦に打って出たのである。
-佐久間許すまじ
丸根砦の攻略を担当したのは元康配下の三河衆である。
元康の父、二郎三郎広忠の暗殺を指示したのは佐久間九郎佐衛門全孝である。
佐久間一族への恨みは深い。
三河衆の攻撃は
-激烈
の一言に尽きた。
織田軍400余は鎧袖一触、三河衆の槍の血煙となって潰えた。
「これより大高へ戻る」
丸根砦を接収した三河衆のうち、元康率いる松平勢は大高城に居を移した。
丸根砦に残ったのは富永伴五郎忠元率いる吉良勢と榊原七郎衛門長政率いる酒井勢(上野酒井家)であった。
大高城を封じるために築かれたということは、大高城を守護するにも適している、ということになる。
鳴海の丘陵地帯の先端に位置するこの砦からは、大高城は言うに及ばず、鷲津砦、中島砦まで見渡すことが出来た。
「今川の大殿は三河に殿を帰す気があるのか」
眉宇を顰めながら大久保七郎衛門忠世は
同輩の本多弥八郎正信に問いかけた。
西方には黒雲が沸上がってきている。
忠世には松平家を覆う黒雲に思えて仕方がなかった。
「善徳院様も安城から岡崎に居を移された」
それに対し、正信は達観したように呟く。
元康の祖父、清康は松平昌安から岡崎を奪い、その後岡崎城を本城とした。
正信は、この戦が終われば元康に大高城が与えられるのではないかと考えていた。
-駿府と三河、まして尾張は遠い
義元の眼は西方を向いている。
尾張の次は美濃か伊勢、そしてゆくゆくは上洛を見据えている、と正信は確信していた。
義元が元康を任じたのは大高城代だが、織田を下した後は大高城主とし、尾張への備えとするだろうと見ている。
-安城譜代
と呼ばれる松平家古参の譜代衆は元康の岡崎への帰還を切望している。
-しかしそれは叶うまい。
三河は上野城の酒井将監忠尚、吉田城の小原肥前守鎮実が差配している。
岡崎城にも城代が置かれているが、義元が元康を岡崎城代に任命する可能性は低かった。
岡崎はすでに松平宗家の本貫の地ではない。
-それに岡崎は運気も悪い。
安城松平家が岡崎に居を定めて以後、家運は傾いた。
清康、広忠と二代にわたって家臣に切られ若くして没している。
三河を統一し、尾張の一部すら蚕食していた松平家だが、
今では今川の一家臣に甘んじているのだ。
「三河か殿か、選ばねばならなくなるかもしれん」
声を潜め呟いた一言は、しかし忠世には間違いなく届いた。
「弥八郎、お主はどこまで」
「いや、何、ただの繰り言よ」
正信はそういうと西の空を一瞥し再び歩み始めた。
西方には尚、黒雲が広がり続けていた。
-丹下砦-
信長率いる織田勢は熱田神宮にて戦勝祈願を行った後、水野帯刀忠広、山口海老之丞守孝の守る丹下砦に入城した。
「御館様、佐久間大学が討死したとのことです」
忠広は沈痛な声音で信長に報告した。
-大学が逝ったか
佐久間盛重は信長の弟、信行付き家老であったにも関わらず、早くから信長の旗下にいた。
信長派の中でも古参の勇士であった。
しかし信長が瞑目したのは一瞬だった。
「鷲津はどうか」
「織田玄蕃、飯尾近江が討死、飯尾隠岐は中島砦まで引いたものの矢傷を負って治療中にございます」
鷲津砦は、朝比奈備中守泰朝の猛攻により、即日落城した。
織田玄蕃秀敏、飯尾近江守定宗ら守将は手勢を率いて脱出しようとしたものの、勢いに乗った今川勢により討ち取られてしまった。
飯尾近江の嫡男、飯尾隠岐守尚清のみが、負傷しつつも中島砦まで残兵を率いて入城していた。
-丸根、鷲津が落ちた今、大高へ兵糧が運ばれたのは間違いない
織田勢は信長が率いてきた1,000余に丹下砦800余、鷲津砦の残兵200を加え、2000余というところである。
「丸根砦を接収した松平勢は一部を残し、大高城へ向かいました」
手勢を率いて斥候に出ていた守孝が硬い声音で告げた。
-沓掛に向かうわけではないのか。ならば、勝機もあるだろう
「善照寺へ向かう」
一考した信長は守孝にそう告げると、床机が温まらぬうちに座を立った。
善照寺砦には佐久間右衛門尉信盛が入っている。
-善照寺、中島の両砦の手勢を糾合すればやりようはある
信長に一戦も交えずに引く気は毛頭なかった。
-座していても展望は拓けぬ
そう思ったからこその出陣である。
信長にとって運命とは切り拓くものであった。
-桶狭間-
大高城と沓掛城の中間点、小高い丘陵であるこの地からは遠く鳴海城を見渡すこともできる。
しかしこの日は鳴海城方面に雷雨が巻き起こり、北方をうかがうことは困難であった。
「御屋形様、半刻ほどで沓掛より若様がこちらにおいでになるとのことです」
すっと通る声で義元に告げたのは三浦左馬助義就、先年亡くなった朝比奈備中守泰朝とともに両家老と呼ばれた重臣であり、義元の幸臣の一人である。
氏真のことを未だに
-若
と呼ぶ数少ない一人でもある。
刀の手入れをしていた義元は
「そうか」
とだけ答え頷き、刃を陽光に照らし目を眇めた。
-宗三左文字
三好政長、武田信虎と伝わってきた刀である。
定恵院の輿入れの際に信虎より送られたこの刀を義元は常に帯刀していた。
はじめは贔屓の一本に過ぎなかったが、今では亡妻の面影をこの刀に見ている。
-我ながら一途なことよ
定恵院の死より十年、側室は言うに及ばず、継室を娶る機会は幾度もあった。
しかし
-あいつだけで俺には十分だ
という気持ちが義元にそれをさせなかった。
子宝にも恵まれた。嫡男氏真、次男の長得、さらに二人の娘ももうけた。
今川の家は兄弟が相争ってきた家である。
義元の父、氏親も叔父の小鹿範満と争い、家督を勝ち取った。
義元自身も兄の玄広恵探と争い、当主の座を掴んでいる。
二度の家督争いは当主への権力集中と、今川家中の統制という結果を生んだ一方で、頼れる一門衆の不在という問題も引き起こした。
今では真に頼れる一門衆は甥である鵜殿藤太郎長照、駿府で留守居役を務めている義弟の関口刑部少輔親永、岡崎にいる浅井小四郎政敏くらいのものである。
朝比奈をはじめ、三浦、岡部、庵原など信ずるに足る家臣は多いが、それでも一門衆とはそれらとは一線を画す存在だ。
-松平蔵人佐元康
義元は安城松平家のこの跡取りに目をかけていた。
三河の旗頭というのももちろんあるが、それ以上に、先代広忠の忠節がある。
義元は、まだ竹千代という名だった元康を人質にすべく、駿府へ呼び寄せた。
はじめは、他の人質と同様の扱いをしていたが、何時の頃からか氏真と親交を結び、氏真のいるところ竹千代がいるようになった。
太原崇孚雪斎の下にも氏真とともに訪れていたようだ。
-竹千代は今川の柱石となるでしょう
臨終の際に雪斎は義元にそう告げた。
-織田は難敵です。ですが、若、竹千代が居れば勝てましょう。
-殿の行く末を見届けられぬのは残念ですが、今川の未来に悲観はしておりませぬ。
そう雪斎は告げると、満足げな顔で息を引き取った。
義元は雪斎の死の翌年、竹千代改め元康に養女を娶らせ一門に列した。