#5 ゴーストタイムⅦ
青年は不敵に笑う。
「何をしに来た。カイとやら」
青年は足を組んで睨みつけている。
「お前がメイの……。話がある」
「なんですか? 僕の機嫌を損ねない程度には聞いてあげるよ」
その青年からは奇妙さが滲みでていた。
彼の言葉が全て上っ面だけに聞こえる。
見た目も。確かに見た目はカッコいいかもしれない。二つに分けるとすれば確実にイケメンの側だ。だけど、その第一印象を裏切るような彼の纏っている雰囲気。それそのものが不気味だった。
……だから第二印象。気味が悪い。
「メイのことだ」
「だろうね。じゃなきゃ君達はここには来ない」
「このままではメイが学校を辞めて、どこか遠くへ行ってしまうのは俺にも分かる。……単刀直入に言おう。お前と結婚するという話。それを取り消せ」
「……乱暴な。君はまるで獣のようだ。ああ、恐い、怖い」
青年は、ゆらりと立つ。
「じゃあ、その取引のために君は何を差し出せる? 僕にとってこれはビジネスだ。世界でも指折りの権力者達の親族、それも本家の娘だ。これは僕にとって、かなりの利益だからね」
「それでは……メイはまるで道具のようじゃないか」
「……馬鹿が道具で済むだけマシだと、君は思わないかい?」
「―――ッ‼」
やばい! カイがキレる!
そう思った時、目の前からカイが消えていた。それは、たぶん、瞬きするような間に、カイが青年の元まで飛んで。
ギリギリと胸倉を掴んでいた。
「カイ!」
言った所で、二人の隣にもう一つの人影。
私は瞬きすらしていなかった。それなのに、その人は私が気付かない内にそこにいて、カイの腕を掴み、抑えていた。
信じられないようなこと。
だけど、私はすんなり受け入れることができた。だってその人は、時に不可能を可能にする。いつでも、私達と一緒に。
「……リョウ!」
「待ったか? 二人とも。駆けつけてみりゃカイが感情的になってて。間に合ってよかったぜ」
「離せ……リョウ」
カイが青年に向けた右腕をリョウは掴んでいる。
どれほどの力で抑えているんだろう。腕の先に力が入っていない。
「ほらよ」
リョウがその手を放すと、カイは二、三歩退く。
「どういうつもりだ、リョウ」
「それはこっちのセリフだっつーの。そんなことしちゃ、まともに話もできねぇだろ」
「……」
カイが押し黙る。
「いやはや、助けていただき有難うございます」
青年がリョウを見る。
「いや、俺はお前を助けたつもりはない。むしろカイを助けたつもりだが?」
「ふふっ、そうでしょうね」
私達にリョウが並ぶ。
再び青年と向かい合った構図だ。
「……で、どうするんです? 僕はこの絶好の機会を見逃すつもりはありませんが」
「愛なき結婚は辛いだけだぜ?」
「リョウさん、あなたも解っている筈ですよ。世の中には愛より大切なものがたくさんあると。そんな存在するかも怪しい実体の無いモノのために目の前の莫大な利益を手放すことなんて、僕にはできない」
「……話にならんな」
「お互い様です」
青年がため息をつく。
リョウが周りを見渡し、私達に合図をとる。
庭園には青年以外誰もいないと思っていたけど、そうじゃなかったらしい。植木の後ろ、岩の裏、建物の影、至る所に黒服の男が潜んでいた。
「うわぁ、かっけーな。メン・イン・ブラックか。こえー」
リョウがやたら楽しそうにキョロキョロしている。
「二十三人ってとこか?」
「……本当にリョウさん、あなたはすごい。正解です」
二十三人も⁉
そんなにいるなんて。襲われたら一溜まりもなさそうだ。
「とまあ、そんなことはどうでもいいんだが。俺から一つ、聞いていいか?」
「はい、何でしょう」
「何故、お前なんだ」
「それは、つまりどういうことですか」
「何故、お前が伊勢崎の家に選ばれたのか、だ」
カイもじっと、二人の会話を聞いている。
「……うーん。放っといてもリョウさんにはばれそうですし、言っても良いんですけど」
「なんだ、勿体ぶるなよ」
青年が頭を掻き、ゆっくり答える。
「……先日、僕が新たな『四天王』の一人に選ばれたんです」
「なんだと……お前がか」
四天王?
「あの組織内で直々に、ということだよな」
「はい。米の方から直接連絡があって」
「だったら、お前が伊勢崎に選ばれて納得だ」
さっきから何の話をしているのか分からない。
「何の話なんだ? その、四天王とやらは」
先に訊いたのはカイだった。
「まあ、なんと言いましょうか。世界を股に掛ける巨大な組織の……幹部って所でしょうか」
「組織?」
「世界規模の環境問題への取り組みや紛争地帯の制圧、小さなモノを言うと小企業の経済的支援とかやってる団体だ」
リョウが説明した。
「四天王っていうのは、そうですね……そのボスの手足と呼べる、幹部みたいなものです。敵対勢力に対する抑止力に……と言っても分かりませんよね」
「……つまり、お前はお偉いさんの一人ってことか」
「まあ、まだ正式に就任したわけではありませんが。予定として、世界的に、それなりの権力を持つことにはなりますね」
わけが分からなくなってきた。
つまり、でっかい組織があって、この人はその幹部になる予定で、だからこの家に選ばれた。
「その四天王ってのは、どうやってなれるんだ」
「ん、カイさんも、なるつもりですか? 無理でしょう。あなたには能力不足です。あなたは僕より弱い」
「弱い……?」
「君達の言う所の、『ケンカ』の強さ」
「お前はそれが強いから、四天王に選ばれて、こうなってるということか?」
「まあ、無理矢理因果関係を付けるとすれば、そうなりますね」
ケンカ……闘い。
そんなもので、色んなモノが決まってしまっている。
リョウがカイにアイコンタクトを取る。カイが何かを理解したように頷く。
「じゃあ、今、ここで俺がお前を倒して俺が四天王になればいいわけだ」
「確かにそうなりますが……。乱暴ですね。君は本当に獣のようです」
「……獣でも構わない。メイは渡さない」
リョウに連れられ、伊勢崎家の敷地から出る。随分時間が経った気がしていたけど、まだ一時間くらいしか経っていなかった。
危険そうな青年と本気になったカイを残して、私達は歩く。
「こんなことしてて、本当にいいの? カイを手伝わなくて」
「手伝ったりしたらいけないだろ。カイ一人の力で奴に勝たないと。だったら俺たちは邪魔にならないよう、離れていた方がいい」
「そうだけど……」
正直、かなり不安だ。
カイを信頼していないわけじゃない。カイは強い。本当に強い。強過ぎる。
しかもいつだって本気を隠している。どんなにヤバい状況に陥っても、最後の一線を越えない限り、本気を見せない。
あの門の所での男との闘い。あの時も、あそこまでボロボロにやられていて、それでもカイが本気を出していたのかも疑問だ。
だけど、あの青年に対して。そんなカイでも不安になってしまう。あの青年からはすごく危険な臭いがする。
「カイを信じろ」
「……うん。ところでさ、リョウ。その、『四天王』とか『組織』とか、なんで知っていたの?」
「ん」
リョウは困ったような顔をする。
「それは、ネット上の噂だ。そういう噂を思いだしたんだ」
「そうなんだ」
絶対嘘だ。
このくらい、私にも分かる。だけどそれ以上問い詰めなかった。
リョウの嘘には、いつも、きっと理由がある。その理由はどうであれ、それが悪意であることは無いはずだから。
「……カイ、勝つといいな」
ポツリとリョウが呟く。
その目は複雑な色をしていた。
きっと、勝てる。
勝てるはず。だって、カイは……
本当に、メイのことが好きなはずだから。
「今日は帰ろう」
「えっ」
柔らかい目で私を見ている。
「どうして」
「闘いはすぐには終わらないだろう。ここにいても迷惑なはずだろうし。だから、俺らは今日のところは一旦帰って、明日、二人が学校に来ることを祈るんだ」
「……うん」
納得したくないけど、リョウがそう言うならそうするしかないように思えた。
家に帰る。カイを残して。
時折、爆発音のようなものが、メイの家から聞こえてくる。木が折れる音。何か硬いものが割れる音。
それが更に私の不安を煽る。
「カイを信じろ」
リョウはそれだけだった。だから私もカイを信じるしかない。
リョウと並んで歩く。
「ねぇ、リョウ。あの人、超能力とか使える人なの?」
「あの人?」
「今、カイと闘ってる人」
「……なんだ? 超能力って。リンまで漫画の読み過ぎか」
「今更とぼけないで」
強い態度をとる。間も無く、リョウから諦念が見て取れた。
「……まぁ、なんだ。仮に、だ。仮にこの世界で、常識じゃ説明し難い事象が引き起こされているとして。それが人為的に起こっているとすれば。……それは『魔法』とか『超能力』という言葉で表されるだろうな」
魔法。超能力。
今日だけで経験した不思議体験は、この世の言葉じゃ説明しようがない。
だけど、この、たったこれだけの単語が現実のモノとして混じると、説明がついてしまう。……あとは『それ』を認めるか、どうか。
「じゃあ、リョウは超能力があると思ってるの?」
「さぁな。そんなこと俺にとっちゃどうでもいい」
「? どういうこと」
「どうもこうも、言った通りさ」
と言われても。結局、どっちか分からない。
はぐらかされた。
こう回りくどく訊くから失敗した。また訊くのは少し躊躇われる。
果たして、リョウ自身は『超能力』が使えるのか。
「で、あいつ、不気味なヤローの能力だっけか」
「え、ああ、うん」
「ヤツは見たところ……そうだな。びっくり摩訶不思議パワー使いそうだよな」
「リョウ……」
「すまん。おい、ちょっ……そんな目で見るな。悪かったって」
あっ、無意識にリョウを睨んでいたみたい。
「そうだな……けど。俺のさっきの表現。存外、的外れでもない気がしてきたぞ。世の中にある能力を二つに分けるとするなら……一方は本人に働きかける能力。簡単に言えば肉体強化だ。実はもっとあるが。そしてもう一方は、世界に働きかける。その二種類だ」
「世界に働きかける?」
「そう、世界に。分かりにくいか? 例えば……特定の人間に幻視・幻聴を与えたり、そこに無いモノを生み出したりするやつだ。あの不気味ヤローは、多分、後者だ」
どうもそんな感じはしていた。
あの華奢な体で直接闘うとは、とても思えなかった。
「……でも、大丈夫だ。カイなら。なんたってカイだ」
「私もカイを信じたい。だけど……カイってそんなに強いの?」
私の知るカイは、普通の人間だ。
ただ人より強いというだけの私の幼馴染の一人。
「そうだな。リンの言う通り、カイはそこまで強くない。今のカイは一般人最強といったところだ」
「うん」
「でもな。カイは、どこまでも強くなれるんだ。どこまでも、どこまでもな」
「どこまでも……。それって」
リョウは振り返って、もう遠く見えるメイの邸宅を眺めた。そこは今は二人しか戦士のいない戦場と化している。
それが薄いリョウの目から伝わった。
人はある程度、自力で強くなれる。その本人の気持ちによって。また、努力をすれば強くなれる。
だけど、それには限度がある。
人は無限に強くはなれない。
「カイは無限に強くなれる。あいつ次第でな」
「どういうこと?」
「これは……誰にも言うなよ? 俺達だけの秘密だ。本当はリンにも教えたくないんだがな。カイは自分のリミッターを外せるんだ」
「ごめん、意味がよく分からない」
「つまり、……カイはな、強くなれるんだ。自分の思いのまま、好きなだけ。例えば体を屈強にしたければ、強く思うだけでそれが手に入ってしまう。瞬発力も、視力でさえも手に入る。俺の予想だが、天才的な頭脳もやり方次第で手に入るんじゃないか? 本人が心の中で強く願うだけで」
「そんな……そんなすごい能力を持ってたなんて。私、知らなかった」
すごい能力か、とリョウはうっすら笑う。
「だが、便利なものには、少なからずリスクはあるんだ」
「リスク……」
「まあ、これはリスクというより、元々そういうものなんだと思うしかないのかもしれない。あの、カイの自己強化は……戻せないんだ。強くなるだけなって、弱くなれない。つまりは、一度超人……いや、カイは自分で『怪物』と言っていたが。その怪物になってしまうと、二度とは元には戻れない」
「でも、それは」
「全てにおいて手加減しなきゃいけなくなる。だからカイは今までこの能力を使ってこなかった。まあ、使うことがあっても、最後の一線を超えないように」
怪物。恐ろしい響き。
「……実際、現実的に。カイがその一線を超えたら、もう一緒に並んで過ごしていくことはできなくなるかもしれないな」
「どうして⁈」
「その時、既にカイは俺達の社会の誰ともと並んでいない」
私にも、少しずつ分かってきた。
あの時。門の所で、あのデカい男を殴り飛ばした時。カイは自身を強くしたんだ。
常人である自分が、超人である相手を倒せるほど。リョウは他にもいくつかリスクがあるかもしれないらしい。
カイが黙っているだけで、急激な変化に、実は身体が悲鳴をあげているとか。
「じゃあ、カイはきっと大丈夫なんだよね」
「……カイがどこまで自分の強さに妥協するか、だな。今、守りたいものと、これまで護ってきて、これからも護りたいもの」
「うん……」
この闘いに勝つには、カイは今より強くならなければいけない。
だけど今より強くなったら、もう今までのように私達との日常を送れなくなるかもしれない。
極めて険しい葛藤。カイはメイを助けに行く前、教室で、この二つの鬩ぎ合いに苦悩していたんだと今頃になって気付いた。
カイは、門で会ったあの男を知っていた。だからああいう人達と闘うことになることも分かっていた。今のままでは勝てないことも。
しかし強くなっていいのか。強くなったら、たとえメイを助けることができても、もう私達との日常を送れないんじゃないか。
ここで、そっとしておいたら、メイのいない三人での日常を送れる。それはきっと平和だ。平和で、楽しい暮らし。きっと今まで同様幸せだろう。ただ、そこにはメイがいないだけ。
カイは助けに行くことを選んだ。
自分の手でメイを助けに行くことを選んだんだ。もしかすると日常が失われてしまうのに、メイを選んだ。
私達には、それが嬉しかった。
「ま、この話はもし超能力が本当にあるなら、という仮定の話だ。忘れてくれて構わない」
次の日。教室。
リョウと二人で学校に着いた時、もうほとんどの生徒が席についていた。
今日はリョウと二人、遅めに登校。別にクラスで一番最後という訳ではなかったが、それなりに遅い。いつもよりは。みんなより。
この時間、ホームルーム前だから、ざわついている。クラスメイトが雑談に興じている中。
その中に見つけた。いた。
いてくれた。
「……カイ!」
「ああ、リョウとリンか。おはよう」
「おっはよー!」
カイの隣にメイも座っていた。
無事に学校に来ている。メイが、学校に。
途中、もう無理かと思った。昨日の夜、不安でしょうがなかった。もう、当たり前の日々がなくなってしまうんじゃないかって。
心配で、心配で。
今、当たり前のように、目の前にメイとカイが座っている。明るく挨拶する。
たったそれだけのことに、目頭が熱くなる。
「おい、どうしたんだ、リン」
「ううん、なんでもない」
「リンは、ずっと二人が心配だったんだよ。な、リン」
リョウのフォローが入る。
「……うん」
素直に頷いておく。事実には違いない。
「そうか。……心配かけたな、リン」
カイが私の頭を撫でる。
とても心配した。不安だった。
それが的外れではないことも分かった。カイの足にギプス。机に松葉杖が立てかけてある。各所に痛々しい打撲の痕も残っていた。
「カイ、大丈夫?」
「何がだ」
「……いろいろ」
例えば……これから、カイがいなくなる、とか。
「大丈夫だ。……お前がどこまでこの件のことを知ってるか知らないが。たぶん、お前が心配していることはリョウが手回ししてくれるらしいからな」
「俺に任せろ」
リョウが胸を叩く。
分かっているんだ。自身のことに関してはカイも。
たぶん、メイも。知らなかったのは私だけ。
きっとリョウは、なんとかしてくれる。間違い無い。
「まあ、万事解決ってやつですネ。はははっ」
メイが楽しげに笑う。
人の苦労も知らないで、と言おうとしたけど、喉の奥で押しとどめた。
一番辛かったのは、メイだったと思う。だから。
「そうね」
私はそう微笑み返した。
リョウが訊いた。
「―――で、カイは勝っちまったんだよな? 奴に」
「勿論だ」
うやむやだったけど、改めて肯定した。断定。
「てことは……お前、どうなる?」
カイが言いにくそうに言う。
「その、あの組織から書類が届いてな。それで、中に。内容は。俺がこれから四天王の一人になった……」
「そうか……」
複雑な雰囲気。
メイだけがケロッとしている。
「なんかカッコいいね、四天王だって」
「そんなにいいものじゃないと思うよ、メイ」
「そうなの?」
「そうなの」
放課後、詳しく話を聞くことになった。主にカイから。
リョウには必要らしい。カイ曰く、『俺の尻拭いのため』。
「四天王って何するの?」
「まず存在自体が敵対戦力への抑止力。あと、それなりの任務ってとこか。まぁ……カイは、学生の間は何も来ないとは思うが」
「そうらしいな」
学生の間は免除ということらしい。
「リンもメイも、これ以上こういうことに関わるなよ」
「うん」
「危険だからな」
「分かってる」
「何があっても、だ」
リョウが更に念を押した。
松葉杖なんてものがあったから重症をなのかと思ったが、カイの傷はそれほど大きくないらしい。
むしろ細かい傷がたくさんあるだけだから、全体としては大きいが、個々で見ると小さな傷。すぐに治るらしい。
よかった。
数日。あれからメイも休まず学校に来ている。転校という話も、学校側の手違いということになった。裏で手を回したのは、伊勢崎の家かリョウなのか組織とやらなのか、それは分からない。
だけど状況が良くなったのは事実だ。
結果的に言えば、これは解決でもない。そもそもこの件に解決は無かったんだ。全てにおいて初めから手遅れ。どうやっても、環境は変わってしまう。それが、私達にとってプラスにするか、マイナスにするか。それだけだった。
カイが勝った。
立場が変わった。
このことで伊勢崎の家の評価も大きく変わり、あの謎の青年からカイに変わったという。その……相手が。
そしてカイたっての要望で、今までと同じ日常が手に入ったという。伊勢崎の人達も渋々といったところかな。無理もない。今のカイは強いから。
ある日、四人で帰宅中、カイが言った。どんな話の流れでだったかは忘れちゃったけど。
その言葉は覚えている。
「どんなことがあっても、俺は一生お前達を護る。護り続ける。ずっとだ。……ずっと」
これだけの言葉で私はとても救われた気がした。
こんな幸せな日々がずっと続くのだと。
―――これで、もう、全て大丈夫だと思っていた。
終わりが近づく。
それは、こんな一言からだった。
「もしかしたら、もう帰ってこないかもしれない」
だんだんと暑くなり、日差しが強くなる頃。
梅雨も終わり、夏の熱い日光にアスファルトが焼かれる。蒸し暑い。
昼下がりの空。雲一つ無い。
いつもの四人は汗ばんだ肌を時折タオルで拭きながら外を歩いていた。
まるでサウナだとか軽く愚痴を叩きながら。
初めは元気だったメイも口数が減っていく。暑い。口を開くことさえ、大きな体力の浪費だ。
「……ぬおぉ……」
メイはもはや呻くばかり。
私達はプールへ向かっていた。いわゆる市民プールというやつ。この間、市に新しく建てられた。私達の住むこの町にしては珍しく、かなり豪勢な建物だ。充分過ぎるほどの敷地面積を使い、かつ設備充実。スライダーなど数多くの設備もふんだんに採り入れられていて小さな遊園地の一つのよう、という話だ。その名も『竜宮城』。入場料五百円。
市が経営しているにしては豪華過ぎる。なんか大きな企業の不正な影が見え隠れするという噂さえある。
でも、そんなことは私達には関係ないわけだけど。
リョウとメイが、この新設プールを見逃すわけが無かった。
しかし不幸かな……
近くにバス停も駅も無く、私達は歩いて向かうことになる。ネットの情報によると、最寄りのバス停から徒歩三十分。なかなかにしんどい。
暑い……
結局、三十分の道を五十分かけて歩いてしまった。
「これが……竜宮城……」
これを市で経営するなんて、あり得ない。不相応過ぎる建物だった。
デカい、大きい、豪華。もう存在が周りの平凡な風景からかけ離れていた。
しかも、本当に入場料五百円。
「激ヤバだ……」
メイも唖然としていた。この建物、どっかの富豪さんが使っていてもおかしくない。
それなのに五百円ポッキリ。
「激ヤバだな……」
リョウ、絶句。
この竜宮城。一つの企業なんかじゃ賄える気がしない。
……一体、この町は何を抱えているんだろう。
案の定、入口から人がたくさん。ごった返すほどではなかったが、苦労しそうなほどの人の多さだ。
「ご入場、ありがとうございます!」
明るい受け付けのお姉さんがタオルとペットボトルのお茶を差し出した。
「……これは?」
「これはご来場者全員にお配りしております。また、三時間毎にイベントも用意させて貰っております。是非楽しんでくださいね」
……いやいや、一体この町はどうしてしまっんだろう。
流石にここまで……
「行くぜっ」
リョウが走っていってしまう。それに追われるように歩き、メイに押されるように走る。
カイもリョウを追うように走った。
気付けば、プールサイドに座っていた。
なんか、もう、あっという間。
まず、巨大スライダー。巨大過ぎて人の回転がいいのか、並んだらすぐに滑ることができるらしい。角度四十五度。メイとリョウに引っ張られ、つい列に並んだ。スタート地点に座る。隣にリョウ。後ろにメイが並んでいた。座ってみると、意外と高い。長い。急。しかも滑りやすい面に、勢いよく水が流れている。これは……
「……はやくいっちゃいなよー。もー。……えいっ」
えっ……
一瞬、振り返ると、メイの伸ばされた腕が。
「……きゃゃああぁぁぁぁぁぁぁ………」
……意外と角度が急。見た目以上に恐かった。四十五度。
しかも、速い。速い。速い。怖い。速い。怖い!
ぐんぐん進む。景色が目まぐるしく動く。隣にどうスピードで滑る人影。リョウ!
リョウは勢いそのままに、滑りやすい面に対し足を立てる。
何のつもりか、さっぱり分からない。
そのまま意味不明なリョウは、ゆらりと立ち上がる。その間も景色は目まぐるしく変わっている。立ち上がったリョウは、
「いぃぃ……やっほぉぉぉおおお!」
奇声と共に消えた。いや、飛んだ。勢いと共に何処か遠くに。
このプールで事故が起こるとしたら、原因はきっとこの人だ。間違いない。
飛んだ。勢いよく浮いたその体は空中でポーズをとる。こちらに振り向きピース。リョウの顔には笑みが溢れていた。そして、敷かれたレールから外れたリョウは、スライダーで得た勢いを使い空を切り、鮮やかに別のプールへ飛び込んだ。
小さめの隣は流れるプールだった。といっても、今は流れはない。調整中の札が立ててあり、誰も泳いでなかった。そこへリョウは飛んでいた。
……ドボォォン……
「わっ…………っぶは」
よそ見している内に、私も終着点に着いていた。
確かに長いスライダーだったけど、内容が内容で、より長く感じた。
見渡すと、スライダーの終わりにいるはずの係の人が一人もいなかった。当然リョウは囲まれていた。
スライダーと調整中流れるプールは、ちょっと距離がある。勢いがあったとはいえ、よく飛んだものだ。
……っ!
後ろを振り返る。ここから生まれるもう一つの懸念。メイ。
このスライダーは横にたくさん並んで滑れるが、先に行った人が結構先に行くまで滑れないことになっている。
後ろを見ると、次の人達と一瞬にメイは滑ってきた。私は係の人もいないので自分から横に避けておく。
さっと見渡し、ずっと後ろにメイを見つけた。メイは滑っていた。普通に。常識的に、人並みに楽しんでいる。
すこし安心した。ひょっとしたらメイまで跳ぶのかと。
係の人に注意を受けているリョウが、チラリとメイを見た。
「ふっ」
リョウが鼻で笑った。調整中馬鹿にした目を向けている。
あっ、メイと目が合った。
メイがムッとした。そして、ニタリと笑う。リョウに笑みで返したんだ。……あたしを舐めるな、と。
滑っているメイがゆっくり立ち上がる。体を傾け、斜面に対して垂直な体勢を作り、足を伸ばして跳んだ!
リョウのように。メイが宙を舞う。スライダーから、流れてないプールへ。
風が吹く。メイの体が僅かに揺れる。
メイに妙な方向への力が働き始めた。風でバランスが僅かにでも崩れたのか、調子が狂う。下への力が強くなっていた。
……届かない! 落ちる!
スライダーから流れてないプールまで距離がある。その間には、少しざらついた硬い床。
スライダーそのものも、かなり角度がある上に、長い。つまり、高さがある。
私がこのスライダーが恐かった理由もそこにある。
「あっ……」
この高さは本当にヤバい。
そのうち真っ直ぐ落下し始める。床に。
私は思わず両手で目を覆った。
…………。
……。
…………?
静まりかえっていた。何も音がしない。
音がしない。落ちてこない?
更には周りから徐々に拍手まで起こっていた。
そっと目を開く。
目の前の光景に納得する。
それは、メイが鮮やかに着地した……のではなく、駆けつけたカイが鮮やかにメイをキャッチした姿だった。
なんというか。私が見たとき、メイはお姫様抱っこ状態だった。恐らく、落ちてきたメイをそのままキャッチした状態なのだろう。
カイが本当にカッコよく映った。カッコよくて、メイは可愛くて。まるで映画のワンシーンのような。とてもお似合いで……
……って、いやいや、ちょっと。そんなことより。
人集りができかけていたから、急いで二人を連れ出す。観衆と一緒になって拍手していたリョウも拾って、ミニスライダーの裏へ。ここは人は全く来ない。
走って連れていき、着いてから私からまず一言。
「二人とも……正座」
「まっさか、プールでまでリン達に説教されるとは思わなかったぜ」
「だよねー。まあ、それもこれもぜーんぶリョウのせいだけど」
「なんだと? お前は俺と跳んだ共犯者って立場だろうが。なんで罪を全部押しつけてんだよ。共犯だろ」
「共犯? たとえあたしに罪があるとしても二割程度だよ」
「二割っておい! それじゃ、もしお前が十人いたら八人が無罪じゃねえか。百歩譲って五割だ」
「えー、リョウのケチー。……あれ? 百歩譲って五割? それって、ええと」
お説教から五分。何やら後ろで言い争っている。なんとなく論点がズレている気もするけど。
カイとお説教。せっかくのカイの全快祝いを兼ねているというのに、誰かが怪我をしそうなことはするな、という話。
結論。説教後も要観察。
少し休憩する。私はメイのように、長時間続けて遊ぶ元気は無い。それに今日は日曜。明日から学校だ。ハメを外すことも大切だけど、外し過ぎると疲れが残るし。
依然私以外は元気そのもので、ハメを外し続けていた。
売店で飲み物を買う。メロンソーダ。サイズはノーマル。一杯四十円。まさに破格。ここ、続くのかな。
テーブルとイスが空いていたので、そこでメイ達がはしゃいでいるのを眺めながら、ジュースを飲む。
メイがカイに水をかけていた。カイが避けつつ、水をかけ返す。追いかけ合ったり、メイがスライダーにカイ引っ張ったり。
気づいたらリョウがいなかった。
どこに行ったんだろ。
左を見て、右を見る。いない。もう一度右を見なおす。いない。まさか、上?
視界が真っ暗になった。何かがあたっている感触。
「上にいるわけないだろ」
「リョウ?」
手で目隠しされていた。
「即答かよ。これじゃ誰でしょうゲームにならないだろ」
「いや、普通に分かるし」
手が離れる。目の前のテーブルには、お菓子がいくつかあった。
テーブルを挟んで私の向かいにリョウが座る。
「リンは泳がないのか?」
「うん。ちょっと疲れたかな。リョウは?」
「俺も休憩がてら少し気を遣っただけだ。ほら、あれ」
リョウが二人を指す。
「余計なお世話かもしれないけどな」
「二人だったら言いそうだよね」
「だな。俺は余計なお世話か?」
「ううん。リョウはリョウの思うことをしていいと思うよ」
リョウは持ってきた菓子の袋を開封する。ミニドーナツなどの小さなモノが何種類か入っている。
「ほら、食えよ」
「ありがと」
お腹が減っているわけでは無いけれど、ここで食べるお菓子は美味しい。
室外プールの丸いテントの下。
「カイも治ってよかったよな」
「うん。意外と早かったよね。松葉杖をついてたから、どうなるかと思ったよ」
「それに、いなくなったりしなかった。メイも、カイも」
「そうね」
「……楽しいな」
「うん」
ジリジリと陽が照りつける。夏だ。
初夏の風。陽によって少し温かいし、プールのアトラクションの水しぶき混じりで少し涼しい。
「あのさ」「なあ」
言葉が重なった。
「先、いいぞ」
「ううん、先にいいよ」
「いや、いいって。気にするな」
「いやいや、リョウが先にしてよ」
冷静なると、スゴく恥ずかしいこと言おうとしてた。勢いに任せて。
カイとメイを見てると、自然と言える気がしたから。
「じゃ、俺が先に言うぞ」
「うん」
何故か、緊張した。胸が高鳴る。心臓がはち切れてしまいそう。私が話そうとした。タイミングが重なった。偶然。だから先を譲った。それだけなのに。
リョウが私の目を見ていた。私もリョウと真剣に向き合う。
私が言おうとしていたこと。
リョウが言おうとしていること。
それも偶然同じだったらいいな、なんて。
だったら幸せだな、なんて。
私は今、そう思っている。思ってしまっていた。
「……俺さ、この間のメイの件じゃないが……しばらく、違う学校に通うことになった。つまり……短期転校な。だが……もしかしたら、もう帰ってこないかもしれない」
頭から温もりが一気に引いていくのを感じた。
「楽しかったー。また来ようねー」
「そうだな」
帰りもバス停まで歩き、バスを使う。
「ああ、もう大満足だ。竜宮城。あんなすげぇイベントやアトラクションがあるなんてな。もはや市民プールじゃねえよ、あれ」
帰りのバスの中。皆疲れて寝てしまうかと思ったけど、まだ元気が余っているのか、ずっと話続けていた。
揺れるバスで、まとまらない話を働かない頭で考える。『短期転校』。耳慣れない言葉。もう何に向かって何を考えているのかも分からなかった。
あの時、私が伝えたかったのは私の気持ちで、私の理想だった。そして、リョウが伝えたのは、彼の事柄で、彼の現実だった。
このことは、まだ私しか知らない。リョウが私にしか言ってない。今日の夜、電話で伝えるそうだ。
そして、約束。
リョウが私に伝えた時、私はリョウに約束させた。それを示すこと。それが条件だった。
約束―――必ず、帰ってくること。
私には、それしかできなかった。
リョウは私に詳しい話をしなかった。元は交換留学みたいなものだということ。それが転じて、事情により向こうから送れない。こちらから一方的に送ることになる。また、苦しい地域で、帰ってこれない可能性がある。その際、一切の責任は向こうが取るということにより、籍を向こう側に置く。
よって形式上転校ということになる、ということは理解できた。そこで何故リョウなのか、それは分からなかった。
結局誰かがやらなければいけないから、とリョウは言っていた。理由はそれだけだと。
そんな曖昧なことばかり。いつもいつも自分が苦しむ直接的な理由は教えてくれない。それがリョウだ。分かってる。
思ったより帰りが遅くなった。赤く染められた夕焼けの空を窓から眺める。空が明るく、周りが暗い。まるでシルエットだ。バスが近くを通ると、鳥が一斉に電線から飛び立つ。
遥か遠くへ。次第に小さな点になり、夕焼けの彼方へ消えていった。もう私達には見えない。
隣に座るリョウを見た。さっきまで騒いでいたのに、もう寝ている。ほどよいバスの振動が眠気を誘う。
その顔はとても安らかで。不思議と、いつまでもそばにあるように思えた。
空を舞う鳥は、ただひたすらに飛び去ってゆく。
私達を残して、どこへいってしまうのだろう。
そして、リョウは飛び立った。
朝、急に不安になって、リョウの家を訪ねた。リョウは一人暮らしだった。放任主義らしい。
リョウの住む一戸建ては、もぬけの殻となっていた。よく集まった公園、毎日の通学路、色んな場所を走ってまわった。いない。
はっとして、時計を見る。そろそろ学校に行かないと遅刻する。先に学校へ行ったのだろうか。今度は学校へと走った。
遅刻ギリギリ。ホームルームが始まる直前だった。クラスメイト達の笑い声。私は汗だくだった。髪型が乱れていたかもしれない。しかし私は何も気に留めず、席に着き、リョウの席を確認する。
教卓から見て、一番右後ろ。クラスの隅っこ。隅に関わらず、リョウはいつも目立っていた。もはやリョウには席の場所など関係ない気もしたけど、あえてリョウはその席を選んだのだという。
くじで。
私のクラスの席替えはくじで決まる。あらかじめ席に番号が割り振られ、ランダムに番号が書いてある紙を各自一枚引くというもの。
リョウは、あえてこの席を選んだと言っていたが、どうやったんだろう。今更ながら疑問に思った。……いや、今までそれを不自然に思わなかった私自身が不思議に思えてきた。
確実にリョウは自分でその番号を選んでいた。これは確信していい。私が今見ている光景が、それを物語っているからだ。リョウがその席を選んだから、それが自然に見える。
……それは不自然だし、問題視しなければならないことだけど。
リョウはいなくなっていた。その席ごと。
端だけが空いている。自然な形で。
「リョウは⁈」
隣の席の人に問う。ただのクラスメイト。
私はただならぬものを感じていた。この状況に。
「? 誰、そのリョウって人」
頭がおかしくなってしまいそうだった。いや、違う。おかしいのは、私じゃない。
「リョウよ、リョウ! ほら、あの席だった」
私はリョウの席だった場所を言う。
「おかしなことを言うなあ。そこは元から誰もいないよ。どうしちゃったの? 突然」
当然のように言われた。
違う。違う。そうじゃない。
ホームルームが始まった。先生はリョウのことは何も触れなかった。学校に来ていないのに、まるで最初からいないように。
それから近くの席の人に訊くが、誰も知らない。覚えていないといった感じ。
どうしていいか分からなかった。
どうしていいか分からない。
どういうこと?
何が起こってる?
私はどうすれば……
しばらく様子をみて、私も色々アクションを起こしたけど、効果は無かった。誰も覚えていない。もともと知らないように。
ただ、一つ。一つだけ、可能性を残していた。
それは光のようで、闇への入り口のようにも見える。
カイとメイ。二人は学校に来ていた。今も二人とも、教室にいる。
二人に訊くこと。それが怖かった。真実が聞けるかもしれない。覚えているかもしれない。だけど……覚えていなかったら。
なかなか私は訊けずにいた。
しかし状況は変わらない。リョウのいない平凡な時間が過ぎる。昼休みになった。誰も気にしない。
知っているのは私だけみたいだった。
「リン、今日は一緒に学食に行かないか?」
後ろから声。思わず飛び上がり、振り返る。
カイだった。隣にはメイもいる。
「……どうしたんだ、リン。今日は顔色が良くないぞ。具合でも悪いのか?」
半ば確信めいたものを感じた。
やっぱり。
「ねえ、二人とも。私達って、いつも何してたっけ」
「何って……なんだったかな」
「ぬぬぅ……」
メイも腕を組んで考える。
……覚えていない。いつもいつもリョウに振り回されていた生活を。
カイの顔が曇った。
「……誰か、いたのか。そうだ……誰か」
何か考えている。思い出そうとしている。
「だめだ、思い出せない」
「あたしも」
メイが大きくうなだれる。
「あー、もやもやするー。リンー、なんだっけー」
「リョウだよ、リョウ!」
「リョウ……リョウ……」
更にメイの顔が険しくなっていく。
もう……見ていてこっちが辛かった。
なんか、無謀なことをしている気がしてきた。無駄だ、無駄無駄。現実を受け止めろ。心の中でどこかの誰かがそう囁いている。
そう、もう無理だって。だって私は普通の人間だから。カイとは違う。リョウとも違う。私は私。ただの私でしかない。
諦念が心を覆っていく。真っ暗に、真っ黒に。
無理だ、駄目だ。
あのカイとメイですら覚えていなかった。それだけで確信的なんだ。どうにもならない。なんとなくではあるけど、少しは分かる。
これって、リョウの仕業だよね?
リョウがいなくなって、私たちは困って、苦しんで、悲しくなる。リョウはそれを避けたかったんだよね。
でも、どうして私だけ、私だけそのままなの。なんで私だけ。
「こんな気持ちになるなら、私も忘れさせてよ…………リョゥ……」
目を擦る。それでも水滴が服を濡らす。抑えても抑えても、目から涙が溢れ出る。
涙が止まらない。自然と私は泣いていた。いつからなのかも分からなかった。そして。
涙と共に感じていた。涙を流すこの今も……私は……リョウのことを忘れていくことを。大好きなリョウのことを全部。全部。
忘れたくないのに……
頭を優しく撫でられる。リョウみたいに優しく、二つの手が。
「泣くな、リン。大丈夫だ」
「あたしも一緒に居るからね」
なんでもないはずの慰めが、心に響く。
どうしたらいいのかな……私、どうすれば。
また、撫でられる。
「大丈夫だ、リン。何も心配するな」
カイの言葉。
「そうか……リョウ、か。一人の女を泣かせるなんてな。……大丈夫だ。リン。俺はお前達の味方だ。一生俺が守ってやる。……だいたいおかしかったんだ。今朝から」
メイがカイの言葉に頷きつつ言った。
「だね、カイ。あたしも。大切なものを忘れている気がしてるし、矛盾してることばっかりだったよ」
「そうだ。今朝からおかしい。この世界は。……まったく、全てにおいて中途半端過ぎるんだ。この違和感は何らかの力が働いているのは間違いないな。それはこの世界にだけだとばかり思っていたが、おかしいのは俺自身だと、そういうことだよな。これが、このリンが泣くでたらめな世界なんだな」
「たぶんそうだよ。靴箱の男子のとこ、途中が一つ空いてるなんて変だもん。昔からだった覚えもあるけど、違和感もすっごいあるし。先生も今日ずっと端の列にプリント一枚多く配っちゃってるし。たまに間違えることもあるかもしれないけど、先生全員だよ! しかも毎回毎回」
そうか……皆、完璧に忘れてしまったわけじゃないんだ。おぼろげに残ってて、それが違和感として……
「俺は今からこの世界の綻びを辿る。まずは俺が……俺自身を変える!」
刹那、カイのもとから圧力を感じた。空気が流れ、カイを中心に不揃いな弧を描きながら、風が吹き抜ける。
カタカタカタカタッ!
椅子が揺れる。教室に残っていた生徒はその音と風を感じ、ざわつく。誰も中心がカイだとは思っていない。
大きく風が通り抜けたと思うと、もう全て収まっていた。
「…………思い出した。思い出したぞ、リン。全部、全部。…………リョウめ。味な真似を……ははっ、ははははははははっ」
カイが手で目を押さえて笑う。
どうしたんだろう。
「カイ?」
メイまで心配そうに見つめる。
「はははっ……はは……大丈夫。平気だ。全て思い出したんだ、リン。リョウのこと、全部だ」
カイが笑顔で親指を立てた。
「……どうやって」
「俺の力は知ってるか?」
「うん。詳しくはないけど」
きっとリョウのことだから、全てを教えてくれてはいないだろう。
「その能力で頭を変えてみたんだ」
「頭?」
「主に記憶能力の分野。中でも、思いだす能力を高めた。最大限にな。すると思い出せたぞ、リョウのこと」
声が出なかった。だけど、ものすごく嬉しかった。
とにかく嬉しかった。一人じゃなくなった。僅かな希望が形になった気さえする。
「カイー! あたしも思い出したいよー」
カイの袖でメイが駄々をこねていた。
「ん、そのうち思いだせると思うが」
「え、どゆこと」
「俺は今思い出してみて感じたんだ。メイ、お前がリョウのことに触れれば触れるほど、お前も思いだせるさ。これは完全に忘れ去ったわけではない。皆、記憶の底に沈められてるだけなんだ」
記憶の底に……
私は沈まなかった?
「じゃあ、リョウって人のことをたくさん教えてよ。だったらあたしも思いだせるんでしょ?」
「そうだな」
それからリョウのことについて、うんとメイに話した。容姿、人柄、今までのこと。ありったけ。
かつてリョウは神童と呼ばれていた。
近寄る大人はいつもスーツを着ていた。
毎日リョウと遊ぶ。そして帰りも私達は一緒に。しかし、幼ながらに私は疑問に思っていた。
どうしていつもリョウの家の前では、大人の人が待っているんだろう。……その人達は、リョウの家族でもないのに。
しばらくして、私たちは街の小学校に通い始めた。後から聞いた話、その時リョウは有名私立の小学校からの推薦を蹴っていたらしい。理由は一言。
『仲間といっしょがいーから』
リョウは私達と一緒に登校した。同じ学校へ通い、一緒に授業を受ける。昼になったら、当然のように一緒にご飯を食べて、遊ぶ。
入学してからも全国津々浦々の学校から、推薦文と転入手続きの勧めがリョウに届いていた。そのたびに一蹴していた。リョウにとってはあり得ない選択だった。
ちなみにリョウの両親は、超放任主義。リョウは自由人種と呼んでいた。そんな彼らはリョウの進学先について、我関せずといった態度をとる。……それでいいのか。
その放任主義が、今のリョウの一人暮らしを支えていた。普通の親ならここまで放置はしない。リョウも自立してるから可能なんだろうけど。
だから、今回のリョウのこと。これはリョウ自身が選んだこと。それに違いはないと思う。じゃなかったら、そうせざる得ない状況だったとか。
「なるほど……あたし達の記憶を押し込めるまでしないといけなかった、ということですな」
話しているうちにメイも思い出してくれた。
今までのことも、全部。
「そうなるよね」
「あと不明な点が幾つかある」
カイが私達の盆を持って、とっていたテーブルにつく。学食は変わらず混み合っている。
とりあえず話は昼食を摂りながら、ということで食堂まで足を運んだ。
「しかしどうやらその多くは、この一晩の変化による綻びのようなものらしい。放っておけば消えて無くなる」
「そうだよね。このままじゃ本当に最初からいなかったことになっちゃいそう」
「心配するな、リン。なんとかなる。少なくとも俺達は忘れたりなんかしないさ。なあ、メイ」
「ったりめぇよ!」
不明のノリでメイは答えた。
そうして数日経った。
あっという間に日が過ぎて、今。
「……あと、リン。これは、とても言いにくい話なんだが……リョウのことを思い出した時に、同時に思い出したんだ。これは疑わないでくれ」
「どうしたの、急に。疑ったりなんかしないよ?」
「そう言ってくれるか。……一つだけ、注意というか、頼み……とも少しニュアンスが違う。……警告、か」
「だから、どうしたの?」
「そうだな、これは警告に限りなく近い。ほぼ俺からの警告として、聞いてくれ。リン。一つ、忠告だ。……決してリョウの元へ行こうとするな。ましてリョウを追いかけたりもだ。絶対に」
「えっ、何。どういうこと? 冗談、なの」
カイが冷静な眼差しで私を見る。その目には初めから冗談など込められていない。
本気の……警告のようなものだ。
「絶対にだ」
「う、うん」
カイに気圧され、私は首を縦に振っていた。
しかし。
「でも、なんで」
腑に落ちない。どうしても。
「昨日の夜、リョウから電話があったんだ。話したことは、そのリョウの転校の話だ」
「リョウの……」
少し意外だった。
ちゃんとリョウはカイとメイに連絡してたんだ。身の周りが、こんなになるくらいだし、連絡なんてしていないと思ってた。
「俺は、そこで、転校先を聞いたんだ」
「転校先……?」
「そこにリョウはいる。今。確実に」
「‼ カイ、どこ? リョウはどこに行ったの⁈」
「そこは、……ダメだ。リンは行っちゃいけない」
静かに告げられる。カイの忠告。
「でも、リョウは、いるんでしょ?」
「俺としては、リョウも……行くべきではなかった」
「私もそう思ってる! でも、リョウは行ってしまった。一人で、一人きりで。そうでしょ? こんな突然……昨日まで一緒に遊んでたのに。事実だけ言って、出発の言葉も、リョウの気持ちも聞いてない! こんなの、私、嫌だ! だから……今から、そばに居ることくらい―――」
「ダメだ」
「だって、私」
「ダメだ。どんな理由があろうと」
「なんで、ダメなの?」
「……俺が、お前を守ってやれないからだ。不甲斐ない話だがな」
カイが自嘲気味に言う。
「俺でも危険だと思われる場所だ。それを、お前を護りながら、なんて技量は俺も持っていないんだ。……お前を守ると言いながら、どうしようもない時は、結局、お前を危険から遠ざけるだけなんてな」
今のカイが守れない。かなり危険。
そこが、どんな場所なのか、想像もできなかった。リョウの今いる場所がとても学校だとは思えない。
まるで、戦場じゃない。
「…………」
下唇を噛んで、俯く。
今はこうするしかできなかった。
―――それからもまた数週間が過ぎて、私達は一般的にごくごく『普通』な日常を過ごしていた。
リョウのいない、非日常を。
数週間で、気付いたことがいくつかある。
一つ目。リョウがいなくなった直後は、まだ皆の記憶の中にはどこかにリョウがいた、ということ。これはリョウの存在していた事実が目の前の現実との矛盾を引き起こしていて、大多数―――私とカイとメイ以外はそれを違和感として感じるだけだった。それでも私達以外にも思いだせる人はいないかと様々な人に聞いて回ったが、リョウのことを思いだせる人は皆無だった。しかし、その中の多くは生活の中で何かしらの違和感を感じている、といったことはあったのだが、それも次第に消えていって、今、リョウがいないことで違和感を感じて居る人なんてどこにもいなくなってしまった。
二つ目、と言っても、一つ目の延長上のことなんだけど。リョウが居た痕跡と呼べるものが全て消え去っていた。転校と言っていたのに、誰かが転校したなどという情報はどこにもない。というより、リョウの情報そのものが抹消されていて、探す手立てすら見つからない。……このことは私にとって大きな精神的打撃だった。
手がかりを失ったと同意だから。
刻々と時間は過ぎ去り、世界からリョウが消えていく。私はその過程をまざまざと見せつけられ、もう耐えられない。悔しい。気がおかしくなってしまうんじゃないか?
そう思っていたけれど、案外私の精神の耐久性は高かった。そう思った。
しかし、それは耐久性が高かった……なんてものじゃなかった。
この私が耐えられるはずがなかった。何週間も。
つまり、どういうことか。
それは、私の中で、私を苦しめているリョウへの思いが、小さくなっているだけだった。
じわじわと。私の中でリョウが薄くなっていた。滲んで、ぼやける。記憶が押し込められているのではなく、これは……消えていってるんだ。記憶は押し込んだら、思いだせる。消えてしまったら思いだせない。
そんなことは分かっている。だから忘れたくない。忘れたくない。絶対に。忘れたく……なんか。
「忘れてやるもんか」
声に出す。決意を胸に。気持ちを、この握り締めている拳に。
それでも、そんな私を嘲笑うように、頭の中のリョウは色を失っていく。
砂浜に描いた絵の上を波が覆い、揺れながらそれを消していくように。
私の記憶からリョウが消え始めていた。これが―――三つ目。
それと、あと一つ。
私は気が付いた。
「リン! どこへ行くつもりだ」
カイが私の前に立ち塞がっていた。学校から徒歩十分、駅の入り口。私は旅行に出るかのような大荷物を持っていた。
「……旅行」
はっきり言うべきだと思ったのだが、言葉は気持ちに反して小さなものだった。いや、これは気持ちに正直だったと言うべきか。
当然、旅行は嘘だ。
日曜日の早朝ということで、人も疎らだ。というか、知らないおじさんが一人ホームで座っているだけだった。
「今日は日曜日、明日は学校だぞ」
「日帰りで帰ってくるから」
「その荷物でか?」
カイが私の手元のキャリーバッグを指差した。それからリュック。
念のためと必要以上に衣類を詰めすぎたかもしれない。何日滞在するか分からないから、これくらい、女性としては……と言っても通用しないよね。
さっき日帰りって言っちゃったし。
発車時刻まであと四分。四分で電車がやって来る。それに乗り込めれば……
「リン。お前は行ってはならない。帰るんだ」
諭すような口調。カイが私の手を取る。
「俺がお前も護ってやる。ずっと。だから、リョウのことは……」
忘れろ。
事件が起こって数日経ち、カイの記憶が鮮明になってきた頃。カイの主張が変わった。
私に諭すようになった。
「忘れない。そう決めたから」
ずっと前に。そう。
「しかし、覚えていてはお前を苦しめるだけだ」
「楽しかった記憶を忘れることが正しいなんて思えない」
「正しい、正しくないの問題じゃないんだ。……忘れた方がいいこともある。辛いはずだ。楽しかった日々が無くなるというのは。それが幸せであれば、あるだけ」
「……」
いつだったか、もう思い出せないけど。私はリョウに言ったことがある。
―――忘れてしまうことって、時には辛いことで、良くないことだって。
「皆がリョウのことを忘れてしまっても、私はリョウのことを覚えている。ずっと」
カイが険しい表情で、こめかみを抑えている。
「だから、リン。皆が忘れているのが、異常なんじゃない。リン。お前がリョウのことをずっと覚えていることこそがイレギュラーなことなんだ」
「そんなことは、私にはどうでもいい!」
「お前を行かせるわけにはいかない。リョウを……信じろ」
話が噛み合っていない気がする。
私の言葉とカイの言葉は、同じ話題を話しているようで、全然違っているような感じさえする。
電車が走る音が聞こえて来た。アナウンスが鳴る。
「……電車が来る。カイ、通して」
「それは出来ない。……リン、思いだせ。約束を」
「約束?」
なんだろう。本当に話が合わない。カイの話が支離滅裂な風に聞こえる。
「そんなの知らない。私はリョウの所に行く! 皆が忘れてしまった、この世界から!」
「リン……お前も、あと少しで適応できるんだ。それに、リョウを信じれば―――」
「カイ、ごめんっ」
これ以上、話しているわけにはいかない。今日出発しないと、忘却の彼方へ置いていかれる。
私は、リュックから黒のビニールを取り出した。それをカイの顔に被せる。
「ッ! この」
カイは一瞬でビニールを取り去り、私の肩へ手を伸ばした。
早くも万策尽きた。そもそもここにカイが現れることは想定してなかったから当然だ。
黒のビニールはゴミ袋用。これでカイの視界を奪い、その間に走ることしか思いつかなかった。それも失敗。
背後から、大きな力が掛かる。見るとカイの腕があった。手はしっかり私の肩を掴んでいる。固く、動かない。
咄嗟に、何故か、私は式神を思い出した。なんで、今、そんなものを思いだしたのか理由も分からない。ただ、電流が全身を走るような衝撃と共に、頭に浮かんだ。
確か式神の紙は、リュックの右ポケットに入れていた。見ると、偶然にもチャックが開いている。
私は腕を伸ばし、式神を取り出した。
「―――ッ! それは!」
その式神を数枚、カイの腕に押し付けた。
「ごめん……」
「ぐぁぁ」
カイが唸った。肩に掛かっていた力が抜ける。同時に私は走り出した。電車は既に着いていて、私ドアを開けて、私を待っているようだった。
電車に駆け込む。
プシュー……
音がする。
すぐに後ろからカイが走って来たが、すぐに電車は扉を閉じて出発してしまった。
「助かった……のかな」
とりあえず、一安心。
しかし、さっき。どうして私は式神の使い方が分かったのだろう。式神は一回しか使ったことがなくて、しかもよく分からないうちに終わっちゃったし。それから使う機会もなくて。
というか、どこから式神を使うという発想はどこから。
……うーん。考えても切りがない。だって、閃いたんだから。思いついちゃったんだから、それ以外に理由はない。ただそれだけ。
さて。私はこれからリョウに会いにいく。この場所から。この世界から。
空いている席に座ると、思考に耽ることにした。
まずリョウに会ったらなんと言おう。なにせ久々だ。しかも、こちらからわざわざ会いに行っている。……最初はどんな言葉を。
……やばい。何も思いつかない。何を言ったらいいんだろう。
「……来ちゃった。てへ?」
……いやいやいやいや。今のは無い。あり得ない。
口にしただけで恥ずかしかった。私、そんなキャラじゃないし。
ええと、それじゃあ……
「リョウ。久しぶり。元気だった?」
……それっぽい! けど、なんか違うなぁ。
ちょっと距離があるというか。
「リョウ……会いたかった……」
あ、なんか、いいシーンみたいで良さそう。……だけど、これ、遠距離恋愛してる人みたい。私達、まだ恋人同士でもないし。
……まだ、って。うわー……自分で考えといて、何、考えてるんだろ、私。浮かれ過ぎ。
だいたい、そう。ただ幼馴染に会いに行くだけ。それで、元の場所連れ戻すだけなんだ。だから……別に……浮かれてなんか……
ただ……ずっと会いたかったリョウに……会うだけで……
「…………きゃっ☆」
浮かれ過ぎ。ひとまず今更ながら、周りを見渡す。今のを誰かに見られたら、すごく恥ずかしいし。
………………。
見られてました。
車両の角に、小学校低学年くらいの女の子。すごく冷めた目で私を見ていた。
「……なーんてね。はは……」
無情にも女の子は視線を窓の外へ逸らした。
キャラじゃないことはするべきではないという、いい教訓になった。
カイの言葉。心地よい電車の奏でる音と共に、一つ一つ思考を巡らせた。
どういう意味だったのか。どんな意図で。何故言ったのか。真意は? どんな解釈ができる?
考えても答えが出てこない。
リョウ忘れろ?
嫌だ。そんなことあり得ない。なんでそんなことをカイは言い出したんだろう。
私がイレギュラー。
それは、この世界の人達から見たら、ではないのか。
リョウを信じろ。
何を? 何故? 信じる、信じないも何も、ここにリョウはいないじゃない。
約束?
なんのことだかさっぱり分からない。私は誰と何を約束したのだろう。カイはそれを明言しなかったから、解らず終いだ。
適応?
私達以外から見たら、リョウを忘れることを忘れることこそがこの世界の一部になれる。つまり、適応するということなんだと思う。
やっぱりカイの話が掴めなかった。
リョウのコトも、だいぶ忘れていってる。それも今日までのはず。
私の出した仮説。それは、この世界がおかしくなったのではない、ということ。
この世界がおかしくなったのではなく、元々おかしなリョウのいない世界に迷い込んでしまったんだ。
そして、リョウはこの世界に細工した。あたかも、この世界に自分がいたような痕を残した。これによって、この世界の住民が、『元々無いものが存在する』違和感を覚えたんだ。違和感は『元々あったものが無い』違和感じゃなかった。
これが答え。どこにもリョウの行き先も何も残ってないのも当然。この本物そっくりの世界には、元々リョウは作られていないから。
ここは作られた世界。この世界を作ったのは、リョウ。……リョウが超能力のようなものを使えることは、今までのことを考えると簡単に予想できた。リョウの能力こそが、これ。世界を作り出すことなんじゃないか。
ここを別世界と考えると。
この世界を作ったのは、リョウ。
そして、この世界のマスターは、カイ。
この世界で、絶対的権利を持っている。それは本来リョウが持っていたけど、カイに渡した。この世界で、私を守るため。
そう考えるべき。
外の世界では、本当に、リョウは転校してるんだ。転校しているだけ。
それが、こっちの世界では、いないことになっている。私を置いたまま。
リョウの言った言葉の矛盾は、そういうことじゃないだろうか。向こうの世界では、短期転校。
この世界のメイとカイは、たぶん本物―――リョウのいる世界のメイとカイだ。私達と一緒にこの世界に来た。たぶん、そのことにメイは気付いていない。私と同じなんだ。つまり、放っておけばリョウのことを忘れる。というか、実際忘れていた。私も忘れてしまいそう。もしかして式神のお守りのお陰かな。
これも私の推測でしかないんだけど、たぶん、カイは最初から忘れてなんかいなかった。忘れたフリをしていた。なんで? それはこの世界が『皆がリョウを忘れてしまった世界』と思わせるため。そのカイの演技に惑わされ、すっかり私は周りの人間が忘れてしまったのだと思い込んでしまったんだ。
この創り出された世界は、どことなく昔のロールプレイングゲームに似ている。構造というか。つまり―――他人が村人Aみたいな。ものすごく臨機応変に返答してくれる村人A、とまあ、そんなところかな。本物の世界の人物とリンクして、本物と同じように動く。
ここまで分かったのは、ある人がいたからだ。
これが最後に気付いたことである。
この世界における、私以外の唯一のイレギュラー。
そんな人物がこの世界にいた。
―――清崎さくら。
彼女は毎日、日記を書いていた。毎日、毎日。時折、それを学校に持って来ていることがある。そんなこと私が知る由もなかったんだけど。
掃除時間中、私は教室でつまづいてしまった。その時、咄嗟に近くにあった机に手をついて、倒れずに済んだのは良かったんだけど、そのせいで机を押してしまい、勢いで少し、机の中のモノが床に落ちてしまった。その中に、日記があった。
別に覗き見たわけじゃない。落ちたとき、偶然ページが開かれていた。
そこには、日々のことが書かれていた。あるべき日常が。もう一つの世界のことが。
元の世界の人間と行動がリンクする。きっとリンクが強すぎて―――いや、一個人の書いている日記の内容まで関与していないのか―――本物の世界のことが書かれたのだろう。
私と、メイと、カイが行方不明。リョウが転校。
この世界はロールプレイングゲームと似ている。きっと、これは製作者側の気付かなかったバグだ。
私は、この日記のことを清崎さんに問いただすと、何かに気が付いた。思い出したとも、知っていたとも言えることだけど。少なくとも彼女は、自分の経験したことと日記に書いた内容が異なっていることに、僅かながら気付いていた。そして彼女本人が話したのが、この私の仮説の基盤。
今更だけど、彼女に全てを話したのはどうかと思う。あくまで、この世界の人だし……ま、いっか。大丈夫よね。
少しセコいけど、ゲームのバグを利用させてもらいます。
あとは……
カイはこの世界のマスターだから、私以外の人の記憶でさえも変えることができる。それでメイを操作した、とか。私の記憶操作は、私がイレギュラーだから不可。
マスターだからといって、何でもできるわけではない。
「……と、こんな感じかな」
頭の中の整理、完了。
意外と複雑で、単純。ここまで分かったら、この世界から脱出するだけ。準備はした。
式神を使う。どうも式神は不思議な能力を消す力を持っているみたい。さっきも、それで、カイの強化された力を抑えた。
この世界が、誰かが不思議な能力で作ったのだとしたら……この式神が使えるはず。
これも清崎さんアイデア。この式神さん達は人型をしている。その手と手をくっ付けて、輪を作る。その輪で私自身を囲み、そのまま長距離移動する。例えば、電車とかで。
そしてこの世界の領域を越えたところで、元の場所へ引き戻されそうになる。その時、式ちゃん達が働くのではないか、ということだ。
失敗したら、それまで。
「輪を作って……っと」
ビリッ……
「あ」
電車の揺れで、式神くん、一名死亡。
「あちゃ、気をつけないと」
気を取り直し、もう一度。
せっせと輪っかを作った。
「できた!」
完成した式神連結を体に巻いて、接着。輪っか完成。
これで、きっと……
「―――っ!」
突然だった。すぐに来た。
式神さんを巻いて、一息つく前に。
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
世界が廻った。
………………。
…………。
……。
あの時。私が電車に駆け込んだ時、聞き取れなかったカイの言葉が、今、頭の中で駆け巡っていた。
『何が起こるか分からない! 危険だ! 戻れ! リン!』
最後まで心配してくれていた。
頭がくらくらする。意識も朦朧。
暗い。臭い。苦い。鉄臭い。赤い。黒い。気持ち悪い。吐気がする。
全身が痛い。どうやら私は床に倒れているらしい。起き上がれない。
とりあえず、腕をあげる。視界入った渡しの腕は、傷だらけで血が滴っていた。
あ、指が逆向きに折れてる……
不思議の痛くなかった。全身動かないのに。
強く頭を打ったみたいだった。
薄暗い。煙が上がっている。ガラスや機具の破片が散らばっていた。
「あぁ……」
よく見たら、お腹に深々とガラス片が突き刺さっていた。痛い、はず。それなのに私は麻酔を打たれたかのように痛みを感じなかった。
やっと周囲の状況を理解する。横になっていたのは私だけではなかった。乗っていた乗客、更には電車そのものが横向きに倒れているようだ。
……そうか。事故か何かが起こったんだ。それに巻き込まれて……
左目が見えない。目に触れてみる。感触が無かった。その代わり、手には赤黒く染まった血の色。
車両の奥からは火の手がドス黒い煙と上がっていた。赤く、黒く。
……はぁ。……もう、本当にやめて欲しい。
なんか……もう……真っ白になってきた。
だけど、一つはっきり分かる。
……私、元の世界に戻ってきた。帰ってこれたんだ。
何故なら、私の忘れかけてた記憶が元に戻っていた。これが証拠。
……頭がまた痛くなってきた。
リョウとのこと。リョウの笑顔。リョウの仕草。
リョウの言葉。
……
全部思い出した。思い出せた。
……
……そっか。……そういうことなんだ。
理解した。
…………
カイの言葉。約束。リョウが交わした私との約束。
―――『帰ってくる』
……
私は忘れていた。あの世界の中で。
忘れるまいとばかり考えて、大切なことを。
その言葉を。
…………
勘違いしてた、リョウ。
私は、ただ、待っていれば良かったのかな。
………………
今度は……待ってようかな。
いつまでも、いっしょにすごせるように。いつまでも
……いつまでも
どんなとき……も
わた……し、は……
………………………。