本祭・2日目
大学祭二日目、土曜日。休日とあって、昨日よりも来場者数は多い。パンフレット片手に出店や出し物を除く一般客や、その客引きに一生懸命な学生たちの賑やかな声が開場直後から聞こえていた。
盛況なのはいいことだが、昨日から始まったイベントによって、時折あちこちで騒動が起こっていた。今もまた、どこからか大きな声が聞こえてきた。「『狐』が出たぞ!」と叫んでいる。
山の中腹にあるとはいえ、大学構内で狐? と首を傾げる一般客もいたが、今、この大学内で『狐』と聞いてわからない者はそうはいない。イベントの内容が明かされた後、大判のポスターが目立つところに貼られたので、来場者のほとんどはそれを知っている。
【狐探し】。
数えきれないニセモノの中のたった一人、本物の『狐』を見つけたら願いが叶う。
そんな都市伝説じみたイベントは、非日常にある若者たちの好奇心を大いに刺激したらしい。一日目から学生を中心に、『狐』を見つけるたび盛大な鬼ごっこが繰り広げられているようだった。
未だ、本物の『狐』は見つかっていないらしい。それはそうだろうな、と千晴でも思う。
簡単にクリアできてしまうゲームなんて誰も求めていない。【狐探し】に走り回っている学生たちもきっとそうだ。
本物が現れるのは三日目だろう。
それは不文律として、皆が了解していることのようだった。今はただ、奇妙なゲームに参加していることそれ自体を楽しんでいるだけだ。
騒ぎを見るたびに、正直言って内心穏やかではいられない。
それでもどうすることもできず、遠巻きに見守るばかりだ。
「あ、いた! 皐月くん、探したよ!」
よく響く梨佳子の声に、周囲の視線が集中する。その中で平然と手を上げたのは、数人の学生に囲まれてベンチに座っている眼鏡の男。
「よう。どした?」
「どしたじゃないよー」
躊躇なく近づいていく梨佳子に遠慮してか、「またねー、皐月くん」と言って先客の学生たちが立ち去っていく。
それに軽く応えた彼の髪型は、いつにもましてふざけていた。某夢の国のネズミの耳を付け、前髪を赤い水玉のリボンが付いた髪留めで留めた格好だ。
そんな浮かれた頭に反して、何やら渋い顔でパックのたこ焼きを口に入れている。
「なんなの、その頭」
至極当然の疑問を梨佳子が口にすると、彼はたこ焼きを咀嚼しながら答えた。
「さっきの奴らに着けられたんだよ。俺がハズレを引いたからな」
「ハズレ?」
「ロシアンルーレットたこ焼き。六個中一個にハバネロソース入り」
それは辛そうだ。渋い顔をしていたのはそれが理由だったのか。
同じく渋い顔になった梨佳子と千晴を見比べて、彼は「で?」と聞いた。思い出したように、梨佳子が身を乗り出す。
「ああ、そうだった。皐月くん、『狐さん』見てない?」
たこ焼きを飲み込んだ皐月が、ちらりと千晴を見て言った。
「見たさ。そこらじゅうウロウロしてるんだから」
確かに、彼の言葉は正しい。イベントが公開された一日目の午後あたりから、企画に便乗した狐面の人物が激増していた。出店にも狐、講義棟内にも狐、ステージの観客にも狐だ。それも手伝って、【狐探し】は熾烈を極めている。
梨佳子はもう、と眉を吊り上げた。
「そんなのが訊きたいんじゃないんだって。皐月くんは本物の『狐さん』を、知ってるんじゃないの? 企画の発案者が実行委員長たちだっていうのも知ってたらしいじゃない」
皐月は苦笑を浮かべて首を振る。
「知ってたとして、言えるかよ。聞くなら本人に聞けば?」
「聞いたよ。本人を締め上げても吐かなかったから、仕方なく皐月くんに聞きに来たんでしょ?」
梨佳子が苦い顔になる。実際、千晴もその現場に居合わせて見ていたが、彼女は文字通り香川の首を「締め上げて」いた。息も絶え絶えになりながらも、香川は頑として口を割らなかった。
それはそうだろう。彼らが長い時間をかけて準備してきた企画なのだ。その苦労を無に帰すような情報を、あっさり教えてくれるわけがなかった。
アナウンスがかかり、実行委員の集合を呼びかけるのを聞いて、梨佳子はスピーカーの方を睨んだ。
「ああ、もう。たった30分じゃ休憩にもならないよ」
「ごめんね、梨佳。休憩時間まで使わせちゃって」
彼女はぐるりと振り向いて、今度は千晴を睨んだ。
「私の時間をどう使うかは私の勝手でしょ? 私は行かなきゃだけど、千晴は皐月くんを絞め殺してでも『狐さん』のこと、聞き出さないとだめだからね」
随分と過激な発言をして、本部の方へ走って行った。嫌そうな顔で見送った皐月は、視線を上げて千晴を見た。
「で、俺は絞め殺される運命なの?」
「まさか。勝手を言っているのはこっちですから。……すみません。私がはっきりしないから、梨佳子が張り切っちゃってるんです」
嘆息すると、ベンチを叩いて座るように促される。従って彼の隣に腰を下ろし、正面を見たまま話す。
「皐月さん、梨佳子とも仲が良かったんですね」
梨佳子は頻繁に図書館を利用しているタイプではなかったから、少し意外だった。
「俺、在学中は実行委員やってたことあるし。それでいろいろ、話す機会があってな」
……なるほど。香川たちの企画を知っていたのも、相談を受けるか何かしたからだったのだろうか。
「それで? はっきりしないっていうのは?」
ぐっと言葉に詰まる。彼には既にいろいろと知られているけれど、だからこそ、余計に気まずい気分になる。俯いて、声を絞り出した。
「……昨日、開祭式で企画のこと聞いて。皐月さんが言ってた意味がわかりました。『狐さん』は、大学祭が終われば、いなくなっちゃうんですね」
「だろうな。『狐』はあいつらが今回の企画のために作り出した、広告塔みたいなもんだ。当然、企画が終われば『狐』の役目は終わる」
頷いて、千晴は唇をかんだ。
「それを知って、私、嫌だって思いました。『狐さん』を見失いたくないって。やっぱり私は彼が好きだったんだなって、わかりました」
「お前、それまでわかってなかったの?」
呆れた風に言われて、頬が熱くなる。
「も、もうちょっと前から、そうかなとは思ってましたよ。でも、なんか実感がなくて」
その実感がこういう形で与えられるとは思ってもみなかった。始める前からタイムリミットが設けられているなんて、あんまりだ。
俯く千晴に、皐月は気のない口調で言った。
「タイムリミットのない恋なんか、そうそうあるかよ。学生なら卒業ってもんがあるし、そのうち相手に恋人ができる可能性だってあるわけだろ。そんなに悲観することもないんじゃないの?」
彼は励まそうとしてくれているのだろう。それでも千晴は、ますます俯きたくなった。
すると、近くで面白そうな声がした。
「あーれえ、皐月先輩。また女の子たぶらかして泣かせてんの?」
驚いて顔を上げる。正面に、白衣を着た女性が立っていた。彼女は女性にしてはハスキーな声で、皐月に向かって続ける。
「さすがだね。『偏屈貴公子』は健在ってこと?」
「人聞きの悪いこと言うな、宮藤。それからその呼び方もやめろ」
一気に不機嫌面になった皐月に睨まれても、女性は気にした風もなくからからと笑った。
「冷たいなあ。可愛い後輩で、かつては同じ変人として名を轟かせた仲じゃないのー」
思い出した。「変人」で名前が「宮藤」と言えば。
「うるさいよ、『凶悪の宮』。お前と違って、俺は三大変人なんて称号はめちゃくちゃ不本意だったんだからな」
顔をしかめた皐月が答えをくれた。彼女が三大変人に名を連ねる理学部の院生に間違いないようだ。宮藤はからからと笑う。
「だって、面白いじゃないの。研究室にこもって夜な夜な実験を繰り返し、九尾の狐や三つ目の蛇を造り出す奇人変人。どこのマッドサイエンティストだよ、って感じだよね」
どうやら彼女は噂を気にするどころか、大いに楽しんでいるらしい。ぽかんと眺めていた千晴に気づいた彼女が、にっと笑う。
「君はここの学生?」
「……え、あ、そうです」
「じゃあ、私のことは知ってるか。どうも、宮藤涼子です。ところで前代の三大変人に、興味ない?」
「やめろ、性悪。そんなだからいらん二つ名がつくんだ」
心底嫌そうな顔で皐月が遮る。よほど触れられたくない話題のようだ。
対して笑みを浮かべる宮藤に、応えた様子は全くない。
「やだな、先輩。私は散歩ついでに出会った後輩と、親睦を深めようとしてるだけだよ」
「散歩ぉ?」
「そう、散歩。この子と一緒にね」
胡散臭そうに眉を寄せる彼の前で、宮藤はくるりと後ろを向いてみせた。白衣の中に着たパーカーのフードがもぞもぞと動き、ぴんと立った大きな耳がのぞく。続いて現れた小さな顔とつぶらな瞳に、千晴は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「かっ、かわいいぃ!」
ふわふわした薄茶の毛、イヌ科特有の細長い口吻、ちょんとフードの縁にかかった小さい前足。不釣り合いなほど大きい耳と相まって、まるでぬいぐるみだ。
目を輝かせる千晴と違ってテンションの低い皐月は、怪訝そうにその動物を眺めている。
「なんだそれ。狐か?」
「そう。イヌ科最小のフェネックちゃんです。ラブリーでしょ?」
こくこく頷きながら触ってもいいですか、と聞くと快諾してくれた。大きな耳の間を毛並みに沿ってそっとなでると、気持ちよさそうに目を細めて欠伸した。かわいすぎる。
「夜行性だから眠い時間帯のはずなんだけどね。研究室で暴れるから連れてきちゃった」
「え、研究室で飼ってるんですか?」
「春に教授がもらってきたの。箱に入って捨てられてたのを、知り合いが拾ったんだって。学生がかわいーかわいー言って勝手に世話するのをいいことに、教授が研究室で飼い始めてね。でも長期休暇の間なんて誰も来ないから、ほとんど私ひとりで世話したんだよ? 不公平だよねー」
不満そうに愚痴る宮藤の背中で、フェネックは再びフードに潜り込んでしまった。眠くなったのだろうか。もうちょっと見ていたかったのに残念だ。
それにしても捨て猫ではなく捨てフェネックとは。そんなこともあるのか。
皐月が呆れ気味に口を挟む。
「どうせお前が一番好き勝手に研究室を使ってんだから、そのくらいいいだろうが。なんか怪しい実験だのなんだのやってんだろ?」
「先輩まで噂を鵜呑みにしないでよ。フェネックの尻尾はちゃんと一本だったでしょうが」
確かに、ふわふわの毛並みに覆われた尻尾は普通の狐と同じ一本だけだった。でも、九本あってもかわいいんなら許せる気がする。
妄想している間に、宮藤はちゃっかりと皐月が持つパックからたこ焼きを素手でつまんで頬張っていた。
「なんだ、冷めてるなあ。たこ焼きはやっぱり焼きたてが一番だよね。先輩、おごって?」
「たこ焼き泥棒にたかられる筋合いはない」
「いいじゃん、無料券持ってんでしょ? 学生にもらってるの図書館で見たもの」
油断も隙もない、と彼女を睨んで、皐月は追い払うように手のひらを振った。
「とっとと巣に帰れ。大学祭になんか欠片も興味持ったことないくせに、どういう風の吹き回しなんだか」
「その風のうわさで、今年は大学中を派手な狐がうろうろしてるって聞いてね。なんだか面白そうだから、うちの狐も連れてまぜてもらおうと思ったんだよ」
その言葉に、無意識に顔がこわばる。気づいた宮藤が、軽く首を傾げた。
「どうかした?」
「いえ……」
あいまいに首を振る。横で皐月が彼女に違う話を振って意識をそらしてくれた。本当に、彼には世話になってばかりだ。
どうしたらいいのだろう、とぼんやり考える。考えれば考えるほど、ごちゃごちゃと絡まっていく気がする。
もしも、『狐さん』を見つけたとして。自分は、どうしたいのだろう。恋しているのなら、好きです、と伝えるべきなのだろうか。
でも、伝えてどうなる? 彼のことを何も知らないし、彼の方も千晴のことを知らない。何も知らないままに、伝えていいことなのだろうか。
恋するということは、どこかもっとシンプルなものだと思い込んでいたけれど。
好きと伝えて、好きになってもらって、付き合って。その間にも前後にも、多くの複雑なものが隙間なく詰まっている。その中では、自分の気持ちさえ見失ってしまいそうになる。
思わずついたため息は思ったよりも大きかったらしく、宮藤の視線が千晴を見つめた。にっと目を細めて笑う。
「悩んでる顔だね」
彼女の顔を見ていられず、俯いた。
「そう、ですね。今、自分で自分がわかんないんです。見失いたくないものがあるんですけど、どうにかしようと考えれば考えるほど、ますます見失いそうで」
「そっか。じゃあ、一回見失ってみたら?」
「……え?」
驚いて顔を上げると、彼女は軽く背中を見せてあっけらかんと話し出した。
「この子、夜行性でしょう。人が寝るころの時間に活発になって、ギャーギャー鳴くの。それからケージの中でも部屋の床でも構わずに、ガリガリ引っ掻いて穴掘りする。毎日、毎日ね。これがアパートとかマンションだったら顰蹙ものだよね。そうじゃなくても、眠れなくて困ると思う」
でも、と彼女は真顔になる。
「仕方ないよね。この子はもとは野生動物だったんだもん。砂漠で穴を掘って、涼しい夜に活動してたの。それが生まれる前から本能に染みついてるの。人間の都合で躾けられても、捨てられても、それでも変えようがない。この子は生まれる前からこの子なんだもん」
ふいに笑顔になって、彼女は正面から千晴を見た。
「だからね、一回見失ってみなよ。考えるのやめて、わかんなくなって。それでもやめられない、消えないものがあったら。それがあなたの本物なんじゃないかな」
目を見開いて、彼女の顔を見上げていた。
やがて息をついて、小さく笑う。
「すごくいいですね、それ。……でも、すごく難しそう」
手当たり次第にすべてを抱えるよりも、すべてを捨ててしまうことの方が、ずっと難しい。場合にもよるのだろうけど。
宮藤が手を伸ばして、ぐしゃぐしゃと髪をかきまわすように頭を撫でた。
「大丈夫だって。間違ったって死にやしないんだから」
「極端だな。っていうか、狐と一緒にすんなよ」
苦笑交じりの皐月が腕をどけさせて、宮藤と軽快に何か言い合っている。千晴は髪を直しながら、晴れた空を仰いだ。
本物は、見つけられるだろうか。
わからないけれど、混沌としていた行き先に、かすかな目印が見えた気がした。明日にはまた不安に紛れて消えてしまうかもしれない、頼りないものだけれど。
それでも今日のところは、平和そうな空の色を信じて、楽観的になってみよう。
そう決めて、いつの間にかまたおごるおごらないの論争になっている二人の会話に加わった。