本祭・1日目
ぽんぽん、と気の抜ける音を立てて煙だけの花火が上がる。見上げた空は快晴。清々しいくらいの大学祭日和だ。
裏門をくぐると、もう音楽やざわめきが聞こえてくる。開場まではまだ間があるが、早くも調理を始めた出店からか、いい匂いもしてきた。
手作り感満載の飾り付けをされた出店のテントの間を歩いて、目立つ場所に設営された実行委員会本部テントを見つける。今日も忙しそうに立ち働く実行委員の中に友人の姿を見つけて、近づいた。
「おはよー、梨佳。頼まれた朝ごはんと、差し入れ」
手に持ったコンビニの袋を掲げてみせると、だっと駆け寄ってきた梨佳子に抱きつかれた。
「千晴ありがとー、助かるよお。ほんとにトイレに行く暇もないくらいでさ。ね、ついでに時間ある? ちょっと手伝えない?」
慢性的な人手不足は解消できていないらしい。特に用事があるわけでもない千晴は、気圧されつつ頷いた。
「まあ、できることなら」
「大丈夫、簡単な雑用ばっかだから。たまるとこれも厄介なんだけどね」
言いながら、何かの表とチケットの束を渡される。手元のチケットの番号を表と照らし合わせて、チェックすればいいらしい。
説明を受けてテントの隅でペンを構えたところで、「こら、辻梨佳子ー」と咎めるような声が近づいてきた。
「実行委員の仕事によその子を巻き込むなよ。手伝いは昨日だけだったんだろ?」
顔を上げると、軽く眉をしかめた背の高い男子学生が立っていた。実行委員長の香川だ。梨佳子は、頬をふくらませて彼に訴えた。
「だってー、実行委員長。ぜんぜん手が足りないんですよー? 私なんて、まだ朝ごはんも食べてないんだから」
「ばかやろ、そんなの俺もだよ。祭りが終わるまで実行委員に安息の地があると思うなよ!」
「えー」
ノリは軽いが、手が足りていないのは見ていればわかる。あの、と口を挟んだ。
「私、他の団体に所属しているわけでもないし、正直大学祭中はヒマなので、手伝えることは手伝いますよ。って言っても、できるのは雑用くらいなんですけど」
香川は瞬きして千晴を見つめ、次いで梨佳子に視線を移した。
「良い友達持ったなあー、辻。お前にはもったいない」
「でしょー? って、失礼ですね」
顔をしかめた梨佳子が、彼の背中を押しやる。
「いいから、委員長は委員長の仕事してくださいよ。開場まで間もなくなんですから」
「わかってるよ。お友達も無理しないで、遊びたいときは遊びに行きなよ?」
「そんなの私らには言わないくせに、腹立つなあ」
香川の背中を睨みつける梨佳子に苦笑しつつ、表に視線を落とした。
「それだけ、梨佳や委員の人たちは戦力に数えられてるってことじゃない」
「そうかなあ。ま、いよいよ本番だしね。忙しいのはわかってたことだし、仕方ないかー」
そんな風に言いながらも、顔はほころんでいる。周りの実行委員たちも、連日の準備で疲れもあるだろうに活気にあふれている。ここまで自分たちの手で作りあげてきた大学祭が始まるという緊張感と、楽しさがあるからだろう。
「あ。そうだ、千晴。一緒に開祭式見に行こうよ。今年のは派手になるよお。『巨大プロジェクト』ってやつ、委員長たちの発案なんだけど、私らもまだ内容知らないの。かなり張り切ってるみたい」
あれの発起人は彼らだったのか。
興味を持っていたのは事実なので、一も二もなく頷いた。騒がしいのは嫌いだと言っていたのはついこの間なのに、すっかりその渦中にいる自分を不思議に思いながら。
三日間に及ぶ本祭の初日は金曜日で、平日のためか一般客の姿は少ない。それでも、開祭式が行われる講堂前の広場に設置された野外ステージ周辺には、相当な数の観客が集まっていた。前夜祭の比ではない。
「ほとんどうちの学生っぽいけど、すごいねこれ」
「うん、予想以上だよ。サプライズイベントの宣伝効果はあったかなー」
ほくほく顔の梨佳子の言う通り、この開祭式はかなり注目を集めているようだ。広場の両脇に並ぶ講義棟の窓から顔を出している者たちまでいる。
無人のステージ後方に連なる暗幕は、音楽機材でも隠しているのだろうか。詳しくないのでわからないが、銀色一色のステージ上で真っ黒なその一角は目を引いた。やがて、アナウンスがかかり、式が始まる。
昨日と同じステージの上に、今日は香川ひとりが現れた。朝の光の中で笑みを浮かべ、来場してくれたことへの感謝と、準備に明け暮れた学生たちへの労いの言葉を口にする。堂々と背筋を伸ばした姿は、いつも以上に大きく見えた。
『さて、これからいよいよ、秋紅祭は幕を開けます。その宣言の前にひとつだけ、イベントの告知をさせてください。僕たちがこの祭りのために半年以上かけて準備してきた、巨大プロジェクトについてです』
そして彼は、ステージの上手に視線を向けた。ほとんど同時に、前方で大きなどよめきが起こる。準備で出遅れた千晴と梨佳子は、ほとんど観客の最後尾の位置で顔を見合わせた。
「なんだろう」
「さあ……」
再び視線をステージに向けると、壇上に新たな二人の人物が上がってきた。一人は副実行委員長の榛井。そして、もう一人は。
「ねえ、千晴。……あれって、ほんとに?」
唖然とした梨佳子の問いに、答えることはできなかった。千晴自身もまた、自分の目を疑って、彼女以上に状況を理解できずにいた。
『このプロジェクトの主役は、彼です』
マイクで拡張された香川の声と彼の手のひらが示したのは、『狐さん』だった。白い狐の面をつけ、濃い藍色の作務衣を纏った格好で、彼はステージ上に立っていた。
大きくなる一方の観客のざわめきを意に介さず、香川は不敵な笑みを浮かべて続けた。
『――いえ、【彼ら】と言ったほうが正しいでしょうか』
彼の言葉と共に背後の暗幕が動き、取り払われた。現れたのは、無数の『狐』。いや、狐面をした人間だ。でも、一瞬そう錯覚するほどに驚いた。
隠れていた彼らがステージ上で一列に並ぶ様は、かなり異様だった。全員が同じ作務衣を着ているので、もう誰が誰だかわからない。その雰囲気に呑まれて、観客のざわめきが小さくなる。
『驚かせてしまいましたか? ですが、ご覧の通り。【彼ら】はこのプロジェクトの協力者です。三大変人のひとり、『狐』は僕たちがこの日のために準備しておいた伏線だったんですよ』
わっと、歓声ともどよめきともつかない声があがる。隣りで梨佳子も、「うわー、やるなあ」とむしろ呆れたように呟いた。でも、どれも千晴の意識には入らない。
そんな馬鹿な。『狐さん』が、作られたものだった?
じゃあ、千晴が出会ったのは。あの『彼』は、『誰』だったのだろう?
さっき、榛井とともに狐面の男がステージ上に上がった時、彼だと思った。でも、今はもうわからない。大小ばらばらな狐面の人間たちの群れの中で、最初の男がどこにいるのかもわからなくなってしまった。そのことに愕然とする。
その間にも、香川の声は続く。
『では、説明しましょう。このイベントの名は、【狐探し】。文字通り、狐を探していただくゲームです。ただし、探すのはこのニセモノの群れの中でただひとりの、本物の『狐』です』
本物? という観客の疑問に応えるように、榛井が大きめのフリップを掲げた。そこには、花のような赤い模様が描かれている。
『本物の『狐』の面の下には、この朱印が押されています。もちろん、ニセモノもありますからね。秋紅祭公式パンフレットの裏に同じ模様が描いてありますから、よく見比べてくださいよ。ちなみに、パンフ
レットは各所で無料配布中です。法外な値段で売りつけたりはしませんからご安心ください。お気軽にどうぞ』
空気が緩み、笑いが起こる。囃す声にもすまし顔で、香川はいっそう声を高めた。
『これはゲームですから、もちろん勝者には豪華賞品を用意しております。参加資格も年齢制限もなし、本物の『狐』を見つけた者が勝者です。ニセモノはどんどん投入していく予定ですから、そう簡単にはいきませんけれどね』
豪華賞品ってなんなんだという問いが飛び、香川は含むような笑みを浮かべて答えた。
『さて、勝った人のお楽しみ。本物を見つければ願いが叶う。そう言っておきましょうか。
ただし、お手柔らかに願います。構内にお稲荷さんの祠があるのはご存じですか? そのご不興を買いたくなければ、この祭りで手荒な真似はご法度ですよ』
釘を刺して、観客を大きく見まわした。にっと笑い、高らかに宣言する。
『それでは、これより秋紅祭を始めます。いいか、くれぐれも俺に迷惑がかからない範囲で、楽しめ! 以上!』
彼がマイクを下げて一礼すると、観客から盛大な拍手が送られた。速やかに一団はステージを下り、次のステージイベントのアナウンスがかかる。
観客はばらけて、学生はそれぞれの準備に急ぐが、あちこちでパンフレット置き場に殺到する人だかりが見えた。
「びっくりしたねー。ここまで手の込んだことをやるとは思わなかったなあ。だいぶ無茶な企画だけど、もりあがるよー、これは」
梨佳子がうきうきと言って、本部テントに足を向ける。そして、ついてこない千晴を訝しげに振り返った。
「千晴?」
「……あ、ごめん」
慌てて追いつくが、梨佳子は心配そうに顔を覗き込んでくる。
「なんか、顔色悪くない? 具合悪い?」
「ううん、大丈夫。ただちょっと、人に酔った、かな?」
俯いてそう言うと、「なんじゃくものー」と言いながらもその辺のベンチに座らせてくれ、止める間もなく飲み物を買いに走って行ってしまった。本当に具合が悪いわけではないのに、悪いことをした。
それでも、混乱のあまり立っていることさえつらかったのは事実だ。怒りとも焦りともつかないものが胸につかえているようで、気持ち悪い。考えれば考えるほど、頭の中はぐるぐると混乱していくようだった。
皐月の忠告を思い出す。
――『彼』が好きなら、急いだ方がいいぞ。たぶん、大学祭が終わればお前は『彼』を見失う。
終われば、なんてものじゃない。もう見失ったようなものじゃないか。
わからない。彼のことも、自分の気持ちも。『彼』が本当にいたのかすら、わからなくなってしまった。
やがて、梨佳子がぱたぱたと足音をさせて戻ってきた。
「お待たせー。お茶でいい? ってか、千晴に差し入れてもらったやつだけど。ちらっと見たら生協混んでてさー……、え、千晴っ?」
慌てた声をあげて、梨佳子が目の前にしゃがみ込んだ。
「どうしたの、泣くほどつらい?」
言われて、初めて気が付いた。梨佳子の顔がぼやけてにじむ。
そうか。つかえてたのは怒りでも、焦りでもなくて。自分は、泣きたかったのか。
膝に置いた手に重なる梨佳子の体温に、余計に泣けてきた。
「どうしよう、梨佳。私、見失っちゃう。そんなの絶対、嫌なのに」
声がつかえて喉が痛い。彼を見失うのが、こんなに怖いことだとは思わなかった。
ほんの少し言葉を交わしただけで、彼のことなんてなにひとつ知らないのに。
それでも確かに、恋していた。
とにもかくにも、こうして大学祭は始まる。
そしてそれは、波乱の三日間の幕開けでもあった。