【七】 ――契――
穏やかさを取り戻した集落の中心に、葵はぼんやりと佇んでいた。
邪神に乗っ取られていた珠姫が、謝罪したいと呼び出したのだ。それなら社で、と葵は言ったのだが、邪神の影響がまだ残っているせいで、社に近寄ると気分が悪くなるらしい。
もうじき祭りが行われるので、集落の中心部はわずかに飾られている。昔は、よく珠姫とで店を練り歩くなどして、夜遅くまで遊んだものだ。ほんの数年前なのに遠く感じてしまう。
「葵」
そこへ、珠姫が走ってくる。
「ごめんなさい、少し遅れて」
「いいよ、それで話って?」
「……結婚の、こと」
俯いて恥ずかしそうに、珠姫が言う。
そういえば、縁談については明確な否定の言葉を伝えていなかった。
少なくとも珠姫本人には。
「それだけど、僕は珠姫をそういう目で見ることはできない」
「……」
「僕にとっては友人で、姉で、妹で。だからムリだ」
それは、偽らざる正直な気持ちだった。
珠姫はしばらく黙って俯いていたが、少しして顔をあげる。
「それは、鈴李姫神様がいるから?」
泣いているような声がする。
「あの人がいるから、葵は……あの人のために、葵は、ずっと一人でいるの?」
「一人じゃないよ。鈴李が一緒だから」
「……あの人がいるから、わたしを拒絶するのね」
ぎゅう、と自分の手を握り締める珠姫。軽く爪が食い込み、肌が色を失った。邪神がいないにもかかわらず、いた頃とさほど変わらぬ幼馴染の言動に、葵はただただ戸惑うしかない。
しばらく無言で自らを痛めつけていた彼女は、その唇にうっすらと笑みを零した。
「……でも、もういない人だものね」
珠姫は、俯いていた。
俯いたまま、哂っていた。
「お父様に言ったの。あの邪神は鈴李姫神様の手のものだったって。二人は仲間で、力が無いことで疎まれるかもしれないから、神が呼んで退治したフリをしたんだって」
「え……?」
「力がない神様なんて、もうここには要らないの。……ねぇ、誰が確かめられるの? どうやって確かめるのよ。あの神を名乗るものが呼び出し、話しかける相手が神様だって、ねぇ」
「でも、それは」
「あんな神様、ほっとけばいいのよ! ねぇ、どうしてなの! 葵がどんなに仕えても、神様になれるわけでもないし、いろんな災いから守ってもらえるわけでもないのに!」
「珠姫」
「葵はあんなに仕えた、でも風邪は引く、怪我はする。ねぇ、どこにご利益があるのよ!」
はぁ、はぁ、と珠姫は肩で息をする。
月夜に映る瞳は潤み、彼女の必死さが伝わった。邪神は、珠姫を選んだ理由に都合が良かったと答えていた。それはつまり――目的が同じだったということなのだろうか。
今となっては確かめようもない。
確かめる意味もない。
「――ごめん、いかなきゃ」
葵は珠姫を押しのけて、社に向かって歩き出す。
その時だった。
社がある山が赤く染まる。
山火事か。それとも家屋が燃えているのか。
確認するために走り出しかけた葵の服を、珠姫は掴んだ。
「だから、ここに呼び出したの」
背後から、ぞっとするほど冷たい声がした。
その一言で葵は、何が行われているのかを一瞬で理解する。彼女が何を画策し、葵が知らないところで動いていたのかを。その結果が、自分の目の前に突きつけられていることを。
燃えているのだ、燃やされているのだ。
跡形もなく――燃やそうとしているのだ。
彼が愛したあの小さく寂しがり屋で、そして尊大で孤高な神を。
社ごと、この世界から消そうとしているのだ。
きっと鈴李は、それをくつくつと笑って受け入れたのだろう。
葵の身の安全を引き換えに。
「……離せ」
「嫌よ。葵は次の名主になるの。わたしの夫になるの。だから、危険を承知であの『影』と契約したのに。……あんな名ばかりの役立たずに、わたしの葵を渡したくないのっ」
その一言で、葵の中に張り巡らされていた何かが擦り切れた。疑念という穴にに答えがすっぽりと収まる感覚があった。もしかしたら――という逃げ場が一瞬で消し飛んでいく。
緩んでいた身体が力を取り戻した。
身体をひねり強引に珠姫を振りほどいて、葵は走る。
社に向かって全力で走る。
後ろから珠姫の絶叫が聞こえたが、完全に捨て置いた。
人々を掻き分けて階段を駆け上がる。足が悲鳴を上げている。
問題ない。走る。
「葵……!」
名主が驚いて振り返る。周囲の男たちが、葵を止めようと腕を広げる。
彼らを隙間を縫うように走った。小柄な体格が、この上なく役に立ってくれた。そのまま熱さなど気にせずに、完全に火が回った社の中へと飛び込んでいく。
――鼻を突く油のにおい。
きっとふんだんに撒き散らしてくれたのだろう。
だからこんなに燃え盛っているのだろう。
「いやああああ! 葵いいいいっ!」
社の外から絶叫が聞こえた。珠姫だ。あれから追いかけてきたらしい。
けれど葵は、わずかにも振り返ろうともしなかった。
ただまっすぐに、前を向く。
ゆっくりと、彼女がいるであろう場所へ向かう。
そしてそこにはいつも通りの、見慣れた姿が見慣れた場所に座っていた。
「なぜ――戻ってきたのかぇ?」
そういって哂う、小さな神を見つめる。
少しの乱れもない黒髪は炎を受けて艶めいて、鈴李はいつもの場所に、いつものように静かに座っていた。お気に入りの桜が散った緋色の着物で、その肢体を包み込んで。
「僕は彼のようにはならないよ。絶対に」
そんな彼女の前に歩み出た葵は、ただ微笑みを浮かべる。
「神が神の世話をするとか、おかしいじゃないですか。だから僕は神は望まない。ただあなたの傍にいさせてほしいと望みます、鈴李。そのためなら、あなた以外の全てを捨てられる」
「……ならば」
かすかに震えた声だった。
なかなか、そこから先が聞こえない。続きを言いたそうに鈴李は葵を見て、抗うように首をゆるく横に振って。何度かそれを繰り返して、舐るように這う炎がいよいよ迫ってきて。
「ならば正式に契約し、永久に生きようかぇ?」
やっと、続きを声にした。
「人を捨て、限りなく神になりながらも、決して神になれぬ場所に立つ。そうなればもはや死することも生きることもない。未来へその血を繋いでいくことすら。……それでもよいなら」
鈴李の手が伸ばされた。
葵は自然に、その手を握った。
「――妾と、契りを交わそうか」
かつて、愛しく思った相手と結びながらもほどけてしまった契りの糸。もう二度と結んでなるものかと思っていたそれを、今、葵と再び結い直す。
握り合い、重ねあう手のぬくもりに、どちらともなく笑みを零し。
その直後に――社は燃え崩れた。
焼け跡を何日も集落の民が探ったが、誰の遺体も見つからなかったという。




