【五】 ――別――
ねぇ、と珠姫が口を開く。
しかし葵は、それに相槌も返さず、ただ静かに社の奥を見つめた。
もっとも、今いる場所――居間として使っている部屋から、鈴李と影がいる社の奥は壁にさえぎられて見えないのだが。しかし、その方角を見ていないと、心がざわついて仕方ない。
本当は、すぐにでも駆けつけたいのだけれど……力がない以上、自分が邪魔にしかならないのはわかっている。だから正座をし、ひざに乗せた手を、強く握るしかなかった。
――と、着物の袖をくいくいと引かれる。
まるで、あの幼い姿をした神が、茶菓子を乞うてするように。
慌てて振り返ると、そこにいるのは珠姫だった。勢いよく振り返った葵を、きょとんとした表情で見ている。その表情は次第に、悲しげで寂しげで、不安そうなものへと変わった。
「葵、大丈夫?」
「あ……うん、大丈夫」
「あのね、その……そろそろ、いいんじゃない?」
視線をそらされながら告げられた言葉。
葵はしばらく悩み、その言葉の意味を思い出す。珠姫が意識を取り戻してすぐに湯を注いだ急須のことだ。あわてて湯飲みに中身を注ぐと、いつもより色の濃いお茶が湯気を出す。
これはかなり渋そうだ、と葵は小さくため息をついた。
「ごめん珠姫」
「……ううん、いいの。濃い味、嫌いじゃないもの」
ずず、とお茶をすする珠姫。何か言いたそうなそぶりが気になったが、珠姫はあまり自分の弱いところを見せないところがあった。そういうところを、他人に見せたがらないのだ。
それはきっと、名主の家に生まれた跡取り娘、という立場ゆえだ。
だから葵はあえて問わず、そっと茶菓子を差し出す。影に憑かれていた彼女の身体は、きっといろいろと疲れているはずだ。お祓いの後、疲労感を吐露するヒトは結構多い。
どうやら、珠姫は憑かれてからのことを覚えていないようだ。
心なし顔色もよくない。できれば家まで送っていくべきなのだろうが、鈴李があんなことになっている以上、社を離れることもできない。珠姫には、しばし待ってもらうことになった。
なぜか、あの影は葵や珠姫には何もしないのではないか、と思う。
彼の目的はただ一人、鈴李だけ。
もちろん、だからといって葵の心は少しも落ち着かない。
むしろざわめく一方だ。社の中はぞっとするほどに静寂を称え、まさかヒトでも神でもないものが入り込んだ挙句、神と命を懸けて戦っているなど、この状況で誰が思うだろう。
一連の流れを目の当たりにした葵でさえ、現実感を得られないでいるのだから。
「えっと、その……着物、似合ってるね」
少し醒めたお茶をすすって、葵は呟く。
とりあえず落ち着くため、雑談をすることにした。
幸いというべきか、相手もいる。
珠姫は、いつもならすぐに手をつける茶菓子に、まったく触れていなかった。軽くお茶を飲んでのどを潤しただけで、後は不安げに視線をさ迷わせてる。
まぁ、祭りなどで巫女をしているとはいえ、基本的には本職ではない。この手の現象とはあまり縁がない世界の住民だ。そもそもが神に仕えている葵と、耐性の強さも違う。
ましてや取り憑かれていたのだから、もっと気を使ってやらねばならない。
「どこから、覚えてる?」
「……わからないの。お夕飯の準備をしようかなって、お母様と話してたけど」
気づいたら、と珠姫は俯く。
どうやら、夕暮れが始まるより少し前に、影に憑かれていたらしい。そう長くはないと青いには感じられる時間だが、たったそれだけの時間でこれだけの影響が残るのか。
やはり彼女を家まで送るべきか――と、考えた瞬間。
「……っ」
社全体が身震いしたかのように細かく振動した。地震の類ではない。
葵は勢い欲立ち上がると、迷わず鈴李がいる方向を見る。確かに葵には特別な力など一つとして備わっていないが、それでもあれが普通ではないことはわかる。
鈴李に何か、あったのかもしれない。
そう思った瞬間に、葵の心は鈴李を求める。
「ま、まって葵! まってっ!」
珠姫が引き止めるのを振り切り、葵は走った。
◇ ◆ ◇
普段は決して走らない廊下を駆ける。
今日ほど、はだしであったことを感謝した日はない。
「鈴李……!」
駆けつけたところで、役には立たないのかもしれない。
足手まといにしかなれないかもしれない。
それでも、黙って待つということは、どうしてもできなかった。
走る。転びそうになりながら、ただひたすら走る。鈴李がいる部屋に近づくにつれ、だんだんと空気がねっとりとした水あめのようなぬるさを帯び始めた。正直、とても薄気味悪い。
これは、鈴李と――おそらくはあの影の、力だ。
霊力だの神力だのと呼ばれる、一部の人だけが扱える不思議な力。
時に武器として使われるそれが、鈴李の部屋を中心にうねっている。
普段からそれらに接することが多い葵でも、触れたことも無いほどの濃い空気が、この辺りにうねるように満ちていた。吐き気さえ感じながらも進み、葵はふすまに指をかける。
「す、ずり……っ」
力任せに開け放ち、薄暗い室内に光を届ける。
息を切らす彼の頬を鋭い風がなで、何かがあふれこぼれる感触が肌を伝った。
乱暴に着物の袖でぬぐい、葵は改めね室内に目を凝らす。
葵の視界に、向かい合っている鈴李と影がいた。激しく戦っていると思ったが、まるで囲碁か何かに興じるかのように、二人は距離を置いて向かい合って正座している。
思わず一歩踏み出すと、とたん頬を何かが掠めた。
二度目なのですばやく身を引いたが、遅れた髪の毛の一部が切れ飛んでいく。
唖然としている葵に、影はにやりと笑いかけた。
「少年、怪我をするぞ」
「葵! なぜここにきたのじゃ!」
「だ……だって、鈴李、社が」
「いいからそこを閉じよっ。はよぅ、ここから去るのじゃ!」
鈴李はわずかに腰を浮かし、赤い瞳に怒りの炎をともして叫ぶ。
あれほどに怒るかの神を、葵は今まで見たことがない。かすかに後悔が浮かぶが、葵はゆっくりと人の世とは思えない空気に満ちた室内へ足を踏み入れた。
「あ、葵……」
「僕は鈴李の従者、守護者だ。こんな時に、一人でいるなんてできない」
「じゃが、じゃが葵はただの――」
立ち上がった鈴李は、口をつぐみ、俯く。胸の前で手を硬く握り、肩を震わせた。いつもよりずっと大きいとはいえ、今の彼女も充分に幼い姿だ。その頭を、いつものように撫でる。
瞳を大きく見開いた鈴李に背をむけ、ふすまに手をかける。
「葵……っ!」
そこに、追いかけてきたらしい珠姫が現れた。
彼女は室内にいる鈴李や影には目もくれず、葵に向かって走ってくる。
「危ないから、こっちに、早く!」
「……いや、僕は鈴李と一緒にいるよ。力がなくても、僕は彼女の守護者だから」
「そ、そんな……」
「珠姫は居間にいて。……暗くなるまで出てこなかったら、篝火をつけてね」
じゃあ、と葵はふすまを閉ざす。
どん、と珠姫がそれを叩く音が響いた。鈴李か、あるいは影が何かしら細工でも施したのだろうか。葵の時はするりと開いたふすまは、壁に変化したかのようにびくともしない。
これなら珠姫は入ってこれない。
だんだんと彼女が叩く音が遠ざかる。
「少々、世界を切り離させてもらったぞ」
座ったままだった影が笑う。
鈴李は、無言で元いた場所に座りなおした。
葵は少し離れた、斜め後ろに座る。
「……では、続きといこうか」
影が言葉を放ち、目を細める。持たざる者の葵にも、周囲の空気が一定の意思を持ってうごめいたのが肌で感じ取れた。室内の空気が、鈴李と影双方の周りに密集していく感覚がある。
静かだった。
神と、神になりそこなったヒトの戦いは。
先ほど音もなく葵の頬を薄く裂いたように、二人が操る武器は、共に見えない刃のようなものらしい。刃にならなかった一部の風が、三人の服や髪をかすかに揺らし続ける。
勝っているのかも、負けているのかもわからない。
ただ、静かに見つめあい、睨み合う。
まるで――儀式か何かのようだ。
静かに向かい合い、目には見えない何かを交し合う。
どれくらいの時間が流れたのだろうか。忍耐がある方とはいえ戦況が見えない中、葵の中に芽吹いたあせりはみるみるうちに大きく育っていった。待つのにも、限界というものがある。
いてもたってもいられずにここに来てしまったが、珠姫と外にいた方がまし――楽だったのではないかという気がする。わかっていたが、この上ない無力感を味わった。
ぐるり、と空気が渦を巻く。
長く艶やかな鈴李の髪が数本、畳にぱたりと落ちる。
思わず葵は息を呑んだ。
「葵、案ずることはない」
鈴李は少しだけ振り返って、笑顔を向ける。
「葵は母に劣らぬ守護者じゃ……じゃから、妾は決して負けぬ。知っておるか? 社と神に愛された強き守護者はの、いかなる災厄をも撥ね退ける守り人となるのじゃ」
だから。
「妾は影如きに屈せぬ。葵が、妾が好む葵である限り、守護者である限り……!」
言い放ち、再び前を向いた鈴李。葵は隣まで移動し手を伸ばし、その手を握った。いつもより少しだけ大きい、けれど同じ感触の手。柔らかく、暖かい。
ぐっと力を込めて互いに握り合い、鈴李は影を今までにないほど睨みつけ。
「その妄執、妾が今度こそ終わらせてやろう!」
すぱん、と扇を広げる。蝶と毬が描かれた、彼女のお気に入りの扇。
左上から右下へ、腕を大きく振るった。
瞬間、葵の目に絵に描いたような曲線が、いくつも浮かんではぶつかって消える光景が飛び込んできた。赤と黒。二色のそれは、ぶつかり、絡まり、消えてはまた浮かび上がる。
これが――二人が用いていた『戦い』の道具なのだろう。なぜ急に見えるようになったのかはわからない。もしかすると鈴李と、こうして手を握っているせいなのだろうか。
曲線は、やはり風のようなものだった。
赤い、鈴李の風が葵の頬を撫でると、ぽかぽかとした暖かい微風と感じられる。
鈴李が葵の手を握る指先に、ぐっと力を込める。
直後、浮かんだ風は、一直線に目の前の影へと迫った。
影も腕を振るい夜色の風を起こし、迎え撃つ。
音もなく、風と風がぶつかり、混ざり、灰色になって周囲に散っていった。そこからまた新しく二色の風が生み出され、再び灰色へと戻っていく。それを、何度も何度も繰り返す。
だんだんと、赤が室内を鮮やかに染めていく。
鈴李は、懐から何かを取り出した。
ひときわ大きい風が、それをぱくんと飲み込むようにさらっていく。
小さい黒を弾き飛ばしながら、赤は影へと迫り。
「――まいったな」
ある瞬間に、影が小さく苦笑した。
とたん、その身体がすぱん、と切り裂かれる。
しかし体液はあふれず、まるで煙を切ったかのように黒い塵が漂うだけだった。
その背後に突き刺さるのは、鈴李が常に身に着けている短刀。都の宮廷に収められているという霊剣と同じ職人が鍛え上げ、かつての鈴李がなけなしの力を注いだ特別なもの。
ただ、最愛だった従者を殺すための、最後の手段。
かつて――神というにはあまりにも非力だな、と笑った従者がくれた、贈り物だった。
捨てられずに、けれど使われずに。
静かに手元に残っていた、あれは今は遠い過去の残滓。
「さすがは、生粋の神ということか……あれだけ、長く一緒にいたのにな、俺も」
と、影は笑いながら立ち上がる。
葵にもはっきりとわかった。
勝ったのは、鈴李だと。
切り裂かれた箇所――ちょうど腰の辺りから、ざらざらと崩れていく影。
鈴李はゆっくりと立ち上がって、少し前に進んで、その光景を静かに見ている。
葵に背を向けているから、彼女の表情はわからない。
「すまんのぅ」
完全に立ち上がった彼女の姿は、葵が見知った幼いそれに戻っていた。
力を使い切った、ということなのだろうか。
「本来ならば、墓なり塚なりを作って供養するところなのじゃが……」
「無理なのだろう? 知っているさ、それは」
ヒトの殻など捨てたからな、と影は苦笑する。それはつまり、彼にとっての死とは跡形もなく消え去ってしまうということという意味。埋葬する、躯も骨も残っていないのだ。
「……じゃから、代わりに手向けをやろう」
鈴李は言い、大きく息を吸った。
紡がれたのは彼女がよく歌っている詩。それを聞いた影は――カズラは、心底驚いたのかめを見開く。うつろだった瞳に、ヒトらしい光がかすかにともった。
カズラは、もう何も言えないようだった。言いたそうに、口を開くばかりだ。
その代わりに表情で言葉をつづる。
最後に見えたのは、どこか鈴李と似た意地の悪そうな、けれど満足そうな笑み。
かつてカズラというヒトだった影は、弾け崩れるように消えていく。
「……これで、ようやく終いかのぅ」
そう呟いた鈴李は、どこか泣いているように見えた。




