【四】 ――檻――
――カズラ。
その名を、鈴李は噛み締めるように思い描いた。
かつて鈴李は別の場所で、神と呼ばれずひっそりと過ごしていた。元より他の神に疎まれていたが故に、力を亡くす前から彼女は人の世界で暮らしていた。
その時に従者だったのが、今の葵の位置にいたのがカズラだった。
それなりの家柄の生まれであったが、三男ゆえの気楽さ。そして妾腹ゆえに生きていることすらも疎まれていた過去。いる場所を亡くしていた同士、ずいぶんと気があったように思う。
当時の鈴李は、葵と変わらぬ背格好の少女だった。
二人で並んでいると、実に似合いの恋人同士のような絵図となった。
実際、二人ともが人間であれば、そう呼ばれてしかるべき関係ではあっただろう。鈴李はいつかカズラを永久の従者にするつもりだった。ずっと、一緒にいたかった。
しかし――そうした瞬間、二人を包んでいた夢が砕けた。
ずっと手を繋ぎ合っていたはずの二人は、ここぞという時にすれ違ってしまった。鈴李と同じ場所に至るために神を望んだカズラはその身を焼かれ、鈴李との繋がりを失う。
そして人でもなければ神でもない、どちらでもない存在になった。
主が消えない限り永遠にその傍に立ち続け、あらゆる命の理からはじかれて。生きているとも死んでいるともいえない状態になって。愛しても愛しても、主従関係が全てをジャマし。
それでもいいと思い続けられたのは、百年ほどの間だけだった。
いや、鈴李はそれでいいと思っていたのだ。
ともにいられるならば、いかなる形でもかまわないと。
幾度も重ねた置いて逝かれる悲しみよりは、と。
しかしカズラは再度願った。
今度こそ、神になると。
そして鈴李と対等の位置に立ち、ずっと一緒にいるのだと。
しかし結果はご覧の通り、彼は神に似て異なるものに成り果てた。神になるというその願いだけを残して彼はすべて壊れ果てて、周りに不幸を撒き散らすだけの存在となった。
だから鈴李は彼を殺した。
彼を狂わせたという咎に対する代償を支払う前に、力がまだあるうちに。他の知らぬ神などにカズラを殺されてたまるものかと、田舎の集落で正気をなくし暴れていた彼を殺した。
そのはずだった。
「……そういえば昔から、あれはしぶとかったのぅ」
神との対話を終えた鈴李は、中庭から月を見上げる。期間限定で力を戻され、その姿は年頃の少女へと変じていた。彼女の神としての姿だ。葵には……あまり見せたくないと思った。
鈴李はその手に小さな短刀を握り、薄紅の唇を噛み締める。
彼が生きていたならば、再び目の前に現れるなら。
今度こそ滅そう。二度と目覚めぬ眠りの中へ、今度こそ彼をつれていこう。
人であるうちにそうしてやれなかった、自分の罪を購うために。
何よりも、彼のために。
「鈴李姫神」
そこに、懐かしい声が聞こえる。
姿は名主の娘のものだった。
しかし浮かぶ笑みは、まさしくあの影のもので。
「ずいぶんと懐かしい姿をしているじゃないか、鈴李姫」
「……お前は、女装の趣味に目覚めたのかぇ?」
「この方がここに入りやすかっただけさ」
ほら、と娘からずるりと這い出す黒い影――カズラ。
崩れ落ちる少女の身体を支えたのは、ここまで案内してきたらしい葵だった。
不安そうな彼に、鈴李は笑みを向けて告げる。
「葵は向こうへ行き、名主の娘を休ませるがよい」
鈴李、と非難するような声がする。
しかし鈴李は、ひるまなかった。
「ここから先は神の領域。人の子が入り込んでいい場所ではない」
言葉の強さで押し返して、手を横へ振りふすまを閉ざす。
そして室内には二人だけが残った。
ここは檻だ。
彼女と影を閉じ込めるための。
「時に鈴李姫、人魚の話を知っているか」
「人魚?」
「そう、人魚。その血肉を食らった若い娘が、不老不死になった話だ」
「……いや。ここは山深いからの、海の話はほとんど聞かぬ」
「知らずともいい。で……同じことが可能だとは、思わないか?」
「……」
「神も人魚、どちらもヒトならざる存在。そう、今の我が身のように。ためしにこの身体の一部を食らわせたヒトは、同類の存在へと成り果てた。……ならば、神を食らえばどうなるか」
「愚かな、無意味な事をするものじゃ」
「試す価値はあるさ」
「で、それが封印より逃れ、此度妾の前に現れた理由かぇ?」
「どうせ食らうならば……好いた神の血肉がいい」
鈴李は、己の頬を熱風が撫でるのを感じた。
目の前にいる男の、ありとあらゆる感情が鈴李を絡めとろうとしているのだ。いかに力を失いつつある神とはいえ、そうやすやすと喰われてやるつもりなどない。
一息吸い、鈴李はキっと相手を睨む。
身体を撫で回していた熱気が、怯えるように遠ざかった。
「そう、そうだ。一瞬でも気を抜かぬようにな、幼き神よ」
鈴李の抵抗がよほどうれしいのだろうか。
カズラは腹を抱え、身をよじり哂った。
「気を抜けばその瞬間にも、臓物を啜るぞ」
「やれるものならやってみるがいい」
鈴李の声が響き。
「――影如きに、それができるならば」
その唇に意味深な笑みをともした。




