【三】 ――操――
騒がしさも凪いで、時は夕刻。
無音の社は実に居心地がよくない。
一応、二人ぶんの食事を用意したものの、やはり鈴李は出てこなかった。
「……鈴李」
住居として使っている社の一角。
集落と庭を一望できる縁側に腰掛けて、葵は暮れていく空をぼんやりと眺めていた。
すでに父子と付き人はいない。鈴李の様子に何かあったことを理解したのか、いずれ手紙でもくださればと笑って帰っていった。途中何泊かし、数日後には都に到着するだろう。
鈴李は見送りにも出ず、部屋に篭ったままだ。
普段、彼女が客人と会う場所の、ずっと奥の小さな部屋。
鈴李はどうやら、そこにいるらしかった。
近寄ろうにも言葉にできない威圧感に押し返され、こうしてただ待つしかできない。
こんな時、何もできない自分が嘆かわしい。そして恥ずかしい、情けない。巫女として申し分ない力を持っていた母なら、きっと彼女のそばに控えるぐらいはできただろうけれど。
ただでさえ男として生まれてしまって、身の回りの世話も満足にこなせない。
一応、それないに戦えないこともないのだが、こうも華奢な身体では。
「今からでも道場に通おうかな……っと」
「こんばんは」
荷物を抱えて外に出ようとした時、開けっ放しの出入り口から声がする。わずかに身体をひねって声がする方を向く。そこには幼馴染の珠姫が、やけに着飾った姿で佇んでいた。
すでに外は薄暗くなりかけていて、集落内でも明かり無しに出歩くのは危ない。にもかかわらず珠姫は手ぶらで、まるで寝起きで呆けているかのようにぼんやりとした表情だった。
そこに何ともいえない違和感を覚え、葵は眉をひそめる。
「――やぁ、少年」
珠姫はにやりとした笑みを浮かべた。笑みを含むその声は、別の誰かと同時に発せられたような奇妙な色をしている。片方は聞きなれた珠姫の声で、少し幼さが残るかわいらしい声だ。
それにかぶさっているのは葵よりも低い、青年の声。
少し前に聞いた覚えがある、声だ。
忘れもしない声。
「……影、邪神」
「カズラだ。名前はちゃんと覚えような、少年」
影は実に軽い足取りで、まるで本当に珠姫のような立ち振る舞いで、葵がいる社の中に入ってくる。邪なものを排除する、清浄な領域であるはずの社に、影は弾かれることも無い。
力のない葵でも、その理由はわかっている。
珠姫の身体に入っているからだ。
彼女は同世代の少女ら数人と、祭りの時に巫女のような役割を担っている。普通の人よりも社が好みやすいはずだ。カズラと名乗るこの影は、それを隠れ蓑にしているのだ。
「……ちょっと身体を借りただけだ。そう睨むな」
「彼女をどうして」
「この子が一番よかったんだよ、いろいろとな」
真似事でも巫女は巫女さ、と影は言う。
そして優雅に履物を脱いだ影は、社の中を見回して。
「さて、鈴李姫に合わせてもらおうか」
「……こちらに」
言われた通りに、葵は影を案内する。相手がほぼ間違いなく鈴李に危害を加える、加えようとする相手なのはわかっているのに。今の葵には、彼女の言いつけを守る以外の手段がない。
何もできない、弱い自分が、今ほどに憎たらしく思ったことはなかった。
「ところで少年は、どこまで知っている?」
ぎし、と音を鳴らし足を止めた影は、葵に問いかける。
「どこまで……とは?」
「あの幼き神と俺のこと、などだな」
「……いえ、特には」
「そうか。やはり何も話していないか」
影はにやりと笑った。まるで獲物を見つけて舌なめずりをする獣のようだ。思わず背を向けてまた歩き出すが、背中に突き刺さるような視線に動悸が収まらない。
「かつての俺はお前と同じようなものだったよ、少年。あの神の従者だった。そして、おそらくは恋人のような関係だっただろう。少なくとも俺は本気だったよ、あの神を愛していた」
独り言のように語られる、葵が知らない鈴李の過去。
聞かないように思いつつも、ふさがない耳は次々と音を拾い上げる。
今の鈴李と葵のように、二人も静かな田舎の社に暮らしていた。その頃の鈴李はまだ神としての力をすべて有し、影もただのヒトだった。今の葵が愛する、平穏そのものの日常。
「なのに、なぜそんな姿に……」
「簡単なことよ。俺は神になりたかったのさ。彼女と同じ神に。共に在るために」
だけどな、と影は哂う。
しゃら、とかんざしの飾りが揺れる音がした。振り返ると、珠姫がよくするように軽く首をかしげている。そこに浮かんでいたのは、どこか泣いているような笑みだった。
「結局なりそこなったわけさ。愚かだろ? 届きもしない願いのために、俺はヒトでもカミでもないモノに成り下がった。今の俺は彼女に消される側の、言うならば敵の立ち位置だ」
「……」
「だがそれでも俺は神になる。方法なら、あるさ」
「方法……?」
あぁ、と影は笑みを浮かべて答える。
その底知れぬ意味深な笑みに、葵は底知れぬ恐怖を感じた。




