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【二】 ――神――

 葵の仕事は神への供物――もとい朝食の作成から始まる。

 かの神は肉類よりも野菜を好み、それでいて結構な量を平らげる。

 農家からは、神様に食べていただけるとは恐れ多くもありがたい言われるが、それを日々料理する方は大変だ。元々料理は好きだったのだが、肝心の神がこの上ない我侭だった。


 まず料理は、毎日日替わりであるように。

 唯一毎日出してもいいのは、味噌汁と白米のみ。

 味噌汁は毎食必ず具を変えて、白米に混ぜていいのは麦のみ。


 魚なら食べてもいいが生を焼いたもののみ、干物は却下。

 肉は断固却下。食べるぐらいなら、死を選ぶとまで言われた。

 他にも言葉にできないほど、些細な要求がある。


 葵は毎日、それらを何とかして食事を作り、鈴李姫に出していた。偏食ではなく、ただ好みにうるさいだけなので始末に悪い。しかし不作のときなどは、文句を言わない神だった。

『楽しみなど、鞠以外にはせいぜい食事しかないからのぅ』

 そういって鈴李は笑う。

 真新しい畳の上で鞠を転がしながら。

 黒曜石のように艶やかな黒髪に、薄く紅をさした唇。紅い着物を彩る金糸の模様に、色とりどりの玉を飾った簪や髪飾り、そして帯飾り。長い髪は結ってもなお、引きずるほどだった。

 彼が仕える神は、神であることを知らなければ着飾った少女にしか見えないし、実際にそれに近い。食事や睡眠は人と同じように必要で、しかし成長もしなければ老いることも無い。

 そう……だから彼女は、いつまでも幼いままだ。

 人間で言うと、だいたい六つか七つだろうか。

 十六になったばかりの葵が、軽々と抱えられるほどの重さしかない。

 本人は『妾のあふれる気品の賜物だのぅ』と喜ぶが、間違えた方は今にも自害しかねん勢いで謝罪するため不憫でならない。それをなだめるのも葵の重要な仕事だ。

 見た目どおりの精神年齢と言ったら怒られそうだが、鈴李の言動は外見年齢通りと言わざるを得ない。物知りだし、大人びているが、どうにも子供っぽさが残っていた。


 ――とにかく寂しがり屋なのだ。


 毎食、自分のそばにいるようにと要求し、いつもこじんまりとした部屋で向かい合って食事を取っている。さすがに添い寝だけは断固辞退した。……時々、布団に入り込まれるが。 

『今日はおとなしくしていてくださいね、鈴李。お客様がいらっしゃいますから』

『めんどくさいのぅ……』

 そんな会話と共に食事が終われば、葵には次の仕事が待っている。

 それなりに広い庭の掃除だ。

 もうじき冬となるこの肌寒い時期は、庭はすぐに枯葉で覆われる。

『早く戻ってくるようにのぅ。妾は老いと病では死なぬが、孤独で死ぬ神だからのぅ』

 そういって葵を見送った鈴李は、今頃、窓の外でも眺めているだろうか。

 それとも、うつらうつらと夢の世界に招かれているだろうか。

 もしかすると、庭に出て鞠で遊んでいるのかもしれない。

 せめて力があれば神々の領域に帰ることもできるだろうが、彼女はそれができない。

 鈴李は同族――と本人が言う他の神々から、かなり疎まれているそうだ。どうやら葵や母も知らぬ大昔、洒落にならないような何かをやらかしたらしい。本人かその縁者かは不明だが。

 なぜなら本人が頑として語らないからだ。

 ただ一言、自分に神たる力はない、とだけ。

 それでも母にとって、葵にとって鈴李は間違いなく神だった。


 ――姫様を、どうかお願いね。


 それが葵の母の、最期の巫女の言葉。

 両親を早くに亡くし、夫亡き後に子を孕んだと知った彼女は、病弱ながらも女手一つで息子を育て上げた。そして最愛の息子と、仕えていた神に見守られながら、数年前に亡くなった。

 それ以降、葵の仕事は母と同じものになった。

 母が死んですぐに名主夫妻の養子にという話も合ったが、そこまで世話になるわけにはと辞退した。何度か食い下がられたがそのたびに断り、それで養子縁組の話は終わった。

 今から四年前の話だ。

 養子の話は、いつの間にか婿養子の話にまでなっていたが、それも半月前に断った。名主夫妻の一人娘の珠姫は、確かによくできたすばらしい娘だと葵は思う。

 だが、彼女は葵にとっては、ただの幼馴染。

 血の繋がらない姉であり妹でもある。そんな相手を、今更異性として見る器用さは、葵には無かったのだ。他はともかくこれは譲れない。こんな状態で結婚しても、幸せになれない。

 珠姫は未練があるようにしていたが、葵の意思は固かった。

 母が死んだ瞬間に、自分はあの神と生きることを誓ったのだ。

 尊大で、我侭で、でも寂しがり屋で。

 心を許す相手がいないに等しい、あの神と。


   ◇  ◆  ◇


 森を切り開いて作られた社は、それ相応の広さがある。貴族の屋敷だ、といったら信じられる程度には豪華でもある。中庭を望むその最奥中央に、社の主であるかの神はいた。

 今日の参拝客は都に住む、商人の若旦那だとその父親だ。彼らは、葵の母が存命だった頃から年に数度ここにやってくる。鈴李はこれというご利益はもたらさないが、それでもだ。

 何でも若かりし頃、道に迷い、死に掛けていたのを母と鈴李に救われたらしい。それ以来彼は定期的にやってきては、鈴李にいろんなもの――主に着物や髪飾りを土産として持参する。


 もはや、参拝というよりも遊びに来ているに等しい。

 今回の用件も鈴李に、若旦那が近々結婚することを伝えるだけ。


 鈴李がいなければ若旦那は生まれていなかったと、とても感謝されていた。今回も、おそらくいろんなものをお土産に持ってきたのだろう。片付けるのが大変だ、と葵は苦笑した。

 今頃は、父子がつれてきた使用人が、丁寧に広げているところだろうか。中には初めてここにきたものもいるだろう。彼らが鈴李を見た瞬間の反応は、葵にとっては見慣れたものだ。

 まぁ、あのような幼子が神だと言われたら、普通は発言者の正気を疑うだろう。都の高名な神官や巫女でさえ、神をそのまま呼び出す術を持つものはほとんどいないというのに。

 力を失ったとはいえ神そのものが現世にいるなど、誰が信じよう。


 神に見えない鈴李姫神。

 いつから彼女がこの社にいたのか、実を言うと葵は詳しいことは何も知らなかった。

 知っているのは語り継がれる、古い古い御伽噺。


 この地に社が作られたのは、この付近を荒らして回った『影』を倒した故だという。ありとあらゆる疫病と不幸を撒き散らしたそれを、三日三晩かけて鈴李が倒したと。

 その『影』は人でもなく神でもないが、あえて神と呼ばれた。

 邪なる神――邪神と。

 その強さは神である鈴李から、その力を失わせるほどだったという。


「……邪神、か」


 そう呟きながら思い出すのは、先ほど小耳に挟んだ話だった。

 付き添いの使用人がひそひそと噂していた、ここから遥か遠い都の話。

 何でも最近、都を中心に人でもなく神でもない、あえて言うなら邪な『影』が、あちらこちらで疫病を筆頭とした不幸を撒き散らし、時には神を祀る社を襲っているのだという。

 都の人々はそれを『邪神』と呼び、たいそう怯えているらしい。

 しかしここ最近は都から離れ、だんだんと山の方へ――正確には、この集落の方へその目撃情報が移っているのだそうだ。都にいた頃より被害は少ないが、それでも犠牲者は出た。

 先日もすぐ近くの集落の社が襲われ、巫女が命を落としたという。

 彼女は母の友人で、一人になった葵を気にかけてくれた優しい人だった。人としてはもちろんのこと、巫女としても優れていて、鈴李も近年まれに見るすばらしい巫女だと褒めるほど。

 そんな彼女が死んだ、とは。

 手にかけたのが、鈴李が屠ったはずの邪神とは。

 にわかには信じがたい話だった。

 彼女と母は、都の神事に招かれるほど才能のある巫女で、そんな人がそれほどにも容易く命を奪われるなど尋常ではない。現に都ではすでに対策が始まっているそうだ。

 鈴李姫神がこの地で祀られる遠因となった邪神。遠い昔、彼女が倒したはずのそれが遠く離れた都で目を覚まし、人を殺めながらゆっくりとこちらに近寄ってくるという不穏な事実。

 何かが起こっているのかもしれない。

 葵にはまだ見えない、何かが。

「ほぅ……ずいぶんと賑やかなものだな」

 そこに、聞き覚えのない声が響いた。

 湯の調子を見ていた葵は、驚いて振り返る。参拝客が台所の方に来るのは、まずない。来るのは大体馴染みの住民だけだ。その場合、いくらなんでも聞き覚えがない声というのはない。

 迷ったのかと思いつつ、振り返った葵の視界に入ってきたのは、黒だった。


 黒を纏う、見目麗しい青年だった。

 髪が黒いのはいいとして全身が黒だった。纏う衣も装飾も黒。

 肌の白さだけが、あからさまなほど浮いていた。


 長く伸ばされた髪と衣を揺らし、その青年はまるでここが我が家であるかのように、台所へと入ってくる。彼はしげしげと、自分を不思議そうに見上げる葵を眺めた。

 まるで井戸の底を覗き込んだかのような暗い瞳に、葵は思わず身を振るわせる。

「鈴李姫はお元気かな、少年」

「……あの、どちらさまですか」

「カズラ。お前と同じく、鈴李姫神にお仕えしていた人間さ」

 青年はくつくつと、まるであの幼い神のように哂った。

「鈴李姫に伝えろ。今宵、貴女を尋ねると……決着をつけよう、今度こそ」

 ざわり、と風が吹く。

 カズラと名乗った彼の姿が、黒く滲んでいく。

 葵が息を呑んでいるそのわずかな間に、彼は跡形もなく消えた。

 鈴李の祝詞は、消えていた。

 代わりに。


「ずいぶんと久しい声が聞こえたと思ったら……カズラ、生きておったのか」


 屋敷に通じる廊下に、鈴李が立っていた。

 赤い瞳を細め、彼女は誰もいない場所を見ている。

 まるで、まだそこにあの青年が立っているかのように、じっと。

「鈴李、あの……」

「せっかくの祝い事じゃからの。少々はしゃぎすぎたようじゃ……あれの進入に気づかなかったとはな。いや、妾のなけなしの力も、さらに落ちたということかもしれぬのぅ」

 くつくつと哂う鈴李は、唖然としたままの葵をまっすぐに見つめ。

「話は終わったからの、早く茶を持っていくがよい。だが妾の分は要らぬ。少し、話を訊かねばならぬ御仁ができたからの。しばし篭るゆえ、夕食の準備ももしなくてかまわぬぞ」

「はぁ……」

「それから葵は、当面夜間の外出は控えるようにの」

 鈴李は窓の向こうにある空を見上げる。

 そこにない、何かを見るように。


「アレは『影』じゃ……今宵は月が昇る。月夜こそ、もっとも危険な頃合じゃ」

 説明は後でする、と言い残し、鈴李はどこかへ去っていく。


 途中振り返り。

「もしアレが尋ねれば、すぐさま妾の元に案内するがよい。抵抗などは無意味じゃ」

 そう付け足して、去っていった。

 残された葵はただ、悔しさをかみ締めるしかない。

 結局、葵が理解したのは、あのカズラと名乗った青年がかつて自分と同じ位置にいて、母の知人の巫女に死をもたらした存在で、そして、死んだはずの存在だということだけだった。



 いつになく低く、真剣な色を孕む声音。

 先ほどの鈴李の目はどこか遠くを、今ではない何かを見ているようだった。

 葵が知らない、きっと母も先祖も知らなかった、遠い昔を。

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