【一】 ――影――
農作物と川の幸、山の獣で腹を満たす田舎の集落があった。四季折々の自然を目で舌で楽しめるが、それ以外には特に何もない、都から遠く離れ街道沿いでもない場所だ。
やってくるよそ者は、せいぜい修行中の僧の類か、道に迷った旅人。
そんな場所に、その豪奢な佇まいの社はある。
鈴李姫神。
集落を抱く山の中にある、そんな名前の神を祀る場所。古くからこの地にあり、巫女の家系の最後の一人となった少年が一人で管理する、それなりに由緒ある社だった。
しかしこの神、コレというご利益があるわけではない。
元々は、これという社を持たぬ小さな神の一人だったという。しかし大昔にこの付近を荒らして回った邪なものを祓った結果その力を失って、神の領域に帰れなくなったのだ。
神が住まう集落は、力を失った彼女に住まいを与えた。それは疫病や飢饉から集落を守ってくれた神への、災いで疲弊した彼らができたささやかな感謝の証でもあった。
そしてある一族にその世話を託し、今日まで共に生きてきた。
人の領域に住まい、けれど人にはなれぬ者。
ただひたすら、社から集落を見守っている小さき神。
それが鈴李姫神という、現世に存在する神の名であった。
◇ ◆ ◇
そんな神が住まう山に抱かれた集落に、暗い影が躍っていた。もがき苦しんでいるというよりも、この場にいて嬉しくてたまらないという喜びを、まさに全身で表しているような。
しばらく踊り狂った影の一部が、細長い形を取っていく。下半分が縦に割れ、上の一部が鞠のような丸い球体へと変わり、そのすぐ下から日本の細くはない紐がぬるりと伸びた。
それは、ヒトだった。
曖昧ながらもそうとしか言い様のない形だった。
残されていた影が薄く広がって、ヒトを模した影に纏わり突く。全ての影が消えた跡に現れたのは、ぞっとするほど見目麗しい、青年とも少年とも言える背格好の男だった。
人のものとは思えぬ漆黒色の髪を長く伸ばし、時折集落に来る旅人とも僧とも都の者とも違うが、誰よりも神々しく高価そうな衣服をまとっている。そう、社にいるあの神のように。
彼の前にいるのは、腰を抜かしたように座り込んだ一人の少女。
夜遅くに頼まれたお使いからの、帰り道での出来事だった。
「お前が……我を呼んだのか」
影はにたり、と哂った。
少女は頷くことも否定することもせず、ただ影を見上げている。
「まぁいい。礼は言わねばな。そなたのお陰で、我は再びこの地に舞い戻った」
くつくつと哂う姿は、ただただ怖気を掻き立てるばかりだ。
「それで――そなたの願いは何だ」
男は未だ微動だにしない少女に対し、そう言った。
「……え」
「え、ではない。だからそなたは呼んだのだろう」
「よん……で、ない。わたし、は、あなた、しらない」
「意識でも無意識でも同じこと。お前の中の何かが我を呼んだ。さぁ、願いを言え。ここに呼んでくれた時点で、我は壮絶に気分がいい。多少の無茶も叶えてやろう。――そう」
男は哂う。
今までにないほど、酷薄で、美しい笑みを浮かべ。
「神さえも、消してやろう」




