(12)
予感があった。
星を見るより、じっと私を見ている時間の方が、長くなった流に。
出不精のくせに、矢田の遊びの誘いに積極的に乗ったり、みんなで騒いでいるときも、どこか達観した愛しさを込めた目をしている流に。
もうすぐ、その時がやって来るのだと、感じていた。
「虫干し中?」
私の部屋がある離れから母屋へ行くと、志穂さんが押入れから昔の浴衣や服を出していた。
「うーん……、男の子の成長って早いのね」
そう言って撫でたのは、去年流が着ていた浴衣。一年で手足が伸びきって、今年はもう合わなかったのだ。
兄と中学のころから付き合っていた志穂さんは、当然幼い頃の私たちを知っている。母が亡くなって以後は、彼女が私たちの母代わりをしてくれていた。
「遊斗さんの昔の浴衣を直していたんだけど、流くんのあの様子じゃ来年はもっと伸びているだろうし……」
縫い直す必要はなかったかしら、と寂しそうに笑う。
来年は来年で合わせればいいじゃない、その言葉は出せなかった。
どうして。来年には、流に浴衣を合わせられないような、顔をするのか。
名残惜しむように時間があれば流と話をしている父。
兄は、流のことで学校と話を。
再婚の話を聞いたあと、全く姿を見ない流の母。
何かを言おうとして、言い出せない様子の、流。
八月に入り、もうすぐ、ペルセウスから星が降る日が近づいていた。
図書館からの帰り道、近所のスーパーに寄りアイスを仕入れて食べながら歩く。
私も流も、無言だった。
何も話さなくても、特に気まずく思うような仲でもなかったはずなのに、触れたら何かが弾けてしまいそうな空気がそこにあった。
「……流、そういえば誕生日何が欲しいか聞いてない」
シャク、と歯を立てた氷菓子が軽い音と共に崩れて口の中に果汁の味と冷たさが広がる。
「うん」
うん、じゃなく何が欲しいか言え――そう返そうと、開けた唇を再び閉ざした。
流が目を見開いて、前方を見ていた。その視線の先に、一人の人物。
背の高い、小麦色の髪をした、異国の人。流を見つけて、とても嬉しそうに笑った。
流と繋いでいた手が、強いくらいに握りしめられる。
大股で私たちに近づいたその人が流をぎゅっと抱きしめて、頭を掻き回し、破顔する。
リュー、と呼ばれた流が戸惑った様子で彼に何事か訊ねる。
――どうして、いるのか。まだ、その日じゃない。
彼は答える。
――会いたくて。時間が作れたから、早めに来たのだ、と。
大丈夫、ゆっくり皆と過ごしなさい――
揺るぎない愛情を持って見つめられるまなざしに、流は戸惑いながらも、嬉しそうな色をわずかに見せた。
未だ繋がれた私たちの手に気づいた彼が、首を傾げて悪戯に微笑む。
「Is she your polestar ?」
その人が訊ねれば、流が答える。
「No. She is my earth.」
ふうっと安堵の息を吐くように、笑みを浮かべた彼が、私に向き直った。高く見上げないと、顔すら見ることができない。
ハシバミ混じりの琥珀の瞳。
会えて嬉しい、というようなことを、言われたと思う。辛うじて、こちらも、と返して、大きな手と握手する。
その温もりはよく知るもの。
小さな時からいつも傍らにあったものと、よく似ていて。
片言の日本語と英語混じりにしばらくやり取りしていた彼と流は、誰が見ても、その血の繋がりを否定できなかった。
疑うまでもなく。
彼は流の父親だった。
開けっ広げな所作で手を振り、待たせていた車に乗り込んだ流の父が去って。
その時が来たことを知る。
「ほたるちゃん――」
あのね、と口ごもった流が先を続ける前に、私の方から告げた。
「行くんだな」
静かに流を見つめた私が、どんな顔をしていたのかは、自分ではわからない。
その私を見て一瞬喉を詰まらせて、俯いた流は、何かを払うように頭を振ったあと、次にはしっかりとこちらへ向かって頷いた。
「――うん。夏休みが終わったら、父の国へ、行く」
流と彼は、数年前から連絡を取り合っていたという。
流の両親の離婚の原因は、やはり彼女があちらでの生活に慣れなかったことにあったようだ。
逃げるように流を連れて帰国した彼女は、頑として息子と父親を会わせなかった。
奪われるかと思ったのか。何もない彼女に、唯一残った子どもを。
だけど、それすらも彼女は自ら手放してしまった――
彼はずっと流たちの様子を調べて見守っていたらしい。
うまくいかなかったけれど、嫌いぬいて別れたわけではなく、息子である流のことも、彼はずっと気にかけていた。
彼女が働きに出て、流がうちに預けられたときも。
生活は大変ではあるが、幸せに暮らしているなら、拒まれた自分は見守るだけにしておこうと。
そう決めていた彼にも、別の幸せがやって来る。
新しい妻、新しい家族。目まぐるしい日々の中、ほんの少し、もうひとつの家族だった者たちから目を離し――気づけば、見守っていた幸せはそこから失われてしまっていた。
流が笑顔を見せるのは、他人である私たちのもとでだけ。
母親と共にいるときは、固く表情を強張らせて、俯いている。
歪んでしまった母子の関係をどうすることもできず、彼は悩んだ。
そんな彼の背中を押したのが、今の彼の奥さん。彼と前妻の経緯は知っていて、流がどうしているのかも理解していた。
彼女がまず、彼には内緒で、流に会いに来たらしい。
「すっごいびっくりしたよ。そんな簡単に行き来できる距離でもないのに、気になっちゃったから来てみたの! って、しかも日本語話せないんだよ?」
思い切ると、考えるより先に行動してしまう無茶苦茶さかげんは、キレたユキちゃんに似てるかも。
友人を引き合いに出して、流が苦笑する。
そんな笑みにも、あちらに対する好意は伝わってきて、安心と同時に、寂しさを味わった。
――私はあなたに会うことを禁止されていないからね。構わないでしょう。
彼女はあっけに取られた流にけろりとそんなことを言って、訊ねたらしい。
父親をどう思っているかと。
「俺が父といたのは、三歳くらいまでで、正直覚えてなかったんだ。こっちに来てほたるちゃんたちと過ごした時間の方が濃密で。でも、」
父親が、天文に関わる仕事をしていると聞いて、なんだか不思議に思ったという。
何も知らなかったのに、いつの間にか父と同じように星を見上げていた。
血の繋がりを、感じた。
母にはもう感じ取れなくなった、親子の糸が、そんな風に父と繋がっていることに気づいたら、興味が生まれた。
覚えてない、父は、どんな人物なんだろう――
奥さんは「そっくりよ」と言って、気になる笑みを浮かべたが。
密かに、誰にも知られずに、父親と顔を合わせた日に、その笑いの意味がわかった。
容姿が似ているのは知っていた。
だけど、中身まで似ているとは思わなかった。
「……こう、眉を下げて、困ったように笑う顔が、なんとも自分にソックリでさ。それを見るとこっちも笑うしかなくなって」
変だよね。あの人のことがあって、血の繋がりなんてなんの意味もないとわかっていたにもかかわらず、父親としての想いを信じられてしまうなんて。
「――素直に、お父さんって呼べたんだ」
ポツリと落とされた言葉に、私は目を閉じた。