宵灯工房の修復師は、今日も呪術士に間違われる
喫茶店の窓際で、ユナは冷めかけた紅茶を見つめていた。
午後の陽射しがレースのカーテンを透かし、白いテーブルクロスに淡い模様を落としている。
焼き菓子と紅茶の甘い香りが漂う、いつもと変わらない午後だった。
ただひとつ、窓の外に黒いもやをまとった砂ネズミが、じっとこちらを見つめていることを除けば。
ユナがそちらに目を向けると、砂ネズミは小さな前足を上下に振った。
(こら。お店に入っちゃだめだよ)
窓越しに目で釘を刺すと、砂ネズミは不満そうに頬を膨らませ、通行人の足元へ潜り込んだ。
ユナは小さく息をつき、向かいに座る恋人へ視線を戻した。
彼は王立呪物管理局に勤める茶髪の青年だった。
少し垂れ気味の大きな目は、いつも穏やかに細められている。
こちらを見つめる瞳にはどこか人懐こさがあって、ふわりと微笑まれると、ユナはどうしても頬が緩んでしまう。
温和で、優しげで、声を荒らげることもない。
(彼氏が好きすぎて幸せが過ぎる!)
少なくとも、これまでユナはそう思っていた。
「それでさ、また俺の仕事を横取りしたんだよ。自分じゃ何もしないくせに、上への報告だけはちゃっかり自分の手柄にするんだ」
「うわぁ……。それはひどいね」
「だろ?おまけに面倒な仕事は全部こっちに押しつけてくるんだ。あいつさえいなければ、俺だってもっとまともに働けるのに」
(愚痴って生産性がなくてちょっと苦手なんだけどなぁ)
彼の上司は絵に描いたような困った人物像らしい。人の手柄を横取りし、面倒な仕事は部下に押しつけ、気に入らなければ当たり散らす。
(いったい、どんな顔をしているのだろう)
痩せていて、神経質そうで、そういえば前に銀色の髪だと言っていた――そんな人物像を思い浮かべていると、
「なのに顔がやたら整ってるから誰も文句言わないんだよ」
「あれ?かっこよかったの?それなら――むぐ」
顔がよかったら大抵のことは許しちゃう――、そう口にしかけて、ユナは慌てて言葉を飲み込んだ。
(だめだめ、ここはきちんと共感してあげるところ!)
それにしても。
たまにしか会えないし、楽しかったことや嬉しかったこと、頑張っていること。そういう話が聞きたいのに――今日も結局この話題。
(ううん!
でも、この顔で紡がれる言葉ならたとえ愚痴でもいくらでも付き合うよ、喜んで!)
ユナはテーブルに肘をつき、両手を重ねて顎を乗せた。
彼の顔をうっとりと眺めながら、冗談めかして笑う。
「そんな人、自慢の銀髪一本残さず抜け落ちればいいのにね。でも、顔の良さであなたに勝てる人いないって思うよ?」
彼も笑うかと思ったが、返ってきたのは意外なほど冷たい視線だった。
「……なあ。ユナは、まだ俺のことを信頼してないのか?」
唐突な問いに、ユナは目を瞬かせた。
「信頼……もちろんしてるよ?」
「だったら、なんで何もしないんだよ」
「何もって、何?」
「俺がどれだけ苦労してるか、わかってるだろ?付き合ってるんだから、恋人のために何かしたいと思わないのか?」
彼は苛立たしげにテーブルを叩いた。
カップの中で紅茶が揺れ、受け皿に小さな音を立ててぶつかる。
「……あなたの休みに合わせて、工房を休みにしてるけど」
「そういうことじゃねえよ!」
思わず身を引いたユナを見て、彼は一瞬だけ口をつぐんだ。
店内の視線が集まっていないか確かめてから、彼は声を潜めた。
「まさかお前、自分が呪術士だって気づかれてないと思ってんの?」
「……ん?」
「いつも妙な呪物を侍らせてるだろ。普通の人間が、そんなもんを連れ歩くかよ」
彼の視線が、椅子の背に掛けたユナの鞄へ向いた。
そこでは三毛猫のキーホルダーが、何食わぬ顔でぶら下がっている。
ただし、その尻尾の先には、ほんのわずかに黒いもやがまとわりついていた。
「別に進んで連れて歩いてるわけじゃないって……呪術士?誰が?」
「お前だよ!」
彼は呆れたようにため息をついた。
「恋人の悲惨な境遇、お前だって許せないだろ?」
ユナは、彼の顔を見つめた。
何度も聞かされた上司の愚痴。そのたびに彼は言っていた。
『俺の苦労をわかってくれるのは、お前だけだ』
だから、自分は彼にとって心を許せる恋人なのだと思っていた。
思っていたんだ。だから手も繋いだし、キスだって交わした。お泊まりデートだっていつかはって。
「……私に、上司を呪えって言ってるの?」
「声がでけえよ」
彼は悪びれる様子もなく、向かいに座るユナへ顔を寄せた。声だけを少し落とし、まるで内緒話でもするように続ける。
「そういうとこ鈍くさくてカワイイけどな」
そしてテーブルに肘をつき、ユナを見た。
「直接頼んだら、俺まで犯罪者になるだろ?だから、お前が自分からやってくれればいいんだよ。恋人のためにさ」
ユナは、しばらく彼を見つめていた。
「……私が、自分から?」
「そうだよ。恋人にふりかかった理不尽を何とかできるチャンス、見過ごしたら駄目だろ?」
「それで、私が上司を呪ったら?」
「そりゃ、助かるに決まってるだろ」
彼は当然のように言った。
「お前が俺のために動いてくれたら、俺だってもっとお前を大事にできるしさ。そういうのが恋人同士ってもんだろ?」
ユナの中で、何かがすっと冷めた。
(……まじか)
彼は、自分のために怒ってくれる恋人が欲しかったわけではない。
自分の代わりに、面倒なことをしてくれる人間が欲しかったのだ。
しかも、自分は手を汚さずに済むように。
「……あなた、私が何の仕事をしているか、知ってる?」
「は?呪術士だろ?」
「違うよ。呪物の封印術式修復師」
「またそれだ。そんな職業聞いたことねぇよ」
彼は鼻で笑った。
「俺にとりつくろう必要ないって。恋人なんだから。お前が呪物を操れるって事実だけで十分だ」
その言葉を聞いた途端、ユナの胸の奥で、何かがぷつりと切れた。
ユナは封印術式の美しさに魅せられ、修復の技術を磨いてきた。
複雑に絡み合う線の一本一本に意味があり、それらが織りなす緻密な構成は、まるで芸術作品のようだった。
傷んだ術式を読み解き、その美しさを取り戻す。
そんな仕事に憧れ、ようやく自分の工房を開いたのだ。
大切な夢だったからこそ、目の前の男にも何度も話している。
それなのに。
「私は呪術士じゃない!」
ユナは思わず立ち上がった。
「呪物を操って人を呪う仕事なんかしてない!私は封印術式を修復する職人なの!」
「わかった、わかった。そんなに怒るなよ」
「わかってないから怒ってるんでしょう!?」
ダンッ!
ユナが床を踏み鳴らした、その直後だった。
ぼっ。
小さな火の玉が飛んできて、青年の頭に命中した。
「熱っ!?うわっ、何だこれ!」
青年が頭を押さえて立ち上がろうとしたとき、ユナはテーブルの下で、鞄につけた三毛猫の尻尾がするりと伸びるのを見た。
(ちょっと、待って!)
慌てて足で尻尾を押さえ込む。
けれど、尻尾はするりと逃げた。
(だめだってば!)
今度は両足で挟み込む。
そのとき、視界の端で黒い影が動いた。テーブルの脚を伝い、砂ネズミがこっそりと近づいてきていた。小さな前足の間には、赤々と燃える火球が浮かんでいる。
(げ!?)
ユナはとっさにテーブルの上のメニュー表をつかみ、砂ネズミめがけて振り下ろした。
ぱしんっ!
火球が弾き飛ばされ、テーブルの端でぱふっと火の粉が散った。
(よし!)
安堵したのも束の間。
ぐいっ!
足元でバランスを崩され、ユナの身体が傾いた。
(あっ、しまっ――!)
押さえ込んでいた三毛猫の尻尾が、ユナの足をすり抜ける。
するりと伸びた尻尾は、立ち上がりかけていた青年の足首に巻きついた。
「えっ、わっ!?」
ずごっ!
足を引かれた青年はテーブルの縁に顎を打ちつけ、そのまま床に崩れ落ちた。
「えぇぇっ!?」
ユナは慌てて周囲を見回した。砂ネズミも、伸びた尻尾も、もうどこにもない。
テーブルには紅茶の染みが広がり、床では青年が白目を剥いて倒れていた。
(しまった……)
あの子らは、いつも勝手にユナに張りついている。
そして何か起きると、こうして勝手に騒ぎを起こすのだ。
どうやら、ユナが傷つけられるのが我慢ならないらしい。
頼んでもいないのに。
ユナは慌てて青年の横にしゃがみ込み、鞄から取り出した一枚のメモに素早く筆を走らせた。
【依頼受注書】 No.*****35
依頼内容:呪詛による上司への復讐代行
結果:受付拒否
理由:依頼先の選定ミス。専門分野の不一致。
備考:依頼者本人による転倒事故。
ぺちり。
「よし」
青年の胸にメモを貼りつけると、ユナはテーブルに飲食代を置いた。
鞄をつかんで出口へ向かいかけ、ふと手元に目を落とす。
三毛猫のキーホルダーが、なくなっていた。
(……逃げたな)
あの騒ぎを引き起こした張本人は、さっさと逃亡したらしい。
背中に突き刺さる視線を感じながら、ユナは振り返ることなく喫茶店を飛び出した。
あとには、胸にメモを貼られたまま倒れている青年と、彼の頭から漂い続ける焦げ臭い匂いだけが残された。
ウエイトレスは倒れた青年を見下ろし、それから開いたままの扉へ視線を向けた。
「……だから、やめておきなさいって止めたのに」
「宵灯工房のユナちゃんだろ?いい子なんだがなぁ」
近くの席にいた老婦人が頷いた。
「この前なんて、工房からものすごい勢いで吹雪が噴き出してきたのよ!冷凍庫の呪物が癇癪を起こしたとか何とか……。でも、ユナちゃんったら真っ先に飛び出してきて、雪まみれになった人たちに謝って、温かい飲み物まで配ってくれたの」
「そりゃ、災難だったな 」
「よくもまあ、あの子を利用しようなんて思ったもんだ 」
「ちょっと工房の前通ったら察しがつくだろうに 」
「……いや、けど面食いも有名だからな。何頼んでもイケルって思ったんだろ」
客たちの視線が、青年へと集まった。
「……店が無事でよかったわ。紅茶をこぼされたくらいで済んだんだもの」
ウエイトレスは、テーブルに広がった紅茶の染みを見て、ほっと息をついた。
客たちの視線が、再び開いたままの扉へと向けられた。
ユナの姿は、もう通りの人波に紛れて見えなくなっていた。
◇
工房の扉を開けた途端、ユナはぎょっとした。
鍵がかかっていない。
(あれ?)
真鍮の取っ手に手をかけたまま、ユナはそっと隙間から中を覗いた。
どどどどどどっ!!
工房の奥から、何かが一斉に押し寄せてきた。
「うわっ!?」
人形たちが一斉に棚から飛び降り、縞模様のリボンがかかった紺色の小箱と置時計が競うように猛スピードで床を転がってくる。シャカシャカと床を走る赤い目の砂ネズミ。ランタンは吊り金具を外そうと、右へ左へ激しく揺れている。
とにかく速い。
目で追う間もなく、呪物たちはユナの脇をすり抜け、出口へと殺到した。
皆一様に逃げている。
間違いなく、みんな逃げている。
「待って!あなたたち、勝手にどこにっ!?」
ユナは慌てて両手を伸ばした。
「依頼主が取りに来るまで、ちゃんと棚で待ってて!出てかないっ!」
けれど呪物たちは聞く耳を持たない。
周囲では黒いもやが舞い、小さな青白い火花が走る。小さなぬいぐるみはユナの袖に潜り込み、砂ネズミが背中に張りついた。
「こらっ!あなたは棚!あなたはバケツの中!」
作業台では乾燥中の戒符が天井まで舞い上がった。
ユナは服に潜り込んだ人形を引っ張り出し、背中の砂ネズミをつまみ上げた。
そして最後に。
ペチリ。
天井からイモリが一匹、頭に落ちてきた。
「……もう!」
ユナは剥がしたイモリを水槽へ投げ入れ、工房の外へ逃げ出した呪物たちに向かって叫んだ。
「依頼主が引き取りに来るまでには、ちゃんと戻ってきてよーっ!」
工房の騒ぎが一段落したところで、場違いなほど穏やかな声がかかった。
「おかえりなさい、店主さん」
封印紙や古い術式の写しを収めた棚のさらに奥、窓辺の休憩用テーブルでは王立呪物管理局の職員、エドガーが優雅に茶器を傾けていた。ここ最近、呪物の修復依頼を持ち込んでくれる青年だ。
月光を紡いだ絹糸のような銀髪は、ふわりと柔らかく波打っている。その眼差しには怜悧な光が宿り、涼やかな目元が端正な顔立ちをいっそう引き立てていた。誰もが思わず振り返りそうな美貌であるものの――。
(でも……目が残念)
ユナの好みとは系統が違う――範囲の外 。
それよりも、気になるのは工房の呪物たちだ。思えば、この人が来るといつも様子がおかしい。
(呪物に何か悪さしてる様子はないんだけど……この人のこと、怖がってる?)
「……いらっしゃい?エドガーさん。鍵、閉まっていませんでしたか?今日は工房、お休みですよ」
「おや?開いてましたよ。
なので、すぐ戻られるかと思って待たせて頂きましたが……ふむ」
エドガーはカップをソーサーに戻した。
かちゃり、と澄んだ音がする。
テーブルの傍らに立てかけられた銀色の杖が、窓からの光を受け鈍い輝きを帯びている。
呪物たちの怯えた気配を感じ取り、ユナは首を傾げる。
そもそも。
工房の鍵、ちゃんとかけたはず……だよね?かけた、よね?
なのに、どうやってこの人は中に入ったのだろう?
(工房の呪物たちが開けたとか?……まさかね)
人の言うことを聞くような存在ではないのが呪物だ。この子らを動かせる人なんて――。
ユナの脳裏に、つい先ほどの喫茶店での会話が蘇った。
『まさかお前、呪術士だって気づかれてないと思ってんの?』
――呪術士?
それは、人を害するために呪物を生み出し、自在に操る恐ろしい術士。
見つかれば犯罪者として捕らえられる。だからこそ、普段は善良な人間のふりをして正体を隠しているのかもしれない。
(あ、あれ……?)
ユナは、目の前の男を見つめた。
穏やかな笑顔。丁寧な物腰。優雅にお茶を飲む仕草。
(もしかして……これ、偽装ってやつ?)
そう思った途端、これまでの不思議な出来事が、一本の線でつながった。
(工房の呪物に鍵を開けさせて、何食わぬ顔で……?)
(間違いない!この人、本物の呪術士だ!)
ユナはごくりと唾を飲み込んだ。
その視線が、ふと男の足元に落ちる。
(……はわっ!?)
一匹のシマリスが、靴の下に押さえ込まれていた。
蛮勇君だ。
自然発生した呪物の中でも、凶暴性は折り紙付き。封印するために五人もの封印術士が再起不能になったという曰くつきの、工房きっての問題児である。凶暴性は封じられているはずなのに、それでも時々ユナを齧ってくる。
その蛮勇君が。
あの蛮勇君が。
男の靴の下で、ただ踏まれているだけで、ぴくぴくと震えていた。
何されたの?何されてるの?何したのぉぉぉぉぉーーーっ!!??
(怖っ!呪術士怖っっ!!!)
ユナの背後では、呪物たちが彼女の服にしがみつき、今も必死に隠れている。そしてユナ自身もまた、生まれたての小鹿のように膝を震わせていた。
「休業か、まいったな……。たしかに顔色も優れませんね、何かありましたか? 」
「うぇ、いえっ!何も!」
何もない。
何もないことにしたい。
少なくとも、ここで説明できるようなことは何もない。
エドガーはユナの顔をしばらく眺め、それからふと思いついたように言った。
「それなら、少しお時間をいただけませんか? 近くに珈琲のおいしい喫茶店があるんです。よろしければ、ご一緒にいかがでしょう」
「…………え?」
ユナの思考が止まった。
近くの喫茶店。
珈琲。
その単語が頭の中でゆっくりと並び、意味を結ぶ。
(近くの喫茶店って……)
ユナの顔から、さっと血の気が引いた。
(あそこしかないじゃない!!)
ついさっき、恋人と別れたばかりの店だ。
しかも、置いてきた彼は、呪物たちにこてんぱんにされたまま、まだあの店にいるはずである。
もう一度戻るなんて、絶対に無理だ。
何を聞かれるか、何を見られるか。想像するだけで胃が痛くなる。
「い、いえ!お気遣いなく!私は大丈夫ですので!」
「そうですか?無理をなさらなくてもいいですよ」
「本当に、大丈夫ですから!」
必死に断るユナの背後で、さらさら、と乾いた音がした。
床の隅に潜んでいた赤い目の砂ネズミが、いつの間にか身を乗り出している。
小さな前足で床の砂を撒き、文字を書き始めたのだ。
『ふった』
続けて、その下に。
『せいさい』
『てんばつ』
砂ネズミは満足げにひげを揺らし、もうひとつ文字を書き足した。
『ユナじゃま』
「ちょっとぉぉぉっ!!」
ユナは振り返るなり、砂ネズミをひっつかんだ。
「何を書いてるのかな!余計なことしないの!」
「あなたたちのせいで、どれだけ大変なことになったと思ってるの!おとなしくしててって言ったよね!?」
砂ネズミは、きゅっと目を細めた。
その顔はどう見ても反省していない。
ユナは工房の奥に設置した薬品保管用の冷蔵庫の中へ、じたばた暴れる砂ネズミをぎゅむっと押し込んだ。
「頭を冷やしてなさい!」
ばたん!!!
これで少しは静かになるはずだ。
ユナは大きく息を吐き、乱れた髪を整えた。それから、何事もなかったかのように振り返る。
エドガーは、先ほどと変わらず穏やかな微笑みを浮かべていた。
(全然帰る気がない!)
「元気が出たようで何よりです」
これは……
「あ、あの……今日はどういった御用だったのでしょうか?」
(ささっと用事を済ませて早くお帰りいただくに限る!)
「おや、今日は休みでは?」
「……せっかくいらして下さったので!」
「おや、申し訳ないですね。ふむ、でもまぁ助かるな――」
エドガーは足元にいたシマリスをそっと靴から解放した。
テーブルの傍らに立てかけていた銀杖を手に取り、慣れた手つきで短く縮める。そのまま袖口へ滑り込ませると、何事もなかったかのようにユナへ向き直った――ちょうどその時。
入り口の扉の陰から、黒いもやを纏った何かがそろりと顔を覗かせた。
置時計がひとつ。続いて、縞模様のリボンがかかった紺色の小箱。人形たちも扉の陰から工房内をうかがっている。どの呪物も、エドガーの姿を認めると、びくりと動きを止めた。
それでも、ユナの姿を見つけるとチリチリ小さな青い火花を散らした。
しばらく逡巡していた置時計が静かに床を転がり始めると、小箱が小さく揺れ、人形たちも一歩ずつ工房へ戻ってきた。
最後尾には三毛猫のキーホルダーが続いていた。こちらは何食わぬ様子でユナの鞄の持ち手にしがみつく。
「三毛!そこはダメ!依頼主が迎えに来るまで、ちゃんと棚に入ってなさい!」
ユナが叱ると、呪物たちはぴたりと動きを止めた。ユナと目が合った三毛猫のキーホルダーはころんと横向きになり、知らん顔を決め込んだ。
やがて、置時計が床を転がって元の場所へ戻り、人形たちもおずおずと棚によじ登り始めた。
エドガーは少し俯き、視線だけで追う。
彼女の言葉に従う呪物たちを。
(あれらは封印術式が刻まれた呪物どもだ)
カップを持つ指に自然と力が入った。
(封印術式を刻んだ術士に従うこともある……が、あれらの術の証跡は、それぞれ違う )
冷凍庫から脱出したらしい赤い目をした砂ネズミがエドガーの方をちらりと見たあと、さっとユナの元へ走っていった。
(……俺が封印したものまで、か)
エドガーはカップに視線を落とした。
(……修復師の技量を見極めるだけだったはずなんだが)
◇
数日前、職場でのことだった。
「修復師?」
局長から差し出された書類に、エドガーは目を落とした。
聞き慣れない言葉ではない。
だが、実用の域で扱える者は極めて少なく、資格登録さえ存在しない。
「封印術士の偽装では?術士の登録は?」
「該当者はいない。そもそも封印術士とは名乗っとらんしな」
「……それはまた」
エドガーは報告書をめくった。
稼働中の封印術式を修復できる工房が王都にできたという。
眉唾ものだ。
ここ、王立呪物管理局でさえ、劣化した封印術式への対応は解除と再封印が基本だった。
とは言え、解除の瞬間の危険を回避できるなら確かめる価値はある。
(単純な話……だったのにな)
視線の先では、小さなぬいぐるみ達が工房に散らばった戒符を拾い集めたり、店主の両肩で砂ネズミとシマリスが領土争いをしたりしていた。
呪物を従わせる店主は、どう見ても少々人見知りが過ぎる、ただの善良な少女にしか見えない。
だが、自身が封印したわけでもない呪物を従わせる――それは呪術士の領域だ。
これが呪術士の偽装だとしたら。
(……世も末だな)
「エドガーさん?お茶、お代わりします?」
不意に声をかけられ、エドガーは瞬きをした。
手元のカップに目を落とすと、いつの間にか中身はすっかり空になっていた。
「いえ、結構です。それより申し訳ありませんが仕事の方を。本日も、修復をお願いしたい呪物を持ってきています」
「へ?……修復?」
(……ああ!
表?表の仕事ってことね!?)
ユナはそっと息を吐いた。
(よかった……!
表の仕事なら、うっかり機嫌を損ねて工房やわたしが呪われることはない……はず!)
「……人見知りが過ぎるな」
面倒そうな声に ユナの肩がビクリと跳ねた。
「うぇっ!?」
「おや、失礼」
顔を青くしたユナは、差し出された小箱を慌てて受け取った。
中身を確かめる時間を惜しみ取り出したものを見た途端、顔から血の気が引いた。
「……禁、呪?」
カラン。
小箱が床に落ちた。
漆黒の箱の側面にはラベルが貼られ、王立呪物管理局の封印印が押されている。空になった箱の内側には、通常の呪物とは比べものにならないほど濃密な呪物の残滓がこびりついていた。
(バカッ、わたしのバカッッ!!!)
手の中には、黒い金属製の鳥。
その全身には細密な封印術式――それも禁呪を封じるための朱色の術式が転写されていた。
”朱”は圧倒的な堅牢さを誇る封印術式だ。
「こ、これも王立呪物管理局で管理されている呪物ですか?」
「ええ。箱から出すときは気をつけるように言われました」
(先に言えよおおおおお!!)
とんでもない危険物だって知ってて、何の説明もなく渡してきたよ!?
それどころか禁呪を前にして、この涼しい顔!
(慣れてる……! 絶対、絶対扱い慣れてる……!)
禁呪は、呪術士が呪物の暴力性を強め、悪意に方向性まで与えたものだ。扱いを間違ったら、何が起きるか分からないって言うのに……
(はっ!?まさかこの危険物……エドガーさんが作った呪物ですか?
そうなんですね?
そういうことなんですね!?)
再びユナの膝がガクガクと震えはじめた。
今にも崩れ落ちそうだ。
逃げたい。
今すぐ逃げたい。
でも、ここで禁呪を取り落としたら?
禁呪が暴れたら?
なにより、エドガーさんの機嫌を損ねたら?
(むりむりむりむり!!
絶対に逆らっちゃ駄目な人!!)
その様子を眺めながら、エドガーは昨日の局長室での会話を思い出していた。
手渡された持ち出し許可証。そこに記された朱の封印術式を目にしたとき、エドガーは思わず手を止めた。
「……これを使うのか?」
「これまで工房に回した呪物は、どれも問題なく修復されている。稼働中の封印術式を維持したまま補修できるとは、実に素晴らしい技術だな」
局長は満足げに頷いた。
「技術の確認はこれで最後だ。それと銀杖を持っていけ。封印に問題が起きても、お前なら対処できるだろう?」
「ええ。まあ」
エドガーは、さして気負う様子もなく答えた。
「念のため、工房の外にはここの封印術士を全員配置しておく」
局長室の窓の向こうには、呪物を保管する石造りの建物が見えた。その隣には真新しい再封印棟がそびえている。地上に姿を現しているのは施設のほんの一部にすぎない。地下には、封印に失敗した呪物を外へ逃がさないため、幾重もの封鎖が施されていた。
技術の確認はこれで最後。局長はそう言った。
しかし、エドガーにはもう一つ確かめたいことがあった。
呪物たちが工房の店主に示す反応は、どうにも尋常ではなかった。彼女は本当に修復師なのか。技術を見極めた先にこそ、その疑念を裏付ける証左があるのではないか。そんな予感を抱いていた。
思考を切り上げ、 目の前の少女に視線を戻す。彼女は禁呪を手のひらに載せたまま、まだ震えていた。
(……さて。どこまでが演技なのか)
「え…………すご」
ぽつり、とユナが声を漏らした。
「経年で擦り切れてるのに、……それでも綺麗」
指先の震えはいつの間にか止まっている。
ところどころ文字がかすれ、線の一部が剥がれた朱の術式を指先でそっとなぞっていく。
膝はまだ震えたままだ。
エドガーの口角が、わずかに上がった。
(……行き過ぎた演技力だな)
ユナは術式の修復に使う細筆や光墨を並べた作業台から拡大鏡を引き寄せ、鳥をそっと傾けた。胸元には、深い傷跡が刻まれている。
拡大鏡の向こうで、頭から翼、胴、尾羽に至るまで、全身に描かれた朱色の封印術式が浮かび上がった。植物を模した幾何学模様が羽毛の流れに沿って伸び、複雑に絡み合いながら、精緻な意匠を織りなしている。
「アラベスク……」
ユナの目が輝いた。
恐ろしい呪術士への恐怖も、禁呪を前にした緊張も、今だけは意識の隅へ追いやられている。目の前にあるのは、修復師として見過ごせない、あまりにも見事な封印術式だった。
「何か問題でも?」
「い、いいえ!
こんな洗練された術式、初めて見ました……相当腕利きの封印術士さんなんですね!」
「……さて、そういうものですか」
何食わぬ顔で答えながら、エドガーはほんの少し気分をよくしていた。
(当然だ――)
黒い鳥へ視線を向けたまま、袖に隠した銀杖へそっと指を這わせる。
銀杖は封印術士が術式を描くための道具であり、エドガーにとって長年使い慣れた相棒でもある。並みの封印術士ではない彼の力量を、工房の呪物たちは本能的に察していたのだ。
ユナは拡大鏡越しに、胸元の傷へ目を留めた。
「うーん、封印術式の劣化だけじゃないですね」
その声に、エドガーは顔を上げた。
「なんだろう、古い傷かな?
封印する時についた傷か、呪物にされた時についた傷かわかりませんけど。
ほら、この傷が封印術式の効力を弱めているみたいです。こういう傷があると、封印がかかりにくくなったり、かかっても解けやすくなったりするんですよ」
ユナは思い出したように足下の小箱を拾い上げると、ラベルに記載された情報を確認する。
「……あれ? これ、封印されたのって五年前ですよね?」
「……そうですが」
「それなのに、今も封印が保たれているなんて。すごいですね! この状態で五年も封印を維持できるなんて、術式を描いた封印術士さん、本当に腕のいい方なんですね!」
「……傷が、……ですか?」
エドガーの視線が、黒い鳥の胸元に刻まれた傷へ戻る。
(まさか、これの来歴に気づいたのか?どうやって……?)
「でも、まぁ、それはともかくとして――」
ユナは、鳥を持ち上げたまま首を傾げた。
「字がすっごく汚い!」
ぴしり。
何かが、エドガーの中で音を立てた。
「……はい?」
「ほら、ここ!この払い、潰れてて品がないです。
こっちなんて……こんなに線を重ねるなんて無作法がすぎる」
「……」
「これ、書いた本人も読めないんじゃないですか?」
「…………」
エドガーの視線がそっと手元に落ちた。
「意味から推測したら……読めなくもない、かな?」
「………………」
「ナイわぁ」
心底残念そうに、ユナは首を傾げた。
エドガーは微笑んでいる。
完璧な微笑みだった。
ただ――、
どこかで何かが削れつつあった。
「よし。さくっと始めますか。費用はこれくらいです」
少し重くなった空気に気づくことなく、店主ユナは壁に貼った料金表の該当箇所を指さした。一方、物陰で、棚で、バケツの中で呪物たちは小さくうずくまり、揃って頭を抱えている。
「今回も見学していかれます?」
「もちろん」
変わらぬ笑顔で答えるエドガー。
(……あれ? 笑顔なのに、なんだか怖い)
小さく首を傾げるユナを、物陰から砂ネズミが何とも言えない顔で見つめていた。
◇
ユナは作業台に厚手の布を広げ、その上に黒い鳥をそっと置いた。選んだ筆は最も細い。
光墨の瓶の中では、朱を帯びた墨が光を受け、艶やかな輝きを揺らしている。
彼女は鼻歌を口ずさみながら筆を走らせ、欠損した線を一本ずつ補っていった。どこか音程のずれた旋律だったが、不思議と耳に障ることなく、工房に穏やかな空気を広げていった。途中で拡大鏡を覗き込み、術式の細部を確かめては、また筆を進める。その手つきには迷いがなく、朱色の線が少しずつ本来の形を取り戻していった。
こうして作業を見守るのは今回で五度目になる。それでも、彼女がどんな理屈で筆を動かしているのか、まるで見当がつかなかった。
以前、店主はこう説明していた。
『文字や記号だけでは表現しきれない概念を、別の形で補助している』と。
説明された内容はわかる。
わかるのだが、その理屈の行き着く先が、どうしても自分の知る術式理論とつながらない。
理解の糸口を探すように 細かく動く筆先を熟視する。
「できました!」
ユナが満面の笑みで筆を置いた。
エドガーは、いつものように修復された封印術式を覗き込み――沈黙した。
これで五度目だ。
わかっていたことだ。
それでも、彼女が描く補助図は毎回エドガーの精神を容赦なく削っていく。
朱の封印術式アラベスクの隙間では筋骨隆々の裸の中年男が二人、がっちりと抱き合っていた。
互いの腕を相手の背中へ回し、分厚い胸板はぴたりと密着している。背景には、なぜか花まで舞っていた。
(よくここまで暑苦しい異素材を幻想的なアラベスクに溶け込ませたものだな、おい!)
「…………」
エドガーは目を閉じ、深く息を吐いた。
初めて見たときは、意味がわからなかった。
二度目は、理由を尋ねた。
三度目も、四度目も、納得のいく答えは得られなかった。
そしてたぶん今回も。
「……店主」
「はい?」
「これは、結合力の補助図だったな?」
「はい!よく覚えていらっしゃいますね!」
忘れられるわけがない。
「見てください、この腕力と相思相愛!
この結合力は文字では表現できません!」
ユナは誇らしげに胸を張った。
(……まさか、禁呪にさえ通用する技術だったか)
だからこそ、余計に理解しがたい。
「言いたいことは色々あるが……せめて、男女では?」
「男女?目移りするから駄目です。いろいろ不安定ですよ」
「…………」
目移りとはなんだろう。
いったい、何が不安定なのだろう。
そもそも、なぜ男同士なら安定するのだろう。
聞きたいことは山ほどあった。
だが、これまでの経験からして、尋ねたところで理解が深まるとは思えない。
エドガーは静かに目を閉じた。
(封印術式が崩れることはなかった)
ただし、自分の中で崩れつつあった何かは壊滅した。
「では、仕上げますね」
ユナは何事もなかったかのように作業を再開した。
修復された術式の上に薄く保護の処理を施すと、封印術式全体が淡く光り、キンと澄んだ音が一度工房に響いた。
黒い金属の鳥の目に光が戻り、滑らかに翼を広げた。
不安定な気配はどこにも見られない。術式は封印直後のように整って――いや。
(封印全体の結びつきが明らかに強くなっている。)
見た目はともかく。
見た目は、ともかく。
「……お世話になりました」
「こちらこそ!毎度ありがとうございました!」
満面の笑みを浮かべるユナを、エドガーは静かに見つめた。
「わあっ!」
修復を終えた黒い鳥が、ユナの肩に飛び乗った。
「こっ、こら!あなたは箱に戻って、エドガーさんと帰らないと!」
鳥は聞く耳を持たず、ユナの頬に嘴を寄せ、甘えるように頭をすりつけた。
「ふふ、もう痛くなくなった?」
ユナは困ったように笑い、鳥の頭をそっと撫でた。
「封印術式が歪むと、この子たちは痛いんです。だから、ちゃんと直してあげないと。
ほら、おうちに帰りましょうね。エドガーさんを困らせちゃ駄目ですよ?」
しかし、痛みを取り除いてくれる彼女は、呪物たちにとって特別な存在だった。
封印術式を修復できる者は、ごくわずかしかいない。術式の歪みが呪物に痛みをもたらすことも、それを取り除いた修復師に呪物が懐くことも、世間には知られていない。
黒い鳥は、まだ離れたくないとでもいうように、ユナの指に頭をすり寄せた。
「早く帰ろうね?……ね?」
(帰ってね、ちゃんと所有者連れて!)
ユナがにっこりと微笑みかけると、鳥はようやく肩を離れ、小箱の縁にとまった。そこからもう一度だけユナを振り返る。
いつの間にか、彼女の背後では置時計が小さく鐘を鳴らし、人形たちが両手を前へ突き出している。壁からは、青い灯をともした真鍮のランタンが油断なくエドガーを凝視しているように思えた。
工房の呪物たちは、揃いも揃って奇妙な反応を示している。
そんなエドガーの観察など知る由もなく、ユナは小箱の蓋を閉めようとするたびに邪魔をしてくる黒い鳥と格闘しながら、ちらちらとエドガーの顔色を窺っていた。
(……笑顔が胡散臭い。しくしくしく)
その足元では、尻尾をぶわりと膨らませたシマリスの蛮勇君が、エドガーのつま先の前でびょいんびょいん跳ねながら、尻尾を左右に振り回していた。
(ひいいいいっ!あの蛮勇君がエドガーさんにもう懐いてる!)
それが正しいリスの威嚇行動だとユナは夢にも思わなかった。
いや、でも修復は成功したよね。
仕事は完璧にこなしたよね。
それなら、どうか。
どうか、今すぐ穏便にお帰りいただきたい!!!
「……それで、エドガーさん」
「はい」
「修復は完了しましたので、こちらをお持ち帰りいただければ」
「ええ。そうですね」
清算を済ませたエドガーは優雅に立ち上がり、受け取った小箱と領収証をまとめてポケットへ押し込んだ。
(禁呪の扱いが雑すぎる!)
固まるユナを前に、完璧な笑顔のまま告げた。
「ぜひ、ほかの呪物もお願いしたいのですが」
「…………え?」
ユナの顔から、すっと血の気が引いた。
他にも?
つまり、この恐ろしい呪術士が、また来るの?
エドガーは、その反応を見逃さなかった。
警戒されているのはわかる。
(だが、何に……)
ふと、数年前の災厄が脳裏をよぎった。
王都は禁呪による災厄に見舞われた。
再封印が叶わず、黒い鳥は足跡を残すたび石畳を泥へと変え、建物を崩壊させていった。
逃げ惑う人々。崩れゆく街並み。
一秒でも早く。一人でも多く。銀杖を握りしめ、エドガーは必死に封印術式を描いた。
朱のアラベスク。
二度と、あの災厄を起こしてはならない。
だからこそ、見極めなければならない。
――店主の技術は本物だ。
問題は店主が周囲の呪物に及ぼす影響が、呪術士のそれに酷似している点だ。
疑惑は消えない。
それでも、あの技術を疑惑だけで安易に退けるわけにはいかない。
(……答えが出るまで)
まだしばらくは近くで観察する必要があるだろう。
――そんなエドガーの思惑など知る由もなく、ユナは固く決意していた。
二度と、この恐ろしい呪術士を工房に近づけてはならない。
(ここは勇気をもって断るの一択しかない!)
「い、いえっ、わたし――」
そのとき、工房の外から荒々しい足音が近づいてきた。
ばたんっ!
扉が勢いよく開き、男が工房へ踏み込んできた。
「ユナ!お前、俺に呪物をけしかけやがって!」
怒鳴り込んできたのは喫茶店へ置き去りにした元恋人だった。
入り口の観葉植物に住みついているシマリスが 、乱暴な客にとびかかろうと身を乗り出した。
しかし、エドガーの視線を受け、ピタリと動きを止めた。尻尾だけが、ぶわりぶわりと揺れている。
「へっ!?け、けしかけてませんけど!?」
「嘘をつくな!あの呪物、お前の言うことを聞いてただろうが!」
「聞くわけないでしょ!呪物なのに!
……けど、一応、私だって止めようとしたんだからね!」
「だったら、なんで俺があんな目に遭わなきゃならないんだ!」
「それは、あなたが呪物に攻撃されたからで……!」
「だから、それをどうにかするのがお前の仕事だろ!」
「私の仕事は呪物の封印術式を修復することで、呪詛も呪物の制圧もできるわけないでしょ!!」
ユナは思わず声を張り上げた。
「そもそも、上司の呪詛なんて言い出すから!?」
「お前、それは口に出すなって……!」
元恋人は一瞬、言葉に詰まった。
だが、すぐに顔をしかめる。
「お前が本当に呪術士なら、あんなことにはならなかっただろ!」
「だから、呪術士じゃないっ!!」
「そんなわけあるか!呪物があんなに――」
「……呪詛、というのは?」
静かな声が、二人の言い争いを遮った。
ユナにばかり気を取られていた元恋人は、その声でようやく隣の人物に気づいた。
観葉植物に遮られ、元恋人の視界には入っていなかったのだ。
「えっ。あ、いや、その……」
慌てて言葉を濁し、ようやく声の主へと顔を向けた元恋人は――凍りついた。
(か、課長……!?なんでこんなところに!!??)
さっきまでの威勢はどこへやら。元恋人の顔から、みるみる血の気が引いていく。
ユナは言葉を失い、元恋人とエドガーを交互に見た。
(……エドガーさん、まさか顧客の選定ですかっ?ここでっ!?)
呪詛を依頼したい元恋人と、呪詛が生業の呪術士。
どうしてよりにもよって、わたしの工房で鉢合わせするの!?
待って。
呪詛の依頼も、呪術士との取引も、犯罪の相談も。
全部、よそでやってください!!
わたしは呪物の封印術式を修復する善良な人間ですからね!?
エドガーの目が、すっと細くなった。
「……ふむ」
「い、いえ!なんでもありませんからね!
全部あいつの戯言で……」
元恋人は勢いよく首を振った。
「それで。“上司”の呪詛ですか?
不穏な話ですね」
「ち、違います!こいつが勝手に……!」
「よろしい。詳しく事情を聞く必要がありそうだ」
エドガーは静かに元恋人を見据えた。
「店主、部下が失礼しました。どうやら、別の仕事もできたようです。
今日はこれで失礼します」
部下?
何か聞こえた気がしたけれど、それどころではない。
帰る。
今、帰るって言った。
ユナの肩から、すうっと力が抜けた。
よかった。これでようやく、いつもの工房に戻れる。
呪詛だの犯罪だの、物騒な話はもうこりごりだ。
エドガーは優雅に一礼し、去っていった。
なぜか、元恋人の襟首をつかんで。
「それでは、次回もよろしくお願いしますね」
完璧な笑顔だった。
ユナの顔が、凍りついた。
(……次回?)
(次回って、何?)
(いやですからね!?)
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(次回も来るんですか!?)




