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全盲の女に性加害者だと告発され、僕は国民の敵になった

作者: 熾星
掲載日:2026/07/04

 


 報道番組が、視覚障害者によるマッサージを看板に掲げながら、施術中に女性客へわいせつ行為をしていた疑いのある店を取り上げていた。画面には通りの風景、看板、モザイクをかけられた店の入口が映り、淡々としたナレーションだけが妙に冷たく響いていた。


 僕の施術ベッドに横たわっていた女性客が、ふっと笑った。彼女は使い捨てのフェイスペーパーに顔を伏せたまま、肩と首の力を抜いた姿勢で、まるで自分とは関係のない話でもするように口を開いた。


「あの店、本当は濡れ衣なんですよ。通報したの、私なんです。ちょっと泣いてみただけなのに、本当に信じる人がいるなんて。私、演技の才能があるのかもしれませんね」


 僕の手が止まった。


 彼女は顔だけをこちらへ向け、口元に薄い笑みを浮かべた。


「最近、そういうやり方で稼ぐ配信者、増えてるんですよ。ここ、商店街で長くやってるんでしょう? まだそういう客に当たったことないんですか?」


 次の瞬間、店の外で大きな音がした。シャッターが外から叩き上げられ、数人の警察官が踏み込んでくる。靴音が床に乱暴に響き、先頭の刑事が店内を見回したあと、僕の前で足を止めた。


「真壁悠斗さんですね。施術中に性加害を受けたと訴えている女性がいます。警察署まで同行をお願いします」



 1



 田所健太が警察署に駆けつけたとき、僕は任意同行の記録に署名を終えたところだった。廊下の奥では、被害者を名乗る女が大型犬のリードを握りしめ、サングラスをかけたまま肩を震わせていた。男の背後に隠れるように身を縮め、僕が一歩近づいただけで大きく後ずさった。


 隣にいた男が飛び出し、僕の膝を蹴りつけた。


「目の見えない女にまで手を出すなんて、人間じゃねえだろ」


 健太が殴りかかろうとした。僕はその襟首をつかみ、力ずくで引き戻す。膝の奥が鈍く痛んだが、ここで先に手を出せば負けるのはこっちだった。


「店の防犯カメラは警察に渡しました。あの日の午後二時、僕は受付でUber Eatsの注文を受け取っていました。配達記録も領収書も残っています。三番の施術室には入っていません」


 男はスマホを掲げ、レンズを僕の顔に押しつけるように近づけた。


「皆さん、見てください。これが視覚障害のある女性に手を出した施術師です。防犯カメラなんて、とっくに消したに決まってる。よく平気な顔で無実ぶれますね」


 彼の名は黒岩修司。表向きは配信者を抱えるマネジメント会社の社長だが、実際には過激な配信、炎上商法、暴露系の短い動画で稼いでいる男だった。女の名は白石莉央。黒岩が新しく売り出した、“折れた翼の天使”という設定の配信者だ。


 莉央はその犬の背中に顔を埋め、か細い声を出した。


「刑事さん、この人です。お灸の匂いが強くて……三番の施術ベッドに押さえつけられて、服を脱がされました」


 記録を取っていた刑事がノートを閉じ、証拠品の記録に目を落とした。三番の施術ベッドからは、確かに莉央の衣服の繊維が見つかっていた。けれどそこは、彼女がその日に肩と腰のケアを受けたベッドでもある。


「彼女は僕の客です。肩と腰の施術を受けに来ました。服の繊維がベッド周りに残るのは当然です」


 黒岩がスマホのシャッターを切った。フラッシュが続けて光る。


「証拠? 今どき、証拠だけで世の中が動くと思ってるんですか。Xに一つ投稿すれば、あなたみたいな人間は終わりですよ」


 刑事が机を軽く叩いた。


「スマホをしまってください。ここは警察署です」


 黒岩は不満げにスマホを下ろした。刑事は僕に向き直った。声は先ほどより落ち着いていたが、決して柔らかくはなかった。


「現時点では証拠が足りません。今日は帰っていただいて構いません。ただし、今後の呼び出しには必ず応じてください。しばらく東京を離れる場合は、事前に連絡を」


 黒岩は床に唾を吐き捨てた。


「帰る? どこに帰るんですか。あなたの店、もう終わってますよ」


 僕は何も答えず、健太を連れて警察署を出た。



 2



 タクシーが荒川区の古い商店街へ戻るあいだ、僕のスマホは何度も光った。妹の奈央からLINEが届いていた。大学に入ったばかりの彼女は、まだ東京の暮らしに慣れていない。短い文章にも、どこか遠慮がにじんでいる。


「お兄ちゃん、今夜スペアリブ煮る?」


 僕は画面を見つめ、ひと言だけ返した。


「食べる」


 商店街の入口で車を降りると、店の前に人だかりができていた。僕の鍼灸マッサージ指圧院のシャッターは下ろされ、その上には赤いペンキで大きく「死」と書かれていた。割れた卵、腐った野菜、どこから持ってきたのか分からない汚水が地面に散らばり、生臭い匂いが湿った風に乗って鼻を刺した。


 健太が低く舌打ちし、車へ工具を取りに戻ろうとした。


「今すぐ黒岩の会社を潰してくる」


 僕は彼の肩を押さえ、しゃがみ込んでシャッターの赤い文字に触れた。ペンキはまだ乾いていなかった。指先にねっとりとした赤が移る。家の鍵を持っていなかった僕は、近くの公園の水道で手を洗った。冷たい水が手のひらを叩いたが、汚水の匂いはなかなか消えなかった。


 僕はしばらく指先をこすり続けた。爪の間が赤くなるまで洗っても、あの匂いは皮膚の奥に染みついたように残った。


 翌朝、健太がタブレットを抱えて僕の部屋へ駆け込んできた。僕と奈央は、荒川区の古い木造アパートの二階に住んでいる。六畳と四畳半の二間に、ひとり立てばいっぱいになる狭い台所がついた2Kだ。家賃は安く、店にも近い。大学に通い始めた奈央の面倒を見るにも都合がよかった。


 玄関に立った健太の顔色は悪かった。


「悠斗、Xのトレンド一位になってる」


 画面に表示されていた言葉は、#視覚障害の女性を襲った施術師。僕が動画を開くと、莉央はサングラスをかけたまま病院のベッドに座り、手の甲には点滴のテープが貼られていた。画面の中の彼女は、痛々しいほど弱々しく撮られていた。


「私は見えないから、必死に抵抗するしかありませんでした。力が強くて、口を塞がれて……」


 コメント欄は瞬く間に流れていく。「こんな人間は社会に戻すな」「視覚障害のある女性を狙うなんて最低」「店名を出せ、二度と被害者を増やすな」。動画の後半では、僕の施術院の前にカメラが向けられていた。隣の青果店の佐伯さんが、口元をゆがめて立っていた。


「真壁さんねえ。三十過ぎても独身でしょう。普段は大人しそうに見えるけど、本当のところは分かりませんよ。女性のお客さんがあの人のところへ行くの、前から少し気になっていたんです」


 僕は動画を閉じた。佐伯さんの膝の痛みは、僕が三か月無料で鍼を打ってようやく落ち着いたものだった。先月、彼女の孫が夜中に高熱を出したとき、救急外来まで車を出したのも僕だった。今、その人が何百万人もの前で、僕は信用できないと言っている。


 健太がタブレットをちゃぶ台に叩きつけた。


「あの人、黒岩から金をもらってるんじゃないか。調べたら、煽ってるアカウントの半分くらいが海外プロキシ経由だった。警察に言っても、今の段階じゃ記録を取るだけだ」


 テーブルの上でスマホが震えた。奈央の大学の学生課からだった。相手の声は丁寧だったが、厄介事から距離を取りたいという空気が透けていた。


「真壁さん、大学内の匿名掲示板とXに、奈央さんの写真が多数投稿されています。学部の掲示スペースやロッカー周辺にも中傷の貼り紙がありました。学生の安全を考え、しばらく登校を控えていただくことをお勧めします」


 電話の向こうから、奈央の抑えた声が聞こえた。


「お兄ちゃん、私、何もしてないよ。どうして私の学生証の写真をトイレのドアに貼るの?」


 背後では、女の子たちの甲高い笑い声が混じっていた。


「性犯罪者の妹が、被害者ぶってる」


 僕は電話を切り、黒岩の番号を押した。数秒後、受話口から黒岩の笑い声が響いた。スピーカーにしているのか、周囲のざわめきまで聞こえる。


「皆さん、あの施術師から電話が来ましたよ。相当焦っているみたいですね」


 僕は手の中のボールペンを握りしめた。


「黒岩、僕の妹に手を出したな。自分の逃げ道を考えておけ」


 向こうが一瞬だけ静かになった。次に聞こえてきた笑い声は、さっきより大きかった。


「脅してるつもりですか? 僕は弱い立場の女性のために動いてるんですよ。小さな施術院の院長さんが、何をできるんです?」


 チャイムが鳴った。ドアの外にはバイク便の配達員が立っていた。受け取った封筒を開けると、一枚の写真が落ちた。奈央が入学手続きのときに撮った証明写真だった。顔の部分はカッターでずたずたに切り裂かれ、裏には赤いペンでひと言だけ書かれていた。


 兄の罪は妹が償え。


 手の中のボールペンが折れた。中のバネが飛び出し、ガラスの小さなテーブルに当たって音を立てる。僕は写真を伏せ、工具箱から油のついた重いレンチを取り出して、腰の後ろへ差し込んだ。


「健太、奈央を頼む」



 3



 黒岩の事務所は、渋谷のIT系企業が多く入るビルにあった。僕はエレベーターを使わず、十二階まで階段で上がった。ガラス扉を開けた瞬間、四人の警備員がこちらを囲む。奥の社長椅子に座っていた黒岩が、片手を上げて彼らを下がらせた。


「通してください。商売は、話し合いが大事ですから」


 彼は立ち上がり、入口のそばにある廊下の監視カメラのスイッチを切った。僕は向かいの椅子を引き、腰の後ろからレンチを抜いて、デスクの上に叩きつける。木の天板にへこみができ、警備員たちの表情が変わった。黒岩だけが、それを見て薄く笑った。


「いくらだ」


 黒岩は茶を淹れるような仕草をした。


「真壁さんは話が早いですね。莉央は今、精神的にかなり不安定です。心理ケアも必要ですし、謝罪文と和解金も必要になります。三千万円。それが振り込まれれば、彼女には示談書を書かせます。振り込まれなければ、妹さんには毎日違うものが届くでしょうね」


 僕は黒岩の目を見た。


「録画データは、お前たちが強い磁石で壊した。莉央の証言だけじゃ、警察は僕を有罪にできない。何を根拠に三千万も要求する」


 黒岩は笑みを消し、スマホを取り出した。再生ボタンを押すと、先に莉央の声が流れた。痛みをこらえるような、かすれた声だった。


「痛い……もう少し優しく……お願い、やめて……」


 続いて、僕の声が聞こえた。


「脚を少し開いて。力を抜いて、すぐ終わるから。動かないで、うつ伏せのままでいて」


 一瞬、頭の中が空白になった。確かに僕の声だった。けれど、それは性加害の現場ではない。施術中の指示だった。骨盤周りの筋肉を緩めるとき、莉央は痛いと言い、僕は力を抜くように言った。黒岩はそれらの言葉だけを切り貼りし、順番を入れ替えて、まったく別の意味に変えていた。


 黒岩はスマホの画面をこちらへ向け、親指を送信ボタンの上に置いた。


「これはまだ警察には出していません。暴露系のインフルエンサーに流せば、あなたは一生戻れませんよ」


 僕の服の内側には、小型のICレコーダーが入っていた。黒岩が恐喝めいた言葉を口にすると思っていた。けれど、彼はそれをしなかった。口にするのは「和解」「支援」「精神的損害」ばかり。言っていい言葉と、言ってはいけない言葉をよく分かっている。


 僕はデスクのレンチを指で叩いた。


「今日はこれで殴らない。いつか、お前の骨壺の蓋を締めるために取っておく」


 黒岩は送信ボタンを押した。


「どちらが先に終わるか、見ものですね」


 十分後、百万以上のフォロワーを持つ暴露系アカウントがその音声を拡散した。添えられた文は短かった。


 細かい検証はあとでいい。だが、この声を聞いて何も感じない人間がいるのか。


 五分後、二台のパトカーがビルの下に止まった。刑事たちが事務所に駆け込み、僕の手首に手錠をかける。冷たい金属が肌に食い込んだ瞬間、ポケットに入れていた小型レコーダーが床に落ち、砕けた。


 僕は警察署の留置場と取調室を行き来しながら、四十八時間を過ごした。強い光が顔に当たり、目の奥が痛む。刑事はあの音声を何度も再生した。狭い部屋の中で、莉央の声と僕の声が壁に跳ね返る。


「説明してください」


 僕は机の上を見つめた。


「施術中の指示です。音声は編集されています」


 刑事は資料をめくった。


「初期の確認では、はっきりした環境音の断絶は見つかっていません。元の録音がなければ、その説明を通すのは難しいでしょう」


 四十八時間後、音声だけでは決定的な証拠にならず、僕は釈放された。捜査は在宅のまま続き、検察は勾留請求を見送ったらしい。警察署の外に出ると、日差しが眩しくて頭がふらついた。健太が古い軽ワゴンを路肩に止めて待っていた。


 車に乗り込むと、彼は古いノートパソコンを僕の膝に押しつけた。


「昔、音響の仕事をしてた知り合いに見てもらった。あの音声、やっぱりおかしい。普通に聞いても分からないけど、ソフトなら拾える。ここ、ここ、それからここ。周波数に小さな切れ目がある。つなぎ合わせてる」


 画面には複雑な波形が並んでいた。僕はしばらくそれを見つめ、静かにパソコンを閉じた。ネットに出しても意味はない。大多数は周波数など見ない。自分の耳で聞いた、刺激的な音だけを信じる。


「莉央の住所は分かったか」


 健太が紙片を渡してきた。


「会社の寮じゃない。隅田川の近くの高級マンションにひとりで住んでる」


 部屋に戻ると、客間の明かりは消えていた。奈央は窓際に座り、床には切られた髪が散らばっていた。手芸用のハサミで、自分の長い髪を不揃いに切っていた。僕を見ると、彼女は無理に笑った。


「お兄ちゃん、髪を短くしたの。帽子をかぶれば、外で気づかれにくいと思って」


 僕は近づき、彼女の手からハサミを取り上げた。慰めの言葉は何も出なかった。台所に入り、冷蔵庫から豚のスペアリブを取り出す。まな板に包丁の背が落ち、鈍い音が続いた。


「奈央、食べたら少し出てくる」



 4



 隅田川にかかる歩道橋は、夜十一時を過ぎると人通りが少なかった。川から吹き上げる風は冷たく、肌を切るようだった。僕はキャップを深くかぶり、盲導犬風のハーネスをつけた大型犬を連れて歩く莉央の前に立った。ここには監視カメラがない。街灯も薄暗く、彼女は三メートルほど離れた場所で足を止めた。


「白石莉央。金額を言え。元の録音を僕に売れ」


 茫然としていたはずの表情が、一瞬で変わった。次の瞬間、莉央は誰もいない前方へ向かって叫んだ。


「来ないでください! 真壁さん、お願いです、やめてください!」


 僕は眉をひそめた。


「ここには誰もいない。芝居はやめろ」


 莉央はスマホを取り出した。画面を探る素振りもなく、親指で正確にロックを解除し、配信アプリを開く。開始音が鳴ると、彼女はすぐに歩道橋の外側へ後ずさり、カメラを自分の顔に向けた。


「助けてください! この人が私をつけてきました! 殺されます!」


 彼女は手慣れた動きで腰ほどの高さの柵を越えた。体が川風に揺れる。下には黒い水面が広がっていた。僕は一歩下がった。怒りよりも先に、冷たいものが背中を走る。あの動きは、あまりにも慣れていた。


「莉央、やめろ。本当に落ちたら死ぬぞ」


 配信のコメント欄は一気に流れ始めた。「警察を呼べ」「あの施術師が橋まで追い詰めてる」「口封じだ、もう性加害どころじゃない」。通行人が歩道橋へ集まり始め、下にはハザードランプを点けたワンボックスカーが二台止まった。黒岩が数人を連れて駆け上がってくる。


 莉央は柵をつかみ、スマホのレンズへ顔を向けた。


「皆さん、証人になってください。私はこの人に追い詰められました。こんな世界で、もう生きていけません」


 黒岩が僕に向かって怒鳴った。


「彼女に何をしたんだ!」


 莉央が黒岩を見た。絶望ではなかった。合図を確認する目だった。次の瞬間、彼女は手を離した。体が真っすぐ落ち、川面から鈍い音がした。


 盲導犬風のハーネスをつけた大型犬は、柵のそばに座ったまま吠えもしなかった。四人の通行人が僕に飛びかかり、地面へ押さえつける。黒岩の靴底が僕の顔の横に乗り、アスファルトの砂が頬にこすれた。


「皆さん、見ましたね。この男が被害者を死に追いやりました!」


 息が詰まり、僕は黒い川面を見つめることしかできなかった。


 僕は殺人者になった。


 莉央は死ななかった。落ちる位置はあらかじめ計算され、橋の下には黒岩が用意した救助用の船がいた。彼女は病院へ運ばれ、酸素マスクをつけられ、集中治療室のベッドに横たわった。黒岩はその病室の外で配信を始め、診断書と救急搬送の記録をカメラにかざした。


「皆さん、莉央は助かりました。でも、今後の治療には多額の費用が必要です。被害者支援の口座を開設しました。どうか彼女が正義を取り戻すために、力を貸してください」


 たった二時間で、投げ銭と振り込みは八百万円を超えた。僕は警察署の取調室に座り、手首の手錠が骨に当たるのを感じていた。刑事の忍耐はもう尽きかけている。机の上の資料が一枚ずつめくられるたび、僕はさらに深く沈んでいくようだった。


「被害者を追い詰めて自殺を図らせた疑いがあります。しかも公共の場で騒ぎになっている。真壁さん、今どれほど深刻な状況か分かっていますか」


 僕は手錠を見下ろした。


 必ずひっくり返す。



 5



 検察官が勾留請求を検討している最中、健太が弁護士を連れて警察署に飛び込んできた。彼の服はしわだらけで、目は赤かった。それでも、声だけははっきりしていた。


「白石莉央を詐欺で告発します。彼女は全盲ではありません」


 刑事が眉をひそめた。


「彼女には身体障害者手帳があります。資料上は視覚障害となっています」


 健太がパソコンを開いた。


「手帳があることと、全盲であることは別です。軽度の視覚障害があるのかもしれません。けれど、黒岩は彼女を“完全に見えない被害者”として売り出した。それ自体が詐欺の一部です」


 彼が再生したのは、スマホゲームの録画だった。画面の中でキャラクターが素早く振り向き、照準を合わせ、相手の頭を撃ち抜く。動きは滑らかで、ただの偶然には見えなかった。健太はログイン記録と配信者用の后台資料を並べ、早口ながらも一語ずつ区切って説明した。


「これは莉央が紐づけているアカウントです。この半年、彼女はほぼ毎晩スマホFPSをやっています。ランクも高く、狙撃の命中率も異常です。本人確認の情報と電話番号も一致します。全盲だと売り出されていた期間に、ずっとゲームをしていたんです」


 取調室が静まり返った。僕は顔を上げ、痛む手首を少し動かした。莉央に視力がまったくないわけではない。おそらく軽度の視覚障害はある。だが黒岩はそれを“全盲の天使”として包装し、その肩書きで最初の裁きを作り上げた。


「ログイン時間、本人確認、過去の動画を調べてください。彼女は全盲じゃない。この事件は最初から仕組まれていたんです」


 ゲームアカウントとログが出ても、捜査には時間がかかった。歩道橋付近の防犯カメラは、僕が莉央に触れていないことを示していた。彼女は自分で柵を越えていた。数日後、僕は一時的に釈放されたが、その映像をネットには出さなかった。暴露系のアカウントは、AI合成だと言い出すに決まっている。そうなれば、被害者を攻撃したという新しい火種を与えるだけだった。


 黒岩を潰すなら、世論を追いかけても意味がない。


 切るべきは、資金源だ。


 僕は家に戻らず、健太に車を出させて城南の修理工場へ向かった。そこには犬飼がいた。黒岩にとって最大の債権者だ。黒岩は過激な配信で稼ぐ一方、ギャンブルと投資でかなりの借金を抱えていた。


 僕は莉央のゲーム動画と、黒岩が二時間で八百万円を超える支援金を集めた后台のスクリーンショットを犬飼の前に置いた。


「黒岩に金が入りました。でも、その金は今夜にも海外口座へ移されます。明日になれば逃げられます」


 犬飼は画面を見終えると、煙草を灰皿に押しつけた。


「車を出せ。地下駐車場で捕まえる」


 その夜、黒岩はオフィスビルの地下駐車場で、数台の白いハイエースに囲まれた。犬飼は余計な話をしなかった。近づくなり、黒岩の頬を三度叩いた。乾いた音が地下に響く。


「皆さん、よく見てください。これが金を借りて逃げる男の顔です」


 黒岩は鼻血を流した。命を守るため、その場で引き出したばかりの五百万円を犬飼に振り込むしかなかった。資金繰りは一瞬で崩れた。インフルエンサーや切り抜きアカウント、匿名の煽りアカウントに払う予定だった金は、一円も残らなかった。


 黒岩は顔を押さえたまま会社へ戻り、莉央に電話をかけた。声は低いが、怒りを隠しきれていない。


「五百万が消えた。今夜、もう一本配信しろ。病室でリストカットするんだ。血が映れば映るほど数字が伸びる」


 莉央の声が固まった。


「社長、本当に切ったら死ぬかもしれません」


「やらなきゃ、俺たちが終わる」


 僕は遠くの路地から、犬飼たちの車が去っていくのを見ていた。口には火のついていない煙草をくわえたままだった。ライターを何度押しても、火はつかなかった。


 ようやく、この仕掛けに裂け目が入った。


 黒岩は莉央を病院から連れ出し、会社名義の古いマンションの一室に隠した。監視役を雇う金はなく、彼女のスマホだけを取り上げていた。夜十時、僕がその部屋へ入ると、莉央はソファに座り、伸びたカップ麺を前にぼんやりしていた。サングラスはしていない。目は大きく開かれていた。


 僕を見るなり、彼女は後ろへ下がり、テーブルの果物ナイフをつかんだ。


「何しに来たの。殺すつもり?」


 僕は印刷した取引明細をテーブルに投げた。


「これを見ろ。黒岩の海外口座の明細だ。ここ数日で集めた二千万円以上の支援金の大半は、分割されて海外の賭博口座へ流れている。明日の便で東南アジアへ飛ぶつもりだ。お前も連れていくと思うか」


 莉央はためらいながら紙をつかみ、数字を追った。顔から血の気が引いていく。僕は椅子を引いて座り、彼女がそこに書かれた金の流れを理解していくのを見ていた。莉央は馬鹿ではない。金は黒岩が持ち逃げし、罪だけが自分に残ることにすぐ気づいた。


「どうしてあなたを信じなきゃいけないの。これを渡すのは、私に警察で証言を変えさせたいからでしょう。今さら本当のことを言ったって、私も捕まるじゃない」


 彼女は怯えきってはいなかった。むしろ、その紙を握りしめる指に力が入った。黒岩を脅し、僕も利用する。彼女はまだ両方から利益を取ろうとしていた。


 僕は止めなかった。


 莉央は玄関横の緊急呼び出しボタンを押した。それは黒岩のスマホにつながっている。僕は部屋を出て、階段の暗がりに身を潜めた。


 三十分後、黒岩が怒りに顔をゆがめて部屋へ飛び込んできた。莉央は取引明細を掲げ、リビングの真ん中に立っていた。その声には、もう“盲目の被害者”らしい弱々しさはなかった。


「お金の半分をちょうだい。そうじゃなきゃ、明日自首する」


 黒岩は明細を見て、冷たく笑った。次の瞬間、彼は莉央の腹を蹴った。莉央は床に倒れ、黒岩は彼女の身体障害者手帳のコピーを破り、顔に投げつけた。


「俺と取引する気か? 警察に行けばいい。お前が証言を変えた瞬間、最初の件は崩れる。詐欺も偽証も、俺たちは一緒に沈むんだよ」


 莉央は腹を押さえながら、黒岩の動きを目で追っていた。その瞬間、見えないふりをすることを完全に忘れていた。


 彼女はようやく、自分がただの捨て駒だと理解した。



 6



 莉央のところには火種を置いた。だが、最初の嘘を断ち切るには、もう一つ決定的な証拠が必要だった。あの切り貼りされた音声の原本だ。健太は、施術室の記録装置が壊れていたと証言した元受付の森田さんを見つけ出した。


 森田さんは黒岩から百万を受け取り、すぐに辞めて群馬の実家へ戻っていた。僕は健太の軽ワゴンを運転し、彼女の家の近くの田舎道で待った。森田さんは庭先で野菜を仕分けしていた。僕の姿を見た途端、腰を抜かしたように座り込んだ。


「真壁先生……私は何も知りません。警察にもそう話しました」


 僕は一冊の帳簿を彼女の前に落とした。そこには在庫の点検記録と、彼女が材料を横流しした入金記録が挟まれていた。うちで二年働くあいだ、高級艾条や長白山人参を安物にすり替え、差額を売り払っていた。総額は五十万円を超えていた。


「百万の口止め料で、僕の人生を売ったんですね。森田さん、それだけの価値がありましたか」


 彼女は震えながら、胸元に野菜かごを抱え込んだ。


「息子が結婚するんです。相手の家から、新居の費用を少しでも用意してほしいと言われて……本当に、どうしようもなかったんです」


 僕は土壁に貼られた賞状を見た。


「今すぐ警察に通報されて、窃盗と偽証で調べられるか。元の録音を出すか。選んでください」


 森田さんは崩れ落ちた。這うように家の中へ入り、ベッドの下に置いてあった菓子の缶から、黒いICレコーダーを取り出した。施術院でトラブル防止のために使っていた記録用の機器だった。黒岩に買収されたとき、彼女は念のため原本を完全には消さず、密かに残していた。


 レコーダーを手に入れても、僕はすぐ警察へは渡さなかった。原音の一部だけを抜き出し、匿名で黒岩のスマホへ送る。あいつを動揺させ、逃走を早めさせるためだった。金を持って逃げようとすれば、詐欺と犯罪収益の移転がよりはっきりする。


 僕は勝ったつもりでいた。レコーダーを持って警察へ行き、羽田空港で黒岩を押さえる段取りを進めた。だが、黒岩はそこまで単純ではなかった。警察は羽田で空振りした。彼は空港へ行かず、渋谷の広場で大規模な被害者支援集会を開いていた。


 黒岩は最後のカードを切った。広場の大型スクリーンには、スーツ姿の黒岩が目を赤くして立っていた。隣には二人目の“被害者”がいる。


 それは、うちの施術院で働いていた視覚障害のある施術師、小松綾乃だった。


 綾乃は僕が手取り足取り仕事を教えた後輩だった。三年間給料を払い、資格試験の準備も手伝った。その彼女が、数万人の前でマイクを握っていた。声は張り詰めている。


「真壁先生は、普段から女性のお客様に不必要に触っていました。私が言おうとすると、給料を払わないと脅されました」


 内部の人間による告発は、致命的だった。ネットの空気は一瞬で変わった。「店の人まで証言している」「単発じゃない、常習だ」「こういう施術院が他にもあるんじゃないか」。僕が元の録音を警察に渡したことが漏れると、黒岩は広場で、それは僕が合成した“言い逃れの証拠”だと言い切った。


 綾乃の証言は、録音の信用を押しつぶした。怒った人々は僕のアパートを見つけ出し、古い木造アパートの前に集まった。誰かがゴミ箱に火をつけ、煙が換気口から部屋へ入り込む。僕が警察署から駆け戻ったとき、階段には煙と火の明かりが満ちていた。


 ドアを蹴り開けると、奈央が居間に倒れていた。激しく咳き込み、顔はすすで汚れていた。僕は彼女を抱き上げ、外へ運び出した。奈央は僕の服を強くつかんだまま、部屋の中の荒れた床を見つめていた。


「お兄ちゃん……もう無理なら、あの人を殺して」


 煙で赤くなった彼女の目を見た瞬間、僕の中で最後に残っていた線が切れた。


 奈央を健太に預け、数十キロ離れた親戚の家へ送った。その後、僕は市内へ戻り、ひとりで綾乃の部屋へ向かった。綾乃は車椅子に座り、窓の外をぼんやり見ていた。僕が入ると、彼女は車椅子から落ちるように床へ崩れ、膝をついた。


「先生、ごめんなさい。黒岩に言われたんです。言われた通りに読まなければ、弟が薬物を使っている動画を警察に出すって。弟を捕まえさせたくなかったんです」


 僕は彼女を助け起こさなかった。ウォーターサーバーまで歩き、熱い湯を紙コップに入れて、彼女の前の床へ置く。綾乃はその湯を見つめ、肩を震わせていた。


「弟を守るために、僕を突き落としたんですね。僕が人を追い詰めない人間だと、そう思っていたんですか」


 僕はスマホを取り出し、警視庁の薬物犯罪に関する相談窓口へ電話をかけ、スピーカーにした。


「通報します。朝陽マンション三号棟四〇二号室で、薬物使用者を長期的に出入りさせている疑いがあります。証拠は後ほど送ります」


 電話を切ると、綾乃は悲鳴を上げてスマホを奪おうとした。僕は伸びてきた手を蹴り払った。紙コップが倒れ、熱い湯が彼女の手の甲にかかった。綾乃は痛みに震えたが、手を引くこともできなかった。


「これで、黒岩が持っていた動画はもう脅しにならない。選択肢は僕が消しました。あなたは奈央の人生を地獄に落とした。今度は、あなたたちが自分のしたことの結果を受け取る番です」


 僕は背を向けた。


「明日、警察が話を聞きに来ます。何を話すべきか、分かっていますね」


 背後で、額が床に当たる音がした。彼女の弱点を、僕は切り落とした。黒岩への恐怖は、僕への恐怖に変わった。



 7



 僕は綾乃から黒岩の予備の連絡先を聞き出し、彼女のスマホで短いメッセージを送った。


「真壁は逃げました。警察もまだ見つけていません」


 黒岩からすぐ返事が来た。


「よくやった。ネットの動きを見張っておけ」


 彼は警戒を解いた。邪魔者をすべて片づけたと思い、支援金の移動に集中し始めた。午前一時、僕と健太は莉央が閉じ込められているマンションへ向かった。莉央は食事を拒んでいた。黒岩に完全に見捨てられたと思い込んでいる。僕が部屋に入ると、彼女はすぐにテーブルランプをつかみ、投げつけてきた。


 僕はそれを払い、画面のついたノートパソコンを彼女の膝へ置いた。


「黒岩は今夜から資金を移し始めている。金が出ていけば、詐欺の罪はお前ひとりに残る」


 莉央は画面を凝視した。健太は、以前から保全していた后台の記録と公開ログをもとに、黒岩の会社から流れる金の一部を追跡していた。画面上では、小分けにされた金が次々と海外口座へ向かっていた。


 僕は一本のナイフをテーブルの上に置いた。


「助かる道は一つだけだ。配信アカウントにログインしろ。僕の言う通りにするんだ」


 莉央は震えていた。彼女は目を閉じ、何度も逃げ込んできた“見えない自分”の中へ戻ろうとした。僕は彼女の顎をつかみ、画面へ向けさせた。


「全盲のふりは、もう疲れただろ。今夜はちゃんと、この世界を見ろ」


 生き残るために、莉央は倒れ込むようにこちらへ傾いた。配信アカウントのIDとパスワードを打ち込む指は、震えて何度もキーを外した。


 夜十一時半、黒岩は莉央に最後の配信を命じた。絶望の訴えを演じ、ネットの視線をそこへ釘づけにしておく。その間に資金移動の最終段階を終えるつもりだった。


 莉央は台本通りに配信を始めた。顔色は悪く、目は赤い。カメラに向かって、かすれた声を出した。


「告発投稿だけでは、あの人を裁けませんでした。だから、私が自分を壊します。皆さんが送ってくれた支援金は、私がいなくなったら、本当に助けを必要としている人へ渡してください」


 同時視聴者数は三百万人を超えた。ネット中が、“盲目の被害者”の最後の訴えを待っていた。コメント欄には「真壁を許すな」「莉央を守れ」「加害者を逃がすな」という言葉が流れ続ける。黒岩は会社のモニタールームで配信データを見つめながら、キーボードを叩いていた。資金移動の進捗は八十パーセントを超えていた。


 マンションの一室で、僕はカメラの死角に立っていた。ナイフは手に握っていたが、刃先は莉央の背後にあるソファの背もたれに向けている。健太は隣でキーボードを叩き、配信の高い通信量に紛れて、黒岩の物理サーバーと資金移動のIPを絞り込んでいた。


「予定通り話せ」


 残り三分。進捗は九十五パーセント。莉央はカメラを見つめ、涙を流した。視聴者は、それを追い詰められた被害者の涙だと思った。彼女自身だけが、それが恐怖の涙だと知っていた。


 時間になった。僕はナイフの柄で、ソファの背を軽く叩いた。


 莉央は泣くのをやめた。三百万人の視線の前で、いつも外さなかったサングラスをゆっくり外す。そして、目を大きく開き、まっすぐカメラを見た。補助ライトが強すぎて、彼女の瞳孔が画面上で明らかに収縮した。


 配信画面が数秒、凍りついたように静かになった。


 莉央はマイクに近づいた。


「私は全盲ではありません。白石莉央です。これは支援活動ではありません。黒岩修司に作らされた、詐欺の台本です」


 コメント欄が不気味な沈黙に沈んだ。次の瞬間、健太がエンターキーを押す。莉央の配信画面の背景が切り替わった。病室風の寂しい背景は消え、黒岩が二千万円以上の支援金を分割して海外へ移していた取引明細の画像が大きく映し出された。


 送金時間、IPアドレス、送金先。そのすべてがはっきり表示されていた。


 直前まで莉央を心配していた視聴者たちは、一斉に別の言葉を打ち込み始めた。「金を返せ」「詐欺師」「黒岩、説明しろ」「私が送った金はどこへ行った」。流れは、どんな裁判よりも速かった。


 黒岩はモニタールームで配信の異変を見て、顔をゆがめた。キーボードを叩き、回線を抜こうとしたが、警察の要請を受けた平台側が配信データを保全していた。即座に切ることはできない。さらに副カメラが切り替わり、うろたえる黒岩の顔が莉央の配信に映し出された。


 黒岩は終わったことを悟った。現金の入った黒い旅行バッグをつかみ、非常階段へ走る。防火扉を開けた瞬間、懐中電灯とカメラのフラッシュが彼の顔を照らした。


 僕は扉の外に立っていた。背後には二組の警察官がいた。健太が十五分前に通報していた。人証、物証、資金の流れ、IPの記録。ようやく証拠の輪が閉じた。


 警察官が黒岩を床へ押さえつけた。彼は黒い旅行バッグを抱きしめたまま離さなかった。爪が革に食い込み、深い跡を残している。


 僕はその前に立ち、見下ろした。


「数字がすべてだと言っていたな。今、その数字に最初に見捨てられたのはお前だ」



 8



 半年後、東京地方裁判所で判決が言い渡された。黒岩修司は恐喝、詐欺、業務妨害、犯罪収益の移転に関わる罪などで懲役十年。白石莉央は詐欺の共犯と偽証で三年。小松綾乃は犯人隠避と偽証に関わったとして、執行猶予付きの判決を受けた。


 警察は支援金口座を凍結し、確認できた分は記録に沿って順次返金された。僕は不起訴処分通知書と、警察が発行した説明文書を手に、裁判所を出た。ポケットに入れていた偽造音声のコピーをライターで燃やす。火は紙の端を丸め、すぐに灰に変えた。


 僕は勝った。


 荒川区の商店街へ戻ると、施術院のシャッターは新しくなっていた。赤いペンキも汚水もない。けれど僕は業者を呼び、五年間掲げていた看板を外させた。店は手放すつもりだった。


 隣の青果店の佐伯さんが、気まずそうに青森産のりんごを二つ持って近づいてきた。


「悠斗くん、あのときは私も悪い人にだまされちゃってね。この店、本当に閉めるの?」


 僕は受け取らなかった。ちょうどそのとき、近所の女性が孫の手を引いて通りかかった。小さな女の子が僕に気づき、一瞬だけ足を止める。女性はすぐにその子を抱き寄せ、半歩だけ距離を取って通り過ぎた。


 僕は彼女たちの背中を見つめた。名誉というものは、一度汚れると、どれだけ洗っても細菌が残っているように見られる。もう誰も、娘や妻や母親を、男性施術師のいる施術室へ安心して入れようとは思わない。


 部屋に戻ると、奈央は窓際に座ってぼんやりしていた。疑いは晴れ、大学も彼女への登校自粛の勧めを取り消した。けれど、奈央は一度も大学へ戻らなかった。白衣を着た人や、スマホを構えている人を見るだけで体が固まる。医師は、重い抑うつ状態とトラウマ反応だと言った。夜もほとんど眠れない。


 僕は荷造りを終えたスーツケースを玄関に置いた。居間のテレビでは、ニュース番組がその日の話題を報じていた。


 某私立大学の女子学生が、指導教員から性加害を受けたと実名で告発。


 画面下を、視聴者のコメントが流れていく。


 “もう少し様子を見たほうがいい”


 “反転するかもしれない”


 “白石莉央の二の舞じゃないだろうな”


 “金のためなら、何でも書く人間はいる”


 僕はリモコンの電源ボタンを押した。画面が黒く沈む。


 施術院の壁に飾っていた感謝状を外し、折りたたんで、ぐらつくちゃぶ台の脚の下に差し込んだ。


 この世から、ひとりのまじめな施術師が消えた。


 そしてこれから先、暗闇の中で本当に泣いている、助けを必要としている無数の“白石莉央”たちも。


 あの女が目を開けた瞬間に、同じように負けたのだ。





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