表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

追放してくれてありがとう

作者: 久遠れん
掲載日:2026/02/18

 公爵令嬢クリスティナは未来の王太子妃として幼少期から厳しい教育を受けてきた。

 時に王太子であるフランシスを咎め、宥め、諫め、彼のために影に日向に励んできたつもりだ。

 だが、その結果は。


「クリスティナ・ウィルソン!! 私は貴様との婚約を破棄する!!」


 ――婚約破棄だった。


 フランシスの生誕を祝うパーティー会場で、婚約者のクリスティナを放置して聖女マリナをエスコートして入場してきたと思ったらこれである。


 元々、頭が弱い、端的にいって馬鹿だと思ってはいたが、悪い意味で予想を超える言動をしてくれる。


 ちらりとクリスティナはフランシスにエスコートをされているマリナへと視線を向けた。

 少し前に聖女として教会に能力を認められた彼女は、聖女の肩書を使って王宮に入りびたっていることは知っていた。


 フランシスと仲睦まじいという噂話も把握していたが、どうせいつもの悪癖だろうと放置していたのだ。

 なにしろフランシスはとにかく女癖が悪い。その上、怠惰で傲慢。


 他に男児の王子がいないから、かろうじて王太子でいられるようなありさまだった。

 だからこそ、クリスティナには為政者としての高い能力が求められていた。


 フランシスを支え、国を導く役割を押し付けられてきたのだ。

 だが、それらから解放してくれるというのなら、願ったり叶ったりだ。


(っ!! やっと! やりましたわ!! これで色んなものから解放されるのですね……!!)


 王宮内での腹の探り合いも、勉強漬けの毎日のも、厳しい王太子妃教育も、クリスティナを道具としてしか扱わないフランシスや両親にも辟易としていた。


 逃げ出す機会を虎視眈々と狙っていたのだ。

 だから正直にいって、婚約破棄が嬉しくて仕方ない。


 とはいえ、それを素直に表情に出す愚は犯さない。心のままに喜んでは、周囲への心証が最悪だ。

 理不尽な要求を突き付けられた被害者を装わねばならない。


 あえてそっと視線を伏せたクリスティナの様子に調子に乗ったフランシスがさらに彼女を責め立てる。


「そもそも、貴様は可愛げがない。女など、男の後ろで支えればよいものを、何かにつけて私の行動に口を挟む。その上、聖女であり可憐な女性であるマリナに嫉妬して陰湿な嫌がらせを繰り返した! 看過できぬ!!」


 王族でも王族の婚約者や伴侶でもないのに王宮に入りびたることや、聖女とはいえ目上の者によく言えば親しげ、悪く言えば馴れ馴れしく話すのを窘めることは『陰湿な嫌がらせ』になるのだろうか。

 彼らの感覚が本当にわからないクリスティナは内心で首を傾げてしまう。


「……わたくしが今まで担ってきた政務はどうなさるおつもりですか?」


 一応、念のための確認を口にする。

 フランシスにも未来の王太子妃の座にも未練はないが、課せられた義務を放り出すことになるのだ。

 自分は悪くないと周囲に印象付ける必要がある。


「貴様の代わりなどいくらでもいる!!」

「ご安心なさってください。これからは私たちがこの国を支えますから」


(あらそう? 中々大変だと思うけれど。やったことがないからわからないのね)


 クリスティナが行っている政務は未来の王太子妃だからこそできるものが大半だ。

 その上で、長年真面目に勉強したからこそこなせる量なのである。


 実は睡眠時間が一日三時間を切るのが当たり前なのを、彼らは知らないし、知ろうともしていない。


 近い未来で発狂するであろう二人を想像し、思わず口角が緩みそうになる。

 叩き込まれた王太子妃教育で身に着けた儚げな仮面を被って、浅く息を吐く。


 周囲の貴族たちの反応は二分されている。

 クリスティナの献身を知っている文官に近い者たちははらはらと見守っているし、口を出しそうなのをこらえているのが伝わってくる。


 逆に王太子を担ぎ上げ傀儡にしたい者たちは、邪魔なクリスティナがいなくなることに嬉しげだ。

 今までクリスティナが彼らの毒牙から守ってきたことも、フランシスが知る日は来るのだろうか。

 ないだろうな、と冷めた思考で考える。


「今後、王都の土地を踏むことは許さん! 貴様のような悪女をマリナに近づけるわけにはいかんからな!」

「まぁ、殿下」

「任せてくれ、君は私が守る!!」


 いちゃいちゃらぶらぶ。

 茶番を見せつけられて、愛で国が守れたら苦労はしないのよね、と呆れてしまう。


(できるものなら、やってみなさい)


 間違いなくクリスティナがいなくなれば政務は滞る。彼らが軽んじたものの重さを思い知ればいい。

 内心とは裏腹に、あえてすとんと表情を削ぎ落したクリスティナは綺麗な淑女の礼を披露した。


「畏まりました。二度とお会いすることもなさそうですわ」

「貴様の忌々しい顔を見なくてすむと思うと、笑いが止まらんな!」


 そういって高笑いするフランシスに背を向けて、クリスティナはまかり間違って引き留められる前にと、凛と背を伸ばしてその場を後にした。






 会場を出て馬車に乗ったクリスティナの正面には憮然とした表情の青年が座っていた。

 キリっと吊り上がった眉にすっと通った鼻梁、薄い唇。


 端整でいて凛々しい面立ちに引き締まったしなやかな体躯を持つ彼の名はアラン。

 彼女の護衛であり、騎士である。


「お嬢様がお望みでしたら、あのボンクラを殺してきますが」

「まあ、落ち着いて。あんなのでも一応王太子なのだから、暗殺は難しいわ」


 アランの物騒な言葉にからからと笑う。彼の前でだけはクリスティナは己を取り繕う必要がない。

 幼少期にアランを拾って以来、彼は彼女の忠実な部下だからだ。


 アランとの出会いは中々刺激的だった。今思い出しても胸が躍る。

 クリスティナは笑みを一つこぼして、アランを見つめる。


「いまから貴方が怒ることがもう一つ待っているけれど、我慢してね」

「……お嬢様のお望みなら」

「ありがとう」


 さて、屋敷には父と母がいる。婚約破棄の騒動の報告をしなければならない。

 本来気落ちするべきなのだろうが、驚くほどに胸が軽い。重責から解放されて、心から嬉しいのだ。


「お前など娘ではない!!」

「王太子妃ではない貴女に価値があると思わないで!!」


 馬車に揺られて帰宅した屋敷で投げかけられた心のない言葉たち。

 実の両親から発せられたそれらの言葉こそが、父と母の本心だ。


 彼らにとってクリスティナは己の地位を見せつけるための道具でしかない。

 知っていたはずなのに、改めて突き付けられると呆れてしまう。

 もう少し取り繕ってもいいだろうに、と。


 クリスティナに向けられた罵詈雑言を右から左に聞き流す。

 思考はこれからの明るい生活を思い描いて、胸を躍らせていた。


(王都から出ていいといわれたのだからどこに行こうかしら! 折角なら隣国との国境がいいわ。なにかあれば亡命できるもの!)


 五歳の時に王太子であるフランシスの婚約者になってから、屋敷と王城の往復しかしていない。


 睡眠時間は平均三時間。下手をすると一時間を切る日もあった。

 睡眠が三時間を一分でも過ぎてしまうと怒られる生活をずっとしてきた。


 だが、これからは思う存分寝られるのだ。

 もう王太子妃教育もフランシスの代わりの執務もしなくていいのだから。


「聞いているのか!」

「はい。聞いております。修道院行きですね。いまから向かってもいいでしょうか?」


 思考を明後日に飛ばしながらも相手の話を拾うのは得意だった。

 並列思考が出来ないと、山積みになった執務は終わらない。

 手元の書類をさばきながら、文官と話をすることなど当たり前の日常だったのだ。


「お父様が仰る通り、着の身着のままで結構です。アランだけ連れて行きます。彼はわたくしの騎士ですから」

「勝手にしろ! あんな小僧いらんわ!!」


 怒り心頭な父親からアランを連れて行く許可を貰い、そのまま馬車にとんぼ返りだ。

 あらかじめ言いつけていたアランがバッグいっぱいに荷物を持って乗り込んでくる。


 不思議と苛立った様子がなかった。

 常のアランならばクリスティナが理不尽に罵られると怒髪天になるのだが。


「お嬢様は着の身着のままという条件らしいですが、俺が荷物を持つことは禁止されてませんからね」


 飄々とそう言って彼はバッグを開いた。

 そこには彼が今までため込んだらしい給料と、クリスティナの自室から見繕ってきたらしい宝飾品が入っている。


 クリスティナの持ち物でも特に高い物を三つ、他の宝飾品は彼女の持ち物の中で最もランクが低い物ばかりだった。


 フランシスが適当に贈ってきた品である。

 馬車が動き出したのを確認し、クリスティナは問いかける。


「もっと高いものはたくさんあったでしょう? どうしてそれらなの?」


 長年クリスティナの傍に仕えていたアランの審美眼を信頼しているからこそ、無意味な選出ではないと思っての質問だ。

 彼は悪戯小僧のようににやりと口角を吊り上げた。


「高い宝石は何かあったときに便利ですが、高すぎるとそもそも売れませんし、売れても足がつくかもしれません。公爵家の中でグレードが低くても、十分に世間では高いですから、宝飾品を売るのは最終手段です。暫くは俺の給料で食べていきましょう」

「ごめんなさい、迷惑をかけるわ」

「気にしなくていいんですよ。俺はお嬢様の騎士ですから」


 飄々と笑う姿に心が癒される。そして、アランもまた修道院に向かうつもりがないことを言葉から確認しほっとした。

 そっと御者を伺う。彼は父親の息がかかっているが、アランがいるのでなんとかなる。


「アラン、任せていいかしら?」

「もちろんです。お任せください」


 王都を出た瞬間、アランは御者を気絶させ放り出し馬車を華麗に操った。

 クリスティナの優秀な騎士はなんでもできるのだ。誇らしくて頬が緩む。


 次の街で馬車を捨て、宿屋の一室を借りてアランが調達してきた市井に紛れる平民の服に袖を通す。

 本来貴族の令嬢は着替えを一人ではできない。


 だが、いずれ全てを投げ捨てて逃げ出す気満々だったクリスティナはひっそりと服の着替えを練習していた。


 慣れていないので少し手こずりはしたがアランの手を借りることもなく着替えると、とても身体が楽になった。


「平民の服は動きやすいわ」


 無駄にひらひらしていないし、重くもない。内臓を吐きそうなほど締め付けるコルセットもなかった。

 ドレス以外にアクセサリーを過度につける必要もない。

 楽だと喜ぶクリスティナにアランが微笑む。


「さ、隣国に最も近い辺境の村に行きましょう。ここからは乗合馬車です」

「ええ!」

「あー……これからは『お嬢様』とは呼べませんね。どうしたら……?」

「クリスと呼んでほしいわ! ……ほしいの! こう? 平民はこんな感じで喋るのよね?」


 平民の暮らしぶりは勉強してきた。クリスティナという名前だと浮くことも理解している。

 かといって全くの偽名だといざというとき反応できないと困るので、愛称で呼んでほしいと頼む。


 アランは頬を赤く染めて「……クリス」と小さく口にしてくれた。

 それが嬉しくて、彼女は生まれて初めて満面の笑みで笑ったのだった。






 そんな経緯を経て、二人は隣国との国境近くにある小さな村に住み着いた。


 いかにも訳ありの二人を最初こそ村人たちは警戒したが、そもそもが訳ありの者たちが流れ着く村でもあるらしく、下手な詮索はされなかった。


 どんな事情を抱えていても、問いただしたりはしない。それが村の不文律らしい。


 アランが村長に交渉して手に入れた村の外れのこじんまりとした家が二人の住居となった。

 公爵家と比べるべくもなく、質素で粗末な家だ。だが、クリスティナは結構気に入っている。


 無駄に広くて冷たくて、人の気配が薄かった屋敷より、すぐそばにアランの気配を感じられる小さな家は安心できた。


 村人たちは二人を若夫婦として扱ったが、アランが遠慮するのでベッドはクリスティナが一人で使っていた。

 アランは前の住人が残したソファで寝ている。


 いくら勉強したとはいえ、平民の暮らしはクリスティナにとって未知数だ。

 ずれたことをいっては周囲を困惑させてしまったが、アランが上手くとりなしてくれるので目立った問題は起こらなかった。


 二人で支え合うように暮らしていると、今まで意識していなかったことを意識するようになる。

 ――クリスティナはアランに惹かれ始めていた。


(いいえ、違うわ。気づかないふりをしていたの。だって私は殿下の婚約者だったから)


 アランはしなくていいというのだが、そういうわけにもいかず村の共同井戸で水くみをしながらクリスティナは思考を巡らせる。


 この村に居ついて半年がたつ。

 すっかり平民の暮らしに馴染んだと彼女は思っているが、その実どこか高貴な雰囲気を纏っているクリスティナは周囲から浮いていた。


 挨拶程度なら交わしてもらえるのだが、雑談に混ぜてもらうことはまだ難しい。

 アランがいればその限りでもないのだが、頼り切りというわけもいない。


 桶に水を入れて運ぶ。

 今まで公爵令嬢として使用人たちに傅かれて生きてきたクリスティナの白魚のような手は、この半年ですっかり荒れている。


 だが、それすら誇らしく思う。自身の力で生きている証拠だからだ。

 アランなどは大げさに嘆いて、立ち寄った商人から保湿剤を購入してくれたりもしたのだが、手入れを頑張っても元のようには戻らない。


(アランはわたしのこと、どう思っているのかしら……。憎からず思ってくれているから、ついてきてくれているのだとはわかるけれど)


 一人称もすっかり変わった。

 平民に紛れるには「わたくし」ではいけないのだとアランに教えられたのだ。


 家に戻ると、アランの姿がない。恐らく近くの森に狩猟に出ているのだろう。

 彼が狩ってくる動物たちは村人の食料として重宝されている。


 食べ切れない分を野菜と交換してもらうのだ。使ってもいいと許可を貰った畑に種は巻いたのだが、収穫までは時間がかかるという。


 飲み水の補充は出来た。

 次は何をしようかとクリスティナが考えていると、なんだか騒がしい気がした。


 建付けの悪い扉を開け外を伺うと、こんな僻地の村まで行商にきてくれる商人が険しい表情で村長と話し込んでいる。その周辺には村人が集まっていた。


 不思議に思ってクリスティナが向かうと、彼らは沈鬱な面持ちをしている。


「どうしたの?」

「ああ、クリス。大変だ、王都で反乱が起こったらしい」

「まあ」


 思わず素の反応をしてしまった。行商人からもたらされた情報なのだろう。

 村長たちは今後のことを話し合い始めたが、クリスティナの内心は納得で満ちている。


(それはそうよ。あの方が部下の陳言を聞き入れるはずがないし、不満は前からくすぶっていた。爆発するのが遅かったくらいだわ)


 下手をすれば三ヵ月で王都では問題が噴出して荒れるだろうと予想していた。

 クリスティナはそっとその場を後にして家に戻る。

 荷物を纏めていると、険しい表情でアランが帰宅した。


「アラン、話は聞いた?」

「ああ。すぐにでよう。反乱だけならともかく、近くの修道院に賊が入ったらしい」


(わたしをさがしているのね)


 クリスティナを捕らえてどうする気かは知らないが、ろくなことにはならない。

 床下に隠していた財産を詰めたバッグを取りだしたアランと共に、その日のうちに二人は隣国に亡命した。


 国境沿いは危険だとアランがいうので、王都と国境の真ん中あたりの街で一旦暮らすことにした。

 国境沿いの村で暮らしていたときより少し大きな家を借りる。


 アランは手に職をつけるといって商家で商人の見習いをしている。

 元々クリスティナの護衛として審美眼が確かだったこともあり、重宝されているらしい。


 クリスティナはといえば、暫く目立たないでほしいと念を押されているため、家に籠っていることが多い。


 変装のために、長かった髪をばっさりと切り落した。

 アランはこの世の終わりとばかりに嘆いたが、伸ばしていた髪がいい値段で売れたのでクリスティナとしては嬉しかった。


 半年の間に少し痛んでいたが、そこそこの値が付いた。

 そのお金でアランに贈り物をしようと考えたのだ。


 いつも尽くしてくれる彼に、報いたかった。アランの献身を当たり前だとはもう思えなかったから。


 そんな風に暮らすこと三ヵ月。

 やっと簡単な料理ならできるようになり、周囲の住民からこれまた『若夫婦』として扱われ出した頃。


 祖国の王族全員と聖女、さらには王家に味方した公爵家――クリスティナの両親が死んだと風の噂で聞いた。

 心は不思議なほどに凪いでいた。


(ああ、わたしの家族はもうとっくにアランだけなのね)


 なら、言葉にして愛を伝えたい。

 女性から告白するのは祖国でははしたないとされていたが、この国では違うらしい。

 女性の社会進出が進んでいるこの国では、女性からの告白は当たり前らしいのだ。


「アラン……」


 貴方が好き。大好きなの。ずっと傍にいてほしい。

 この溢れる温かな想いを、貴方は受け取ってくれるかしら。

 生まれて初めて恋をして、クリスティナは悩ましげにと息を吐いた。




▽▲▽▲▽




 アランは孤児だ。

 物心がついた時には、さびれた孤児院で貧しい暮らしをしていた。

 

 孤児院とは名前ばかりのそこは、暗殺者を育てる機関だった。

 厳しい訓練を経て、十歳の時には一人前の暗殺者として扱われていた。


 名前もなく、番号で管理されることを不思議に思ったことすらなかった。

 年齢だって、諜報活動をするときに尋ねられたら答えられるようにと、外見から判断しただけの数字だった。


 そんな彼に転機が訪れたのは、十二歳のときだった。七歳の女の子の暗殺を命令された。

 ターゲットはウィルソン公爵家の一人娘、クリスティナ。


 自身と違って生まれも育ちもなにもかもが恵まれた相手。だが、感慨はなにもなかった。

 当時の彼は感情というものがなかったから。


 警備をかいくぐってクリスティナの寝室に忍び込んだ。彼女は大きなベッドですやすやと眠っていて、いつものようにナイフで首を引き裂いて殺そうとした。


 馬乗りになった瞬間、なぜかクリスティナがぱちりと目を開けたのだ。

 澄み渡った大きな瞳は穢れを何一つ知らない無垢な瞳をしていた。


 まっすぐにアランを見つめて――彼女はなぜか、泣くでも騒ぐでもなく、疲れたように笑った。


『あなたがわたくしをかいほうしてくれるの?』


 後から思えば、あの頃のクリスティナは将来の王太子妃として厳しい教育を受けていた。


 彼が忍び込んだのは深夜の二時だったが、それはその時間までクリスティナが眠らなかったからだ。

 当時、クリスティナは深夜二時に寝て二時間後の四時に起きる生活をしていたのだ。


 過酷な勉強漬けの毎日疲れていたのだろう。彼女は嬉しそうにナイフを握る彼の手を取った。

 ぎょっとした。


 大体の人間は泣きわめき命乞いをする。そうでなければ助けを求めて叫ぶと教えられていたからだ。

 そもそも、どうして気配を気取られたのかわからなかった。


 今まで失敗したことなど一度もなかったのに。

 驚いてつかの間身体が固まった。その間にクリスティナは鈴の鳴るような声で問いかけてきたのだ。


『きゅうせいしゅのしにがみさん、あなたのおなまえは?』


 救世主の死神。相反し、矛盾する言葉のはずなのに、不思議とすとんと胸に落ちた。

 自分を殺しに来た相手を正しく死神と認識したうえで救世主と呼ぶ。


 少しだけ、興味が沸いた。

 それは無機質に人を殺してきた殺戮道具のアランにとって初めての感情でもあった。


『なまえは、ない』


 割り振られた個体識別番号はあったが、それが名前ではないことは知っていた。

 諜報活動のときに使う偽名が脳裏をよぎったが、それは彼女が求める答えではないと理解できた。

 彼の淡々とした答えに、クリスティナはあどけなく笑ってみせた。


『じゃあ、おなまえ、つけてあげるわ。わたくしにできるせめてものおれいよ。――そうね、アラン。アランはどう?』


 過去に国を救った英雄の名だとクリスティナが微笑む。

 その瞬間、『彼』でしかなかった『誰か』は『アラン』になった。


 人間になれた気がして、涙がこぼれた。

 どんな感情に由来する涙なのか、アラン自身もわからないまま、ぼろぼろと涙を零した。

 その時には、もうすっかりクリスティナを殺す気は失せていた。


『アラン? どうしたの?』

『……おれは、きみを。ころしたくない』

『え……?』


 絶望したように見開かれた瞳に、守りたい、と思った。

 彼女が笑えるようにしてあげたい、と初めて渇望を抱いた。


 アランは静かに姿を消して、翌日『暗殺に失敗した無能』としてぼこぼこに殴られ路地裏に捨てられた。


 体中痛かったけれど、後悔はなかった。痛む身体で無理して、公爵家に行った。

 行き倒れた汚い子供だと公爵家の人間がアランを片付ける前に、気づいたクリスティナによって救い上げられた。


 以来、アランはクリスティナに忠誠を誓っている。

 暗殺者とは違う厳しい訓練を経て騎士になった。全てはクリスティナの傍にいるためだ。


 女神がこの世にいるのなら、それはクリスティナに違いないと妄信している。

 彼女の幸せだけを願った。彼女が幸せになるためなら手段を選ばなかった。彼女の願いを叶えたかった。


 だから――愚かで馬鹿で愚鈍な王太子と、彼を付け狙い色目を使う浅はかな聖女に囁いたのだ。


『クリスティナさえ排除すれば、全てが上手くいく』


 そう焚きつけた。だって、クリスティナが逃げたがっていたから。

 貴族であることは彼女の幸せではないと判断できてしまったから。


 平民として暮らすのも苦労はするだろうが、一生をかけて守り通す決意をした。

 それはもはや恋や愛などという優しい感情ではなく。


 執着と崇拝が入り混じった、汚いものであると自覚があった。

 だから、隠した。彼女が好む明るい笑みを浮かべて、彼女が怖がらない距離を保ち続けた。


 なのに。


 いつだって、クリスティナは軽々とアランの想像の上を行く。




▽▲▽▲▽




 クリスティナは刺繍が得意だ。貴族の令嬢の教養の必須科目であるから、当然ではあるのだが、それにしたって彼女の施す刺繍は美しい。


 家にずっといると暇だから、とアランに頼んで買ってきてもらったハンカチに刺しゅうを施し、彼が仕事に行っている間にこっそりと売りに行った。


 そうして手にいれた金銭で、対になるネックレスを買った。

 告白をするなら本来は指輪なのだろうが、アランの指の太さがわからなかったのだ。


 それに、折角なら指輪は贈るより貰いたい。乙女の我儘だ。


 少し豪華な夕食を準備して、帰宅したアランを出迎える。

 クリスティナの雰囲気が違うことに気づいた様子のアランが不思議そうにしていたので、彼をリビングのイスに座るように誘った。


 どきどきと高鳴る心臓を抑えて、クリスティナは笑う。公爵令嬢だったときには浮かべられなかった、屈託のない笑み。


「アラン、大事な話があるの」


 平民としての喋り方も板についてきている。彼女の言葉にアランの瞳が不安に揺れる。

 逸る気持ちを抑えながら、クリスティナはまず感謝の言葉を伝えた。


「いつも守ってくれてありがとう。貴方が傍にいることを当然と受けとっていた傲慢な過去を謝りたいの」

「クリス……いえ、お嬢様。俺は貴女の騎士です。貴女を守るのは当然の役目だ」

「でも、お給料もだせていないのに」


 守らせているのに対価を渡せないことは、ずっと心苦しかったのだ。

 眉を寄せたクリスティナの前で、アランが首を左右に振る。


「そんなものはいらない。貴女の傍にいることが何よりの報酬だ」


 そう言ってもらえるのは嬉しい。だからこそ、主従の関係を変えたいと願う。

 彼の主ではなく伴侶として隣にいたいから。


 ポケットに隠していた小箱をテーブルの上に置く。装飾品が入っていることが分かりやすい小箱にアランが目を見開いた。


「アラン、あのね」


 すっと息を吸い込んで。クリスティナは微笑む。優しく、甘やかに、恋する乙女の表情で。


「貴方が好き。主ではなく、恋人として傍においてほしいの」


 一息に言い切る。心臓が破裂しそうだ。顔は真っ赤だろうし、呼吸も少し早い。

 クリスティナの告白にアランはさらに目を丸くしている。


 珍しい彼の表情に思わずクリスティナが小さく笑うと、ガタンと音を立ててアランが立ち上がった。

 大股で小さなテーブルを回り込み、クリスティナの隣に膝をつく。そっと彼女の手を取って、手の甲に口づけを落とした。


 それは、祖国で男性が女性に求婚するときの正式なやり方。


「俺でいいのならっ。生涯貴女を守ると誓う!!」


 勢い込んで言われて少し驚いてしまった。でも、それ以上に喜びが胸を占める。


「顔を上げて」


 視線を絡ませて、そうっと顔を近づける。アランの額に口づけを返すと、それが求婚への承諾になる。


「アラン、貴方が大好きよ。手放してあげられないけど、いいかしら?」

「もちろんだ。俺こそ貴女のことを手放すことは無理だ」


 少しだけ令嬢時代の口調に戻ってしまった。アランもまた普段と違う少し粗野な言い方。

 これが彼の素だと知っているから、余計に嬉しい。


 二人は見つめあって、くすくすと笑いあう。立ち上がったアランが、感極まった様子でクリスティナを抱きしめる。


 大きな腕の中で、ほうっと息を吐く。ああ、幸せだ。贅を凝らした暮らしをしていた頃には欠片も感じられなかった心からの幸福がここにある。


(追放してくれて、ありがとう)


 そのおかげで幸せな今がある。

 天国か地獄か知らないけれど、どちらかに逝ってしまった元婚約者に心の中で初めて感謝した。




 


 一年後、二人は教会で挙式を上げた。

 質素だけれど幸せに満ちた式には、親しくしている人たちが参列してくれた。


 参列者たちは「お前らいままで夫婦じゃなかったのか!」と心底驚いていて、クリスティナもアランも笑ってしまったのだった。



読んでいただき、ありがとうございます!


『追放してくれてありがとう』のほうは楽しんでいただけたでしょうか?


面白い! 続きが読みたい!! と思っていただけた方は、ぜひとも


ブックマーク、評価、リアクションを頂けると、大変励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ