第56話『剣を、捨てた』
俺の言葉に、魔王――佐藤拓也の動きが完全に止まった。
彼の瞳は揺れていた。
何百年もの間、絶望という名の分厚い氷に閉ざされていた彼の心が、今わずかに溶け出そうとしている。
俺は彼の胸に当てていた拳を、ゆっくりと下ろした。
そして彼に、もう一度向き直る。
「……もう、いいんだよ。あんたはもう、戦わなくていい」
「……」
「あんたが一人で背負い込んできた、その絶望も復讐も、全部俺にくれよ。先輩」
俺は右手に持っていた鋼の剣を逆さに持ち替えた。
そして、その柄を彼に差し出した。
まるでバトンを渡すかのように。
「俺が、あんたの代わりにやる。
あんたが本当にやりたかったことを。
この狂ったサーカスを終わらせるっていう、その役目を。
俺が引き継ぐ」
彼は俺が差し出した剣の柄と俺の顔を、呆然と見比べていた。
彼の絶望の鎧がカタカタと音を立てて震えている。
それは怒りからくる震えではなかった。
困惑。
そして、もしかしたら、ほんの少しの安堵。
【神託】:……おい
【神託】:こいつ、何を……
【神託】:剣を渡す……だと……?
【神託】:軍神マルス:やめろ! 勇者! お前は何をしようとしている! それは降伏と同じだぞ!
マルスの焦ったような神託が飛んでくる。
違う。
これは降伏じゃない。
これは信頼だ。
俺は目の前のこの悲しい魔王を、信じるという意思表示だ。
だが、彼は俺の手を取らなかった。
彼はゆっくりと首を横に振った。
その瞳から一筋、黒い涙のようなものが流れ落ちた。
「……だめだ。もう、遅いんだ……」
彼の声はひどく弱々しかった。
「俺はもう、俺自身じゃない……。この鎧は俺が溜め込んできた絶望そのものだ……。もう俺の意志では止められない……」
彼の言う通り、彼の体から溢れ出すどす黒い魔力は弱まるどころか、ますます勢いを増していた。
暴走しているのだ。
彼の心が揺らいだことで、逆に制御を失った絶望が世界そのものを喰らい尽くそうとしている。
「……だから、言っただろう」
彼は苦しそうに言った。
「俺を殺すしかないんだ……。早く……しろ……。すべてが手遅れになる、前に……」
そうか。
そうだったのか。
あんたは、もう自分では止まれないところまで来てしまっていたのか。
なら、俺がやるべきことは、一つだけだ。
俺は彼に差し出していた剣をゆっくりと下ろした。
そして、その手を離した。
カラン、と乾いた音がやけに大きく玉座の間に響いた。
俺の唯一の武器だった鋼の剣が、石の床の上に転がった。
俺は剣を捨てた。
丸腰になった。
目の前に暴走する絶望の化身を前にして。
俺は、すべての抵抗をやめた。
「なっ……!?」
彼が、そして俺の後ろにいる仲間たちが息をのむのが分かった。
神々も、完全に沈黙している。
俺はただ静かに、目の前の悲しい魔王に向かって言った。
「……あんたが、止まれないなら。
俺が、止める。
力じゃなく、言葉でもなく。
……この身で、あんたの絶望、全部、受け止めてやるよ」
俺は両腕を広げた。
無防備に。
さあ、来いよ、と。
あんたの百年の絶望、俺が全部食ってやる。
俺は静かに、目を閉じた。
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ついに、ケンタが、最後の行動に出ました。
それは、戦うことでも、説得することでもなく。
ただ、全てを「受け入れる」こと。
暴走する魔王の絶望を、自らの身をもって、受け止めようとする。
あまりにも、無謀で、自己犠牲的な、選択。
しかし、彼が、長い旅の末に見つけ出した、唯一の答えが、これだったのです。
「カラン、」という、剣が床に落ちる音。
この音が、この物語の、本当の、終わりの始まりの、合図です。
神々も、仲間たちも、そして魔王自身も、誰もが予想しなかった、この結末。
物語は、次回、本当に、本当に、最後の瞬間を迎えます。
彼らの選択が、世界に何をもたらすのか。
最後まで、お付き合いいただけると、幸いです。




