第36話『疑念の種』
リリスの囁きは俺の頭の中にいつまでもこだましていた。
『わたくしたちに、手を貸してはいただけませんか?』
彼女はそれだけを言うと、「良いお返事、お待ちしておりますわ」と妖艶な笑みを残し、まるで霧のようにその場から姿を消してしまった。
後に残されたのは手付かずの紅茶と、俺の心にかき乱された大きな波紋だけだった。
「ケンタ殿! 大丈夫か!」
リリスが消えたのを確認すると、アリアたちが慌てて駆け寄ってきた。
「ああ……なんともない」
「何を話していたのです? あの女狐と」
レオンが探るような目で俺を見る。
俺は話すべきか、話すべきではないか迷った。
魔王の真の目的。神々の支配からの解放。そして、協力要請。
あまりにも荒唐無稽な話だ。
それに、こんな話をすれば騎士であるアリアがどう反応するか。神々の存在をどう捉えているか分からないレオンがどう思うか。
俺は結局、何も言えなかった。
「……ただの世間話だ。気にするな」
そう言って、ごまかした。
アリアもレオンも、明らかに納得していない顔をしていたが、それ以上は追及してこなかった。
ただ、パーティの空気はまた少し、ぎこちないものに戻ってしまった気がした。
俺が、また秘密を抱え込んでしまったからだ。
【神託】:ケンタ、今の絶対嘘だろ
【神託】:何を囁かれたんだ? 気になって夜も眠れん
【神託】:軍神マルス:勇者よ、惑わされるな。魔王軍は人類の敵。それだけが真実だ。奴らの言葉は全て、お前を堕落させるための罠に過ぎん。
【神託】:知恵の神オーディン:……ふむ。だが彼女の言葉、全てが嘘とも言い切れんのが、厄介なところだな。
神託欄はリリスの言葉を巡って、意見が真っ二つに割れていた。
マルスのように全面的に「敵の戯言」だと断じる神々。
そして、オーディンのようにその言葉の裏にある真実を探ろうとする冷静な神々。
俺の心も同じだった。
リリスの言葉は嘘だ。そう思いたい。
魔王は悪で、俺たちは正義の勇者。その方がずっと話は単純で、分かりやすい。
だが、俺の心の奥底で、小さな黒い声が囁いていた。
―――本当に、そうか?
俺は、この世界に来てからずっと感じていたじゃないか。
この世界の理不尽さを。
神々の身勝手さを。
俺たちがただの娯楽のために消費されているという、言いようのない虚しさを。
リリスの言葉は、その俺が感じていた違和感の正体を的確に言い当てていた。
だからこそ俺は、彼女の言葉をただの戯言だと切り捨てることができなかった。
疑念。
一度植え付けられてしまったその小さな種は、俺の心の中で少しずつ、だが確実に根を張り始めていた。
神々とは、本当に俺たちが信じるべき存在なのか?
魔王とは、本当に俺たちが倒すべき悪なのか?
俺が今戦っているこの戦いは、本当に正しい戦いなのか?
その日の夜。
野営の焚き火を、俺は一人見つめていた。
仲間たちは少し離れた場所で眠っている。
炎がぱちぱちと音を立てて揺らめいている。
その炎の向こうに、リリスのあの紫色の瞳が見えたような気がした。
【神託】:ケンタ、悩んでるな
【神託】:まあ、無理もないか
【神託】:どっちを信じるか、だよな
神託はいつもより静かだった。
彼らもまた、この世界の真実について何かを知っているのかもしれない。
あるいは、彼ら自身もこの壮大な茶番劇の、ただの観客に過ぎないのか。
答えは出なかった。
ただ、黒い疑念の種がじわりじわりと、俺の心を蝕んでいく。
そんな眠れない夜だった。
第36話を更新しました。
リリスが残した、衝撃的な言葉。
それは、ケンタの心に、大きな「疑念の種」を植え付けました。
今までの常識、信じてきた正義が、足元から崩れていくような感覚。
彼が抱える葛藤、伝わりましたでしょうか。
仲間にも、神々にも、本心を打ち明けられない。
孤独な状況で、彼はこの大きな問いと、一人で向き合わなければなりません。
神託欄も、意見が割れていますね。
読者の皆様も、マルス派ですか? それとも、オーディン派ですか?
あるいは、リリスの言葉を、信じますか?
この「疑念」が、ケンタを次なる行動へと突き動かします。
彼は、この世界の真実を知るために、動き出すことになります。
お読みいただき、ありがとうございました。




