第35話『囁き』
「ふざけるな……!」
俺はテーブルを叩きつけて立ち上がった。怒りで体の震えが止まらない。
俺が淹れてもらった紅茶のカップが衝撃で倒れ、琥珀色の液体がテーブルの上に広がっていく。
だが、リリスは全く動じなかった。
彼女は優雅に自分のカップを傾けながら、まるで癇癪を起こす子供をなだめるような目で俺を見ていた。
「あらあら、お気を悪くされました? でも、事実ですわ。わたくしたち魔王軍も、あなた方勇者も、そしてこの世界に生きる全てのものも、皆、神々を楽しませるための駒に過ぎませんの」
「……お前たちは、魔王は、それでいいのかよ! 神々の操り人形のままで!」
「いいも悪いもありませんわ。それがこの世界の『理』なのですから」
彼女の紫色の瞳には何の感情も浮かんでいない。
まるで天気の話でもするかのように淡々と世界の真理を語っている。
その諦観にも似た態度が、俺をさらに苛立たせた。
「……何が目的だ。なんで、そんな話を俺にする」
俺はなんとか怒りを抑え込み、一番の疑問を口にした。
彼女の言葉が真実だとして、なぜそれをわざわざ俺に教える必要がある?
ピエロに「お前はピエロだよ」と教えて、何になるというんだ。
リリスはカップを静かにソーサーに戻した。
カチャリ、という小さな音がやけに大きく響く。
そして彼女は、初めて少しだけ真剣な表情になった。
「……では、ここからはわたくしの独り言だと思って、聞いてくださる?」
彼女の声のトーンがわずかに低くなる。
「偉大なる魔王様は、この世界の在り方をひどく憂いていらっしゃいます」
「……」
「神々の気まぐれ一つで人の命が弄ばれ、街が破壊され、歴史が歪められる。こんな狂ったサーカスはもう終わりにすべきだ、と。それが魔王様のたった一つの願いなのですわ」
魔王の願い。
その言葉は俺が今まで持っていた「魔王」のイメージとは、かけ離れていた。
世界を支配し、人々を恐怖に陥れる邪悪な存在。それが魔王じゃなかったのか。
「魔王様の目的は、世界の破壊などという下品なものではありません。
―――解放、ですの」
解放。
その言葉が俺の心に重く響いた。
「この世界を神々の観測と干渉から完全に切り離す。彼らの娯楽という名の支配から、すべてを解放する。それこそが魔王様の真の目的」
【神託】:……何言ってんだ、こいつ
【神託】:魔王が世界の解放? 意味が分からん
【神託】:軍神マルス:敵の戯言に耳を貸すな、勇者よ! 今すぐその女を斬り捨てろ!
マルス様の神託が怒りに満ちていた。
他の神々も混乱しているようだった。
俺も混乱していた。
リリスの言葉はにわかには信じがたい。だが、彼女の瞳には嘘をついているようには見えない、奇妙な説得力があった。
「でも、その大いなる目的を達成するには一つ、問題がありましてよ」
リリスはすっと立ち上がり、俺のすぐそばまで歩み寄ってきた。
甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。
「魔王様お一人では神々のシステムを破壊するには力が足りない。そこにはシステムの内側から鍵を開ける存在が必要不可欠……。そう、例えば神々から直接力を与えられている、あなたのような『勇者』がね」
彼女は俺の耳元で囁いた。
その声は悪魔の誘惑のように甘く、そして抗いがたい響きを持っていた。
「勇者ケンタ。あなたもピエロのまま終わりたいわけでは、ないのでしょう?
もしこの狂った世界を本当に救いたいと願うのなら……わたくしたちに、手を貸してはいただけませんか?」
手を貸す?
魔王に?
俺が?
思考が完全に停止した。
俺はただ、彼女の紫色の瞳に見つめられたまま、立ち尽くすことしかできなかった。
彼女の言葉の意味を、まだ完全には理解できていなかった。
だが、その囁きが俺の運命を大きく変えることになるだろうということだけは、なぜか分かった。
第35話を更新しました。
リリスが語る、魔王の真の目的。
それは、世界の破壊ではなく、「神々の支配からの解放」でした。
今まで、倒すべき「悪」だと信じてきた魔王。
その魔王が、実はこの世界の理不尽さに抗う、革命家だったとしたら……?
正義と悪の境界線が、曖昧になっていきますね。
こういう展開、私は大好きです。
そして、リリスからの、まさかの「協力要請」。
勇者であるケンタに、魔王軍が手を組むことを提案してきました。
神々のために戦うのか。
それとも、世界を解放するために、魔王と手を組むのか。
ケンタは、とんでもない選択を迫られることになります。
彼の答えは、一体どちらなのか。
お読みいただき、ありがとうございました。




