第28話『悪夢の始まり』
光る苔のスープで腹も気力も満たされた俺たち。
神々との奇妙な、しかし確かな一体感を感じながら、俺たちは再び霧の森の奥深くへと足を踏み入れた。
旅は順調だった。
そう、この森が牙を剥く、その瞬間までは。
ふと気づくと、周囲の雰囲気が一変していた。
さっきまでの静謐な美しい森ではない。
木々の幹はまるで苦痛にのたうつように歪み、枝は黒く枯れ果てている。
地面はぬかるみ、一歩足を踏み出すごとに、ぶじゅりと嫌な音がした。
そして、そのぬかるみから無数に生えていた。
傘が人間の苦悶の表情のように見える、不気味な紫色のキノコが。
【神託】:……おい、このエリア、やばいぞ
【神託】:空気が重い……。なんだ、これ
【神託】:知恵の神オーディン:『叫びキノコ』の群生地だ。胞子を吸い込むな。精神に作用し、最も恐れるものの幻覚を見せるぞ
オーディンの警告。
だが、それはすでに手遅れだった。
俺たちはこの異様な空間に足を踏み入れた瞬間から、その目に見えない毒の胞子を吸い込んでしまっていたのだ。
最初に異変を起こしたのはアリアだった。
彼女は俺のすぐ隣を歩いていたはずなのに、突然ぴたりと足を止めた。
「……アリア?」
俺が声をかける。
だが彼女は返事をしない。
その目は焦点が合っていなかった。霧のさらに向こう側。
俺には何も見えない虚空を、彼女は見つめている。
その顔は血の気を失い、蒼白になっていた。
「……父上……? なぜ、ここに……」
父上?
何を言っているんだ、彼女は。
ここには俺たちしかいないはずだ。
「……ケンタ殿。様子がおかしい」
レオンが警戒したように声を潜めた。
そのレオンも次の瞬間、奇妙な行動を取り始めた。
彼は突然その場に膝をつき、地面の泥を手でかき始めたのだ。
その目は爛々と輝いている。
興奮したように早口で何かを呟いている。
「……ああ、なんと……なんと素晴らしい……! この知識の地層……! 読める、読めるぞ……! 古代ルーンのさらにその前の、原初の言葉が……!」
レオンもおかしい。
完全に正気を失っている。
ポポロはそんな二人の異様な様子に怯えて、俺の背中に隠れた。
そのポポロもやがて小さく震え始めた。
「……いや……いやぁ……! 暗いよ……狭いよ……! 誰か、出して……!」
彼女はその場にうずくまり、頭を抱えてしまった。
【神託】:始まった……幻覚だ!
【神託】:それぞれ自分のトラウマを見てるんだ!
【神託】:ケンタ! お前は大丈夫なのか!?
俺は……?
俺は大丈夫だった。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ、仲間たちが目の前でそれぞれの悪夢に囚われていく、その地獄のような光景だけがはっきりと見えている。
なぜだ。
なぜ俺だけが。
【神託】:そりゃそうか……。お前にはこの世界での過去がないもんな……
ああ、そうか。
俺は異邦人だからか。
その事実が今、こんな形で俺と仲間たちを分断していた。
「アリア! しっかりしろ! 幻覚だ!」
「レオン! 目を覚ませ!」
「ポポロ! 大丈夫だ! 俺がここにいる!」
俺は必死に叫んだ。
仲間たちの肩を揺さぶった。
だが俺の声は、彼らには届かない。
彼らはもう、ここにはいない。
それぞれの孤独な悪夢の中にいるのだ。
どうすればいい。
何をすれば助けられる?
分からない。
俺はただ為すすべもなく、狂っていく仲間たちの中心で、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
神託の喧騒すらも、もう耳には入ってこなかった。




