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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

逃げるなよ

作者: ヤスゾー

 最近、私は寝ている彼の姿しか見ていない。


 どこかで魚の跳ねる音がした。

 たぶん、リビングに置いてある金魚鉢からだろう。

 寝室の中。

 私の布団の隣で、彼は静かに寝息を立てている。

 少しでいい。

 ほんの少しだけ、眠る時間をずらしてくれたら、私たちは顔をわせる事ができるのに。


「……何よ」


 小さく呟いて、吐息を落とす。

 学生の頃は、良かった。

 付き合い始めの頃はもちろん、一緒に暮らし始めたあの頃も。夜遅くまで話し込んで、笑い合って、お互いを必要としていた。

 でも。

 社会人になって、全てが変わってしまった。

 就職して、勤務時間がずれ、休日もすれ違う。生活のリズムが噛み合わず、会話も減っていった。

 私が帰ってくる頃には、すでに彼は布団の中で眠っている。

 もう何日も口をきいていない。

 また魚の跳ねる音がした。





 ある日。

 嫌な事が起きた。

 職場の先輩が、私にミスを全て押しつけてきたのだ。

 確かに、私にも落ち度はあった。見直しが甘かったし、確認も不十分だったかもしれない。

 でも、あの人だって、ミスをしていた。

 それなのに。

 全部、私のせいにした。

 報告書の書き直しも、取引先への謝罪も、上司への説明も、私一人で全部やらされた。

 私は、黙って引き受けるしかなかった。

 言い返す余裕なんて、なかった。

 疲れていた。


「ただいま……」


 帰宅したのは、いつもよりずっと遅い深夜だった。

 雲が多く、月が見え隠れしている。

 落ち込んだまま、玄関の扉を開けた。

 玄関には彼の靴。

 寝室を覗くと、盛り上がった布団が、ゆっくりと上下していた。

 変わらず、彼は眠っている。


「……っ」


 いつもの事なのに。

 もう慣れたと思っていたのに。

 今日は、無理だった。

 その安らかな寝息が憎らしくてたまらない。

 職場のストレスが引き金となり、誰にも言えなかった不満が爆発した。


「いい加減にしてよ!!」


 私は手に持っていたビジネスバッグを、床に叩きつけた。


「私に会わないように、わざと寝ているんでしょう!? そんなに私と顔を合わせたくないの!? 話したくもないの!? だったら、別れようよ。こんな関係、意味ないじゃない!!」


 叫んだ。

 喉が痛くなるほど、心の中を吐き出した。

 でも。

 彼は、起きなかった。


「……もう嫌だ」


 つい、叫んでしまったけれど、それで何かが変わるわけでもない。

 もう一層のこと、本当にここを出てしまおうか?

 彼は、私と会う気なんてないのだ。

 私が出て行ったところで、しばらくは気付きもしないだろう。

 そうか。

 そうなんだ。

 ついに、私達、別れるんだ。


「ふふっ」


 笑いが漏れた。

 心が軽くなる。

 別れてしまえば、家に帰るたびに溜息をつくこともない。

 よし。数日以内に、引っ越そう。

 まずは物件探しだ。

 でも、その前に。


「寝よう」


 今は、何かをする気力は残っていなかった。

 私はルームウエアに着替え、化粧を落として、()()()()()()()

 今夜も、魚の跳ねる音がする。

 リビングの金魚たちは、本当によく動く。

 私は気にすることなく、布団にもぐりこんだ。

 シャワーは、明日の朝でいい。

 ふと隣を見ると、彼の寝顔が見えた。


「くー……、くー……」


 よく眠っている。

 この子どもみたいな寝顔が、私は好きだった。

 でも、もうお別れ。


(残念だけど……)


 名残惜しいけど、もう決めたことだ。

 彼が何を言っても、やり直す気はない。

 私は枕に頭を沈め、身体を横に倒す。

 再び魚の跳ねる音がした。

 でも、一回だけじゃない。

 何度も聞こえる。

 何度も、何度も、何度も。

 ……でも……。

 そもそも、この家に金魚鉢なんてあっただろうか……。


「……」


 眉間にシワを寄せ、寝返りを打とうとする。

 その時。


「逃げるなよ」


 耳元に、低く湿った声が落ちてきた。

 背筋を冷たい指で撫でられたような感覚が走る。


「……お、起きていたの?」


 私は、ゆっくりと両目を開けた。

 月が雲に隠れているので、部屋は暗い。

 隣の布団から、彼の上半身が起き上がっている。闇の中、輪郭だけがぼんやりと見えた。

 ちょうど良かった。

 私は、先ほど決めたことを、彼に伝えることにした。


「ねえ。私達、別れよう」

「俺を置いて出て行くのか?」

「そうだね」


 冷静を装ってはいたが、心の奥で違和感が広がっていた。

 どういうつもりなのだろか? あれだけ、私を避けていたくせに。


「あのさ。私、寂しかったんだよ」


 言葉が自然にこぼれてきた。胸の奥にたまっていたものを、一つずつ吐き出すように。


「ここにいても、あなたは寝ているだけ。仕事で疲れているのは、わかっている。でも、それならそれで、ちゃんと話し合いたかった。でも……」

「わかった」


 怒っているわけでもない。泣いているわけでもない。

 ただ、感情の抜け落ちた声が響いた。


「じゃあ、これからはずっと一緒にいよう」

「え?」

「ずっと。ずっと一緒だ」


 彼が、這うように、ゆっくりとこちらに迫ってくる。

 一歩、また一歩。

 もう手を伸ばせば届く距離。


「お前を逃がさない。俺に何をしたのか忘れて、逃げようなんて……!」

「っ!」


 彼の両腕が、ぐんと伸びてきた。

 首を絞められている!?

 い、息が、できない。

 喉が潰されていくような痛みが襲う。


「……や、めっ……!」


 苦しい。苦しい。

 手が宙でもがく。足が痙攣する。

 だけど、彼の力は一切、緩まなかった。


「さあ、こっちに来いよ。そしたら、ずっと一緒だ」

「……っ!!」


 その時。

 月が、雲の切れ間から顔を出した。

 青白い光が、部屋の中を照らす。

 そして、はっきり見えた。

 彼の顔。

 彼の服。

 彼の全身。

 全てが、真っ赤に染まっていた。


 血だ!


 そして。

 私の意識は闇の中に落ちていった。




 仕事を始めてから、私達はよく喧嘩をするようになった。

 あの日もそう。

 カッとなった私は、リビングに置いていた金魚鉢を手に取っていた。


「え?」


 気付けば、彼は倒れていた。

 赤い液体が床に広がっている。

 割れた鉢の破片が散乱し、中に入った水と赤が混じり合っていた。

 数匹の金魚たちが苦しそうに跳ねている。

 私は、その場から動けなかった。


 それから。

 どれほど時間が経ったのか、覚えていない。

 ただ一つだけ、わかっている事がある。

 彼は、もう動かないということだ。

 床に散っている、金魚たちのように。

 私は彼を寝室に運び、そっと布団の上に寝かせた。

 丁寧に、掛け布団をかぶせて。

 そして、小さく呟いた。


「また寝ている……」


 次の日も、その次の日も、そのまた次の日も。

 私は毎晩、この生活の不満をこぼしていた。

 でも、彼は何も言わなかった。

 ただ、ずっと眠っていた。

 どこかで魚の跳ねる音が聞こえた。




「次のニュースです。きょう未明、東京都内のアパートの一室で、男女二人の遺体が発見されました。近隣の住民から、「異臭がする」と通報があり、警察官が現場に駆けつけたところ、布団の上で、二人の遺体が並んでいたということです。また、遺体のそばには魚のような骨もあり、いずれも腐敗が進み、死亡からかなりの時間が経過しているとみています。男性は失血による死亡、女性は薬物の摂取による中毒死の可能性があるということで、警察は二人の間に、何らかのトラブルがあったとみて、詳しい経緯を調べています。」



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
思わず引き込まれてしまいました。 魚の跳ねる音の使い方が見事です!
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