『贋作の真実』
『贋作の真実』
## 第一章:美の檻
徳島県立近代美術館の第三展示室。キュビスム特集の中央に鎮座する「自転車乗り」は、訪れる人々の目を惹きつけていた。フランスの画家ジャン・メッツァンジェの手による傑作。幾何学的に分解された自転車と人物が独特のリズムを生み出し、静謐さと動きが共存する不思議な空間を創り出していた。
東条理香館長は、今日も午前の巡回でこの絵の前に立ち止まった。購入から二十年以上が経った今でも、彼女はこの作品に特別な愛着を感じていた。公金で約六千七百万円を投じた決断は、当時の県文化振興課との長い議論の末に下されたものだった。
「今日もご機嫌いかがですか、自転車さん」
口癖のように独り言を呟く東条の横顔は、五十代半ばながら凛とした美しさを湛えていた。グレーのスーツに身を包み、短く刈り込んだ黒髪に一筋の白いラインが入る。彼女の瞳は、ただの美術愛好家というには鋭すぎる観察眼を持っていた。
「館長、お邪魔します」
声に振り向くと、そこには美術館の契約修復師、三枝真人が立っていた。三十代半ばの男性は、常に少しだけ前かがみの姿勢で、眼鏡の奥の目が常に何かを探るように動いていた。
「三枝さん、おはよう。今日はメッツァンジェの前でお目にかかるなんて珍しいわね」
「はい...実は、この作品についてご相談があって」
三枝の声には、普段の柔らかさとは違う緊張感があった。
「どうしました?」
「先日、年次の状態確認をしていた際に、少し気になる点を見つけまして...」
三枝は周囲を見回し、小声で続けた。
「詳しくは研究室でお話ししたいのですが、この作品の絵具層に...通常のメッツァンジェ作品とは異なる特徴があります」
東条の表情が一瞬こわばった。
「わかりました。午後のミーティングが終わったら研究室に伺います」
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美術館の地下、修復研究室。紫外線ランプと精密機器に囲まれた空間で、三枝は東条に向かって説明を続けていた。
「まず、この部分の青色についてです」
顕微鏡写真を示しながら、三枝は続ける。
「メッツァンジェが1910年代に使用していたウルトラマリンブルーは、特有の粒子構造を持っています。しかし、この作品で使われている青には現代的な合成顔料の特徴が...
東条は息を呑んだ。
「それは...制作年代の矛盾を示唆しているの?」
「断定はできませんが、さらに気になるのはこのX線写真です」
モニターに映し出されたのは、絵の下層に隠された別の絵の痕跡だった。
「下絵ではなく、完全に別の構図の絵が描かれていた形跡があります。メッツァンジェの制作過程に関する資料には、このような大幅な構図変更の記録はありません」
「他にも...?」
「はい。画布の年代測定結果も、公式の制作年より新しい可能性を示しています」
部屋に重い沈黙が落ちた。
「三枝さん、これは...私たちの「自転車乗り」が本物ではない可能性を示唆しているの?」
三枝はゆっくりと頷いた。
「可能性としては排除できません。ただ、決定的証拠というわけではなく...」
東条は椅子に深く腰掛け、目を閉じた。
「この件は、今は二人だけの秘密にしておきましょう。私から理事会に報告する前に、もう少し情報を集めたい」
「わかりました」
「ところで、三枝さん...あなたはどうして、これほど細部まで調べようと思ったの?」
三枝は少し俯き、静かに答えた。
「六ヶ月前、パリのポンピドゥーセンターでメッツァンジェの特別展を見てきました。そこで見た同時期の作品群と比較すると、何か...言葉では説明しづらい違和感があったんです
「直感ですか」
「はい。修復家の直感です」
東条は深くため息をついた。
「あなたの直感に感謝するわ。これから大変なことになるかもしれないけれど」
## 第二章:疑惑の連鎖
「東条館長、お時間よろしいでしょうか」
翌週、東条の執務室のドアがノックされた。入ってきたのは、地元紙『徳島日報』の記者、水無月慎一だった。三十代後半の彫りの深い顔立ちの男性記者は、徳島の文化行政に関する鋭い記事で知られていた。
「水無月さん、予約はなかったはずですが」
軽い警戒感を隠さず、東条は背筋を伸ばした。
「突然すみません。実は、興味深い情報を耳にしましてね」
水無月は落ち着いた声音で言った。
「ヨーロッパの美術館関係者から、複数のメッツァンジェ作品に関する真贋問題が持ち上がっているという話です。貴館の『自転車乗り』も、その調査対象リストに入っているとか」
東条の心臓が一瞬止まったかと思うほどの衝撃だった。彼女は表情を変えないよう努めた。
「水無月さん、その情報源はどちらですか?」
「記者の秘匿特権ということでご容赦を」
水無月は申し訳なさそうに微笑んだ。
「館長、私は貴館を批判するつもりはないんです。むしろ、この問題に関して徹底した調査報道をしたいと考えています。美術品の真贋問題は世界中で起きていること。批判ではなく、真実を伝えることが私の仕事です」
東条は水無月の目をじっと見た。この男性記者の性格はよく知っている。鋭いが、センセーショナリズムに走ることはなく、むしろ文化行政の在り方について建設的な提言をしてきた人物だ。
「水無月さん、実は...」
東条は決断した。裏取りもない情報をこの記者が書くよりは、こちらから状況を説明し、協力を求める方が良いかもしれない。
「私たちも、その絵について内部調査を始めたところです。まだ公表できる段階ではないので、これは完全にオフレコでお願いします」
水無月の目が輝いた。
「もちろんです。情報公開の時期は館長の判断に委ねます。その代わり、調査の過程で見えてくる事実については、独占的に取材させていただけませんか?」
交渉上手な記者だ、と東条は思った。
「条件があります。一つ目は、当館の対応に問題がないことを確認できるまで一切公表しないこと。二つ目は、もし公表する場合は、前もって原稿を見せていただくこと」
「了解しました」
水無月は真剣な表情で頷いた。
「実は...」
彼は声を落とした。
「ドイツの『伝説の贋作師』、ヴォルフガング・ベルトラッキという名前はご存知ですか?」
東条は静かに首を振った。
「彼は二十世紀初頭から中期の前衛芸術家の作品を模倣することに特化した贋作師です。彼の作品はルーブルやMoMAを含む世界中の一流美術館に紛れ込んでいると言われています」
「そのベルトラッキという人物と、私たちの『自転車乗り』に何か関連が?」
「フランクフルト警察の美術犯罪部が、彼の工房から押収した資料の中に、貴館の『自転車乗り』と酷似した作品の写真が含まれていたという情報があります」
東条の額に冷や汗が浮かんだ。
「どうやって...そんな情報を?」
「私は以前、美術犯罪をテーマにしたドキュメンタリーの制作に関わっていました。その縁で、国際的なアートジャーナリストのネットワークがあるんです」
東条は立ち上がった。
「三枝さんを呼びましょう。あなたの話を彼にも聞かせてほしい」
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三人は夕方まで話し合った。水無月が持っていた情報と、三枝の調査結果を合わせると、徐々に全体像が見えてきていた。
「つまり、このベルトラッキという贋作師は、すでに七十歳を超える高齢で、現在はドイツの田舎町で隠居生活を送っているが、かつては国際的な美術品取引のネットワークを持っていたということですね」
東条がまとめた。
「そして、その作品を世界各地の美術館に売り込んでいたのが...」
「マルク・ヴェルネールという画商です」水無月が補足した。「フランス人ですが、スイスとモナコに拠点を持ち、裕福なコレクターや地方美術館向けに『新発見の作品』を専門に扱っていました」
「私たちの『自転車乗り』も、そのヴェルネールから購入したものです」
東条は重い声で言った。
「二〇〇〇年、前任の館長の時代に、『メッツァンジェの新発見作品』として紹介され、特別予算で購入を決定したと聞いています」
「鑑定書は?」三枝が尋ねた。
「当時の資料によれば、パリの著名な美術史家による鑑定書が添付されていました。アンドレ・ラコンテという人物です」
水無月が眉をひそめた。
「ラコンテ...その名前もベルトラッキの関係者リストにあります。彼自身は本物の美術史家ですが、ベルトラッキのネットワークに加担していた疑いがあります」
三人は互いの顔を見合わせた。状況はますます深刻になっていた。
「では、次のステップは?」三枝が問いかけた。
「まず、より確実な科学的検証が必要です」東条は決然と言った。「国立文化財研究所に協力を依頼しましょう。そして...」
彼女は水無月に向き直った。
「あなたの国際的なネットワークを使って、ベルトラッキ本人に接触することは可能ですか?」
水無月は驚いた表情を見せた。
「直接、贋作師に?それは...」
「私は真実が知りたいんです。この絵が贋作なら、誰がどのような意図で作ったのか。そして、なぜ私たちの美術館がターゲットになったのか...全てを知る権利が私たちにはあります」
水無月はしばらく考え込んでから、ゆっくりと頷いた。
「試してみましょう。ただし、簡単ではないでしょう」
「もう一つ」東条は神妙な面持ちで言った。「この件は、当分の間、三人だけの秘密にしておきましょう。公式な調査結果が出るまでは」
三枝と水無月は同意した。しかし、三人とも知っていた—秘密はいつまでも秘密ではいられないことを。
## 第三章:国際的な糸
それから二週間後、東条の携帯電話が真夜中に鳴った。
「東条です」
「水無月です。申し訳ありません、こんな時間に」
電話の向こうの声は興奮に震えていた。
「ベルトラッキ本人から返事がありました。彼はインタビューに応じる意向を示しています」
「本当に?」
「はい。ただし、条件があります。彼は高齢で体調が優れないため、ドイツに行く必要があります。そして...」
水無月は一呼吸置いた。
「彼はあなたと直接会いたいと言っています。館長本人と」
東条は息を呑んだ。
「私と...?なぜ?」
「彼の言葉によれば、『芸術を本当に理解している人と話したい』とのことです。そして、もう一つ重要な情報があります」
「何ですか?」
「彼は『自転車乗り』について知っていると明言しました。そして、『真実を語る』と」
電話を切った後、東条は窓辺に立ち、夜の闇を見つめた。彼女の頭の中は混乱していた。公務員としての責任、美術館の館長としての立場、そして一人の美術愛好家としての好奇心—それらが複雑に絡み合っていた。
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「理事会が臨時予算を承認しませんでした」
三日後、東条は水無月と三枝に報告した。彼らは美術館の閉館後、カフェテリアに集まっていた。
「やはり、『贋作の疑いがある』というだけでは、ドイツへの出張を正当化できませんでした」
「では、このまま手をこまねいているしかないのですか?」三枝が落胆した様子で言った。
東条は静かに微笑んだ。
「いいえ。私は休暇を取ることにしました。個人的な旅行として、自費でドイツに行きます」
「館長!」
「私は知りたいんです。この二十年間、私が愛してきた絵が、誰の手によるものなのか。そして、もし贋作だとしても、その中に込められた真実を」
水無月は暫し黙っていたが、やがて言った。
「私も同行します。取材費用は新聞社が出してくれるでし
「ありがとう、水無月さん」
三枝が申し訳なさそうに言った。
「私は...美術館を離れられません。でも、国立文化財研究所との連絡は私が責任を持って行います」
三人は再び固い決意を共有した。
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フランクフルトから車で二時間。ヘッセン州の小さな町ヴィースバーデンのはずれにある小さな家。東条と水無月は、ドイツの早春の冷たい雨の中、その家の前に立っていた。
「ここが...ベルトラッキの家ですか?」
東条は意外に思った。質素な二階建ての家は、世界的な贋作師のアジトというイメージからはかけ離れていた。
水無月がドアをノックすると、しばらくして杖をついた老人が現れた。八十代と思われる白髪の男性は、深いシワが刻まれた顔に、驚くほど鋭い青い目を持っていた。
「ヘア・ベルトラッキ?」
「Ja, bitte kommen Sie herein.(はい、どうぞお入りください)」
老人は流暢なドイツ語で応え、二人を中に招き入れた。家の中は、絵画の複製や美術書で埋め尽くされ、かすかな油絵具の香りが漂っていた。
リビングルームに通された二人は、通訳を介して自己紹介を行った。ベルトラッキは東条を興味深そうに観察していた。
「あなたが『自転車乗り』の館長ですか。興味深い」
東条は直球で尋ねた。
「私たちの美術館の『自転車乗り』は、あなたの作品なのですか?」
ベルトラッキは静かに微笑んだ。
「はい、間違いありません。私が1995年に制作したものです」
東条の心臓が早鐘を打った。これで確定した。彼女たちが二十年以上大切にしてきた作品は、贋作だったのだ。水無月は静かにメモを取り続けていた。
「なぜ...なぜメッツァンジェの作品を偽造したのですか?」
ベルトラッキは椅子に深く腰掛け、遠い目をした。
「私は偽造とは言いません。『オマージュ』です。私はメッツァンジェの精神を理解し、彼のスタイルで創作したのです」
「しかし、それを本物として売ったのでしょう?」
「それは...」
老人は一瞬言葉に詰まったが、すぐに続けた。
「画商のヴェルネールの仕事です。彼が私の作品をどう扱ったかは、私の関知するところではありません」
「本当ですか?」水無月が鋭く切り込んだ。「あなたは自分の作品が世界中の美術館に『本物』として展示されることを知らなかったと?」
ベルトラッキはしばらく沈黙した後、諦めたように肩をすくめた。
「若い頃は...栄光と金のために始めたことでした。しかし、年を重ねるうちに、それは私の芸術的探求になりました。古典的な巨匠たちの技法を完全に再現すること—それは芸術への最高の敬意ではないでしょうか?」
東条は複雑な感情に襲われていた。目の前にいるのは犯罪者だ。しかし同時に、驚くべき才能を持った芸術家でもある。
「贋作師の中には、驚くべき才能を持ちながらも認められなかった芸術家も多いと聞きます」と東条。
ベルトラッキは目を輝かせた。
「ああ、その通りです。贋作の歴史を語る上で外せないのがハン・ファン・メーヘレンです。彼の話はご存知ですか?」
東条と水無月は顔を見合わせた。
「オランダの贋作師だったと記憶していますが、詳しくは...」
ベルトラッキは身を乗り出した。
「メーヘレンは芸術家としての才能を認められず、復讐のためにフェルメールの贋作を制作し始めたのです。そして、その腕前は本物と見紛うほどでした」
水無月がメモを取りながら尋ねた。
「彼も捕まったのですか?」
「ここからが面白い」ベルトラッキの声には尊敬の念が混じっていた。「第二次世界大戦中、彼の『フェルメール』の一枚をナチスの将軍ヘルマン・ゲーリングが購入しました。ゲーリングはヒトラーに次ぐ権力者で、美術品コレクターとしても有名でした」
「そして?」東条は興味深げに聞いた。
「戦後、メーヘレンはオランダの国宝級芸術品をナチスに売った裏切り者として逮捕されたのです。死刑も覚悟の罪でした」ベルトラッキは一呼吸置いた。「しかし彼は驚くべき防御方法を選びました—その絵は本物のフェルメールではなく、自分が描いた贋作だと主張したのです」
「信じてもらえたのですか?」
「当初は誰も信じませんでした。そこで彼は、看守の見守る中、獄中で新たな『フェルメール』を描いてみせたのです。彼の技術があまりにも完璧だったため、専門家たちも認めざるを得ませんでした」
「そして彼は...」
「国家反逆罪ではなく、贋作による詐欺罪に罪状が変更されました。皮肉なことに、ヒトラーの側近を騙した『芸術的勝利』は、オランダ国民にとっては小気味よいものだったようです」ベルトラッキは苦笑した。「ヒトラー自身も『フェルメール』を購入しようとしていたと言われています。芸術の専門家を自称していたあの独裁者でさえ、メーヘレンの贋作を見分けられなかったのです」
東条は考え込んだ。
「芸術とは何か...本物とは何か...その境界線は時に曖昧なのかもしれませんね」
「そう、まさにその通りです」ベルトラッキの目が輝いた。「メーヘレンの『フェルメール』は今や美術史上に名を残す作品となりました。贋作でありながら、独自の芸術的価値を持つ存在として」
水無月が鋭い質問を投げかけた。
「あなたもメーヘレンのように、自分の贋作が歴史に名を残すことを望んでいるのですか?」
ベルトラッキは静かに微笑んだ。
「私の動機は複雑です。でも、彼のような『華々しい暴露』よりも、静かに自分の作品が評価されることを望んでいます」
「私たちの『自転車乗り』について、詳しく教えていただけますか?どのようにして制作したのか...」
ベルトラッキの目がさらに輝いた。彼は立ち上がり、隣室から古いスケッチブックを持ってきた。
「これが私の準備段階のドローイングです。メッツァンジェの他の作品を徹底的に研究し、彼の思考プロセスを追体験しようとしました」
スケッチブックには、「自転車乗り」に至るまでの数十枚のデッサンが含まれていた。構図の変遷、色彩計画、そして細部の研究—それらは本物のアーティストの創造過程そのものだった。
「そして、これが重要なポイントです」
ベルトラッキは最後のページを開いた。そこには「自転車乗り」の完成図とともに、小さなメモがあった。
「私はここに、自分のサインを隠しました」
彼は絵の右下の幾何学模様を指さした。
「よく見ると、WBという私のイニシャルが組み込まれています。これは私の『署名』です。全ての作品に、このような形で自分の痕跡を残しています」
東条と水無月は驚きの表情を交換した。
「なぜそんなことを?発覚するリスクがあるのに」
「それが私の...芸術家としてのプライドです。そして、いつか真実が明らかになることも想定していました」
東条はベルトラッキの顔をじっと見つめた。「あなたは、自分の作品が『贋作』として世に知られることを望んでいたのですか?」
老人は複雑な表情を浮かべた。
「アーティストは誰しも認知されたいと願うものです。たとえそれが『贋作師』としてであっても」
水無月が質問を続けた。
「他にも日本の美術館に作品がありますか?」
「それは...お答えできません」
ベルトラッキは突然警戒心を見せた。水無月は質問を変えた。
「ヴェルネールとはどのような関係だったのですか?」
「彼は私のパトロンであり、ビジネスパートナーでした。しかし十年ほど前に関係は終わりました。私の作品があまりにも多くの美術館に入り始め、リスクが高まったからです」
「彼は今どこにいるのですか?」
「亡くなりました。三年前に心臓発作で」
東条は最後の質問をした。
「ベルトラッキさん、もしこの事実が公になったとき...あなたはどうなるのですか?」
老人は穏やかに微笑んだ。
「私はもう八十四歳です。ドイツの時効も過ぎています。私を罰することはできないでしょう。ただ、私の『遺産』が明るみに出ることだけが残っています」
会話は三時間以上続いた。ベルトラッキは驚くほど率直に自分の人生と作品について語った。彼は戦後のドイツで貧困の中に育ち、芸術への情熱を持ちながらも、認められる機会のなかった画家だった。やがて彼は、自分より才能ある芸術家の手法を模倣することに卓越した才能を見出し、それが彼の「芸術」となっていった。
別れ際、ベルトラッキは東条に小さな封筒を手渡した。
「これは『自転車乗り』に関する私の証言書です。必要な時に使ってください」
東条は封筒を受け取りながら、最後の質問をした。
「あなたの作品を、私たちはどうすべきだと思いますか?」
ベルトラッキは意外な答えを返した。
「それは今や、あなたの美術館の作品です。私ではなく、あなたがその運命を決めるべきです」
## 第四章:真実という名の贈り物
日本への帰国便の中、東条と水無月は今後の対応について話し合っていた。
「この情報をどう扱うべきでしょうか」
水無月は慎重に尋ねた。
「私はジャーナリストとして真実を報じる義務があります。しかし、タイミングと方法については、館長のご意見を尊重したいと思います」
東条は窓の外の雲海を見つめながら考え込んでいた。
「完全な透明性が必要だと思います。まず県の文化振興課と理事会に報告し、その後、記者会見で公表しましょう」
「美術館としての信頼性に影響が出るかもしれません」
「隠し続けることの方がリスクは大きいと思います。それに...」
東条は少し微笑んだ。
「この絵は、ベルトラッキの個人的な『傑作』だったのかもしれません。彼のドローイングを見て、その熱意と技術力に感動しました」
「館長は...贋作を展示し続けるおつもりですか?」
「いいえ、それはできません。しかし、この経験を無駄にするわけにはいきません。私は新しい企画を考えています」
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帰国から一ヶ月後、徳島県立近代美術館のプレスルームは報道関係者で埋め尽くされていた。東条館長は厳粛な面持ちで記者会見を始めた。
「本日は、当館所蔵のジャン・メッツァンジェ作『自転車乗り』に関する重要な発表をさせていただきます」
東条は、ドイツでの調査結果と国立文化財研究所による科学的検証の結果を詳細に説明した。そして最後に、今後の対応について語った。
「この作品が贋作であるという事実を受け入れ、私たちは反省とともに新たな一歩を踏み出したいと思います。九月から、『芸術と真実—贋作が問いかけるもの』と題した特別展を開催します」
会場にざわめきが広がった。
「この展示では、『自転車乗り』をめぐる全ての事実を公開し、美術品の真贋問題、美術館の収集方針、そして芸術的価値とは何かを来館者とともに考える機会にしたいと思います」
記者からの質問が飛んだ。
「館長の責任は?」
「購入時の審査体制は?」
「税金の無駄遣いではないのか?」
東条は一つ一つ丁寧に回答していった。
「最終的な責任は館長である私にあります。当時の購入プロセスにも問題があったと考えており、その点については徹底的に検証し、再発防止策を講じます」
「しかし、この経験から学べることも多いと考えています。芸術とは何か、本物とは何か—そういった根本的な問いに、私たちは改めて向き合う必要があるのではないでしょうか」
記者会見の後、水無月が東条に近づいてきた。
「素晴らしい記者会見でした。『危機をチャンスに変える』という言葉がぴったりです」
「水無月さん、あなたの記事はいつ掲載されるの?」
「明日の朝刊です。一面と文化面の特集で」
「内容は?」
水無月は自信を持って答えた。
「『贋作と真実—芸術の境界を問う』というタイトルです。批判的な内容ではなく, この問題が投げかける本質的な問いに焦点を当てました」
東条は安堵の表情を見せた。
「ありがとう」