扃扉—けいひ―
アレは何故造られたのでしょうか。
最初からただの壁にしておけばよかったのに。
祖母の実家は100年以上も前に建てられた古民家で、現代なら法律レベルで建てられない造りをしてました。
まずなんと言っても、その家は崖の淵ギリギリに建てられていたんですね。後ろは正に断崖絶壁。そんな所に人が暮らす家屋を建てるなんて、あり得ないでしょう。
普通なら、崖から最低数メートルは離れた地点に建設するはずです。
しかもですよ、その崖の上に、こう張り出すような形で部屋が造られてたんです。
ほら、山の中に建てられたふるーいお寺なんかにあるじゃないですか、崖に引っかけるみたいな柱で支えられたお堂が。あんな感じで、建物の端っこが崖から乗り出していたんですよ。
正直どうやってあんな建築が出来たのかさえ、今となっては不思議です。
崖に張り出した部屋は、随分立派な木材を使った板張りで、外から見れば危なっかしいくらいでしたが、中に入ってみれば随分しっかりした造りだと安心感すら覚えました。
でも、なぜかそんな所にあるはずのないものがあったんです。
両開きの扉が、崖に向かった壁に設えられていました それはいつ見ても閉ざされていたんです。
普通に考えて、変でしたよ。古い日本家屋の内部にに両開きの扉があるなんてあり得ないじゃないですか。
そんなものがあるとすれば、外の門構えくらい。
何故そんなものが母屋のどん詰まりにあるのか、考えてみれば不可思議そのものなのに、家人の誰も気にしていなかったんです。
もちろん家の生活空間は逆側で、そっちの方に広い座敷や勝手場があったから、そんな危なっかしい部屋にわざわざ入って生活しようなんて思う家人はいなかった。
幼い頃は冠婚葬祭やいろんな年中行事で、しょっちゅうお呼ばれしていた親戚の家だったんですけど、小学生の頃、祖母が亡くなってからは縁遠くなりましてね。
祖母の弟だった大叔父が亡くなった際、両親と一緒にそりゃもう10年ぶりくらいに訪れたんです。
大叔父はまだ座敷に居ましたよ。
古い家なんで、昔の自宅で葬儀を挙げていた頃の名残がまだまだ残ってましてね、仏様をすぐに斎場に運ぶわけじゃなかったんです。
聞けば昨夜家で臨終を迎えて、家の仕来たりとかで葬儀場へは明日の朝運ぶ手はずとのことでした。
それほど親しくしていたわけじゃありませんでしたが、それなりに思い出もあった人でしたから、さすがに死に顔を拝んだ時は、こうぐっとくるものがありましたねぇ。
取り合えず大叔父の遺体に向かって手を合わせて、まぁ裏方で細々と働いていた母や叔母たちを手伝いに向かったんですけど。
廊下に出た時にですね、ふっと風を感じたんですよ。
あれって思いましたね。
だって、その時はもう夜だったんですから。
季節は晩秋でした。古民家の構造をご存知なら分かると思いますけど、そんな季節のそんな時間に窓を閉め切っていないはずがないんです。
もちろん常とは違う状況でしたから、人の出入りも激しくてあっちこっちで開け閉めはされてましたけど、家の奥まった所にいた私が風を感じるわけがなかったんですよ。
だのに、確かに空気が流れたのが分かったんです。
そして、立ち止まった私にもう1度何かが吹き付けてきました。
その時気づいたんです。
これは、知っている出入り口から吹いてきた風じゃないって。
だって、後ろから流れてきたんですもの。
奥座敷の、縁側。その後ろは――張り出した部屋。
私は後ろを振り返りました。
なぜかすごくゆっくりとした動作しかできませんでしたよ。ええ、なぜかね。
部屋の戸は開いてました。
そして、まっすぐ奥にもう1つ。両開きの扉。
古い家だから家の出入り口は、大抵引き戸のはずなのに、そこだけは門と同じ開き戸なんですよ。
いつもはそこに行く前になにかしらの物が置かれてて、奥の壁際なんて見えてなかったのに、その時は上から下までなんの遮蔽物もなく、全て露わになってましてね。
窓なんてありません。
灰色じみた白壁に、飴色の扉。太い閂が渡されていて――黒々とした錠が下りていて。
気が付いたら、扉の前に立って錠をいじくってました。
開けようなんて思ってませんでしたよ。ただ、これはちゃんとかかっているのかどうかを確かめずにはいられなかったんです。
錠の、鍵穴の上に、小さなこの家の家紋がありました。
小さいけど、すごく精密だったような気がします。
とても重い錠でした。
古い、時代劇なんかで見るようなものでした。一体いつ頃の物か見当もつきませんが、100年以上前に造られたこの家の蔵、そこに下げられている物と似ていました。もっと大きかったですが。
ヒュオ、とまた風が吹きました。
扉の向こうから。
隙間があるのでしょうか、いくら重厚でも古ければ無理もありません。
そもそもこんな所、なにか取りに来るものがあったか?と思ったんですけど。その時はなにしろ当主の通夜という非常時でしたからね、物置が開いてても不思議じゃないかとそのまま離れようとしたんです。
そしたら。
どん!
扉が叩かれました。
いえ、何かが叩きつけられました。
この扉を開けようと、いえ、破ろうとしているモノが居ます。
私は開き戸であるそれを思い切り押さえました。
大きな家や城の門は内側に開ける開き戸。これは昔からです。
外からやってくる敵に対して、門を守るためにそうしてあるのです。
錠がガチャガチャと鳴って、閂が軋みます。
非力な私の力で扉を閉め切れるわけがない。
どうか、どうか持ってください。
押さえた扉の向こうで、怨嗟とも絶望とも取れる――でも悲し気な呻きが響いて、消えました。
飴色の扉に黒ずんだ閂、漆黒の錠。
錠が、ガランと音を立てました。
閂と錠が…あら?
この錠は閂を固定している物じゃない?ただ横木に取り付けられている金具に引っ掛けられているだけで、何にも結びつけていないんです。
閂は扉を外から開かせないようにするためのものです。そこに錠をつけるのは、横木を扉に固定して、内側からも開かないようにするためのはず…ですよね。
だけど、これでは横木は金具から簡単に抜くことができるんじゃ…。
試しに閂を動かしてみました。
金具は錆びていましたが、木製の横木は少々重かったものの、ちゃんと動きました、
このまま、ここから抜き取れば、ここは開く。
私は閂を横に――。
ガラン
最初の金具から抜ける直前、錠が鳴ったんです。そして、閂はぴたりと止まって、動かなくなりました。
はっと気付いた時、わたしはまだ閂を持ち上げていました。
危なかった。慌ててそれを元の位置に戻し――。
その時、気づいたんです。
扉が、ほんの少し――そう、コード一本分ほど開いていることに。
見えたのは、碧の光。
川などで、深い、とても深い水の流れがある所が、あんな色合いをしています。その色が、光を放ってこちらを視ているんです。
あれはそう、猫や犬や――とにかく、本来夜を生きる者たちが持つ眼の…。
ヒュオ――と、風がわたしの顔を撫でていきました。
手にしていた閂がズンと重みを増して、わたしはソレを取り落としそうになって。
落とす?
こんなにガッチリと金具に通されているのに。動かそうとしても、動かないのに。
でも…。
隙間から見える碧が、細められた気がしました。
ああ、嗤ってるんだ。
トンッ。
扉が叩かれます。
トン、トン。
来ましたよ、さあ開けてください。
外から誰かが訊ねてきた時の、お知らせの合図音。
トン、トン。トン、トン。トン、トン。トン、トン。トン、トン。トン、トン。トン、トン。トン、トン。とん、どん、どん、どーん!
ドオォォオーン!
夜中にもかかわらず、外で鳥が羽ばたいて――逃げていく。
今、屋敷が揺れました。揺さぶられました。
駄目です、開けちゃダメです。
だって、開けたら空いてしまいます。そうなったら――。
「お待たせしました」
後ろから、声がかかりました。
「そんなに慌てずとも、わたしどもはちゃあんとそちらへユク準備はできとりますよ。親父の時からまだ二十年ほどですのに、気ぜわしいことですな」
部屋の入口に、知っている――知っていた人がいらっしゃいました。
…あちらのお座敷にいらしたはずなのに。
「大叔父様…もしかして、逝かれるのはこの向こうですか」
天へ昇るのでも、地へ堕ちるのでもなく。
「ソレが代々の約束なんでな。この扃扉を閉ざす代わりに、当主は肉の身を捨てたら新しい錠とならねばならん。鍵は――鍵は、お前だったのか」
わたしが、鍵。
ああ、だから扉の向こうがうるさかったのでしょう。
この家の真の代替わりは、当主の死によって為されるのですね。先代と思われていた曾祖父は、実は当代としてここに居た。そして今、人の生を終えた大叔父がその任を引き継ぐのでしょう。
それに必要だったのが、鍵たる者。錠を外すための、そして掛けるための――。
この扉は、正しく門だったのです。
「いつも鍵は遠くに生まれる。だから、錠が掛かるともう二度とおとなうことはない」
そうでなければ。
「扃扉が開かれれば、生と死が混じりあう」
今の、大叔父の様に。
それは大変不味いでしょう。
「頼む。おそらく一生一度だけだ、息子は錠になれぬ者ばかりだったから、おそらく次は孫になるだろう」
それではわたしと同世代の又従兄たちの誰かが…。
「承知いたしました。鍵は間違いなく掛けますので、大叔父様はどうか平かに」
わずかな隙間から漏れる視線から、先ほどまでの嘲りが消えて。垣間見えるのは、歯痒さ?無念?
そんなにこちらへ来たかったのですか。
でも駄目ですよ、閂はまだまだ力強くて、錠は新しくなります。だからこの扃扉が開くのは、もっと先です。
わたしが老いて死んで、新しい鍵が顕れて――そうしてここは閉ざしたままにしておくんです。
ああ、でも。
この閂はいつまで持つのでしょうか。
錠が新しくなっても、この横棒が崩れてしまう未来が来れば――開いてしまいます。
扃扉は何故造られたのでしょうか。
最初からただの壁にしておけばよかったのに、出入りするためのモノなど造らねば良かったのに。
それとも。
造ることで、ここしかないと――ここだけに集まるようにとしたのでしょうか。
ならばあの崖は、下の沢に落ちる為のものではなくて、この世ならざる何処かへと。
「鍵を掛けます。大叔父様、またいずれお会いしましよう」
あれからまた幾年もの時が流れました。
テレビで流れるニュースで、昨今の問題が取り上げられ、識者が熱弁をふるっています。
【少子化が問題になって久しい今日ですが、それにより空き家問題が深刻化しており…】
あの家が。
崖――に見えるあの場所に向かって建つ家が、途絶える未来は…。
時代は、受け継がれるモノが途絶えていく様を日々告げています。
あの扉を叩く音は、まだ響いているのでしょうか。
閂が抜き取られる日は近いのかもしれません。




