……はめたから
大広間には、既に大勢の人が集まっていた。
スペンサー伯爵たちが通る道として上質な絨毯が敷かれ、その左右を使用人たちが埋め尽くしている。
皆、ソワソワしているが、突然の出来事に対する動揺というよりも期待感でいっぱいの様子だった。特にアメリアは、ローレンスがやって来るのが待ちきれないという表情を浮かべている。
さながらレッドカーペットのような絨毯の先で、私は静かに佇んでいた。左側にはエレノアが、右側にはレンがいてくれるが、「アンドレアが主役」だということは明らかな立ち位置だった。ローレンスがやって来た時、二人の陰に隠れるわけにもいかない。
私は右手の薬指を隠すようにして両手を重ね、落ち着きなく何度もそっと指輪に触れた。
ローレンスの登場を目前にして、不安が芽生えている。指輪を見つけた時の興奮が冷め、冷静さを取り戻した私は、指輪をはめたことが軽率な行為だと思い始めていた。
指輪を見つけた時は、確かに名案だと思った。
美しい指輪は、アンドレアの志というべきか生き様というべきか……とにかく彼女自身を表すものだ。
『その指輪が、彼女を守るためにも役立つなんて!』
自分の閃きに感心しつつ、指輪を見つけたのは運命だとさえ感じた。そこに迷いなんてなかった。
だが、よくよく考えてみると、私の行動は軽はずみだ。
『こうした特別な場で、
この指輪を身につけることは、
果たして賢明なことだろうか?』
美しいけれど、この世界では大抵の人が鼻で笑うような指輪。そんな指輪をはめることによって、此処でどんな立場に置かれるのかまでは思い至っていなかった。
重みがあるのは、アンドレアがこの指輪を“隠していた”という事実だ。
エレノアやセシルのような人から隠していたと捉えたのは早計で、もっと大きな理由があったら?
スペンサー家の立場に関わったり、伯爵令嬢の品位を問われるくらいの大きな問題があったとしたら?
「宝石の大きさばかり見る人の目なんて気にするな! 美しいものは美しいのよ!」という私の考えはまともだと思ったし、小さな宝石の指輪をはめることに私は何の抵抗もない。ただ、それは私が他の世界から来ているからだ。
この世界の人にとっては、もっとずっと大きなことかもしれない。
私だって、スペンサー伯爵に恥をかかせてしまうのなら……アンドレアが笑い者になってしまうというのなら……この指輪をはめはしなかった。
いつ、どんな形で、この指輪をはめるのか。
それはアンドレア自身だけが決められることだ。この世界の事情をまだ把握しきれていない私が決めて良いものではなかったのだ……。
こうなると、指輪を見た時のローレンスの反応が怖くなってくる。婚約破棄の意思表示どころか、ただ「マナー違反だ!」「無礼だ!」と彼を怒らせるだけになるかもしれない。
闘志を燃やすごとく、あれだけ勇んで指輪をはめたというのに、今になって私は怖気づいていた。
(今のうちに指輪を外しちゃおうかな……。でも、外してどこにしまうの? このドレスにポケットなんてないし……。もういっそのこと、レンに渡してしまおうか……。軽率だと呆れられるかもしれないけど、彼に預けてしまうのが一番安全な道かも……)
意を決してレンに声をかけようとしたが、耳に飛び込んできた音が私の動きを止めた。
ガチャッ……。
それはドアが開く音だった。
使用人たちは一斉に振り返り、レンとエレノアには緊張が走り、私はといえば指輪を外す機会を失った。
皆が見守る中、スペンサー伯爵と一人の青年が現れ、談笑しながら絨毯の上を歩いてくる。数人の逞しい男性たちも大広間に入ってきて、二人の後に続いた。おそらく彼らは、ローレンスの護衛だろう。微笑みながら使用人たちに向かって会釈をするローレンスとは対照的に、彼らは厳しい表情を決して変えなかった。
護衛がニコニコしているというのも不自然だが、それにしてもピリピリしすぎだ。特に護衛のリーダーだと思われる男性は、周囲に鋭い視線を向け、まるで敵地に乗り込んだのかというくらいの警戒のしようだった。
だが護衛に目がいったのはほんの数秒で、私の視線はすぐにローレンスへと戻った。
ローレンスはとても背が高い。
「足……長っ!」などと、この状況においてはなんとも間の抜けた台詞が頭に浮かんでしまうくらい、スタイルが良かった。彼の身長は実際にスペンサー伯爵より高いのだが、スラリとした体型だからか余計に高く見える。
柔らかな金髪で、噂通りの端正な顔立ちだった。
スペンサー伯爵の顔はほころんでいた。
間違いなく、ローレンスを気に入っている……。それが一目でわかるような表情だ。
ローレンスは私から数歩離れた位置で立ち止まり、優雅な仕草でお辞儀をした。私だけではなく、レンとエレノアを含めた三人に対しての挨拶だった。
両隣の二人がお辞儀を返すのに合わせて、私はレンに教わったカーテシーをした。
「アンドレア」
そう言って、スペンサー伯爵が私を呼び寄せる。
彼の視線は素早くレンとエレノアに向かい、二人を目で制止した。「来るのはアンドレアだけだ」と、その目が言っている。
レンのそばから離れたくないが、スペンサー伯爵の有無を言わせない雰囲気には従わざるを得なかった。
品のある姿勢を維持しつつスペンサー伯爵の元に行くと、彼はすぐに私をローレンスと向かい合わせた。
間近で見るローレンスは、より一層魅力的だった。
以前、スペンサー伯爵が「甘いマスク」と言い表していたが、確かにその通りだ。だが、端正な顔立ちよりも私が惹かれたのは、彼から感じる聡明さだった。
こちらを見つめる、透き通るような青い瞳。
目が離せず、心を奪われそうな気持ちになる。
それから逃れようと懸命に俯いてみたが、自分の中に湧き上がる奇妙な感覚に気づいて思わず眉をひそめた。
“私は、この人を知っている”
その感覚に私は混乱した。
なぜなら、“私”が彼を知っているはずはないからだ。
私が戸惑っているのを感じたのだろうか?
それとも、恥ずかしがっているように見えたのだろうか?
ローレンスは誘うように、私に向かって左手を差し出した。
私が躊躇いがちにスペンサー伯爵の顔を見上げると、彼は微笑みながら、「さぁ、その手を取りなさい」というように頷いて見せる。
「……」
右手の指輪がより重く感じる。
……かといって、私も左手を出すというのは不自然だ。
(もう……なるように、なれ!)
私は覚悟を決め、ローレンスが差し出している左手に自分の右手を重ねた。
薬指の指輪がキラキラと輝き、ローレンスの視線がまっすぐその指輪に注がれるのがわかる。
だが驚いたことに、彼はその指輪を見ても柔らかく微笑んだだけだった。
(……あれ? 予想していた反応と違う……)
拍子抜けしたが、それよりも安堵の方が強い。
(この指輪には何の効果もなかったみたいね……。でも、それで良い! 良かった……嵐を巻き起こさずに済んで……)
ローレンスはそのまま優しく私の手を握ると、周りにいる全員に聞かせるように話し始めた。
「この度は、突然の訪問で皆さまを驚かせてしまい申し訳ありません。詳しい事情は、後ほどスペンサー伯爵からお話があると思いますが、これだけは私の口からお伝えさせてください。……私とアンドレア嬢は、実は婚約する必要がないのです」
……ん?
(……もしかして、わざわざ私が婚約破棄しなくても、ローレンスの方から破棄してくれるってこと? もう婚約しなくて良いの? ……ま、まぁ……それはそれで良いか……結果としては……)
混乱しながらも良い方へ解釈しようとしたが、そんな私の努力をローレンスは次の言葉で打ち砕いた。
「なぜなら……私たちは、既に婚約を成立させているのです」
「え」
私の口からいまだかつてないほど低い声が出たが、人々のどよめきが簡単に掻き消してしまった。
「あ……あの、何を言って……」
そんな私の声など耳に入っていない様子で、ローレンスは人々に見せつけるように握っていた私の右手を上に掲げる。まるで勝者の手を上げるように……。
そして、私の右手を見た途端に、人々のどよめきは歓声へと変わった。
「あ……あの……ちょっと……! 手を離して……」
意味がわからず、ローレンスに詰め寄ろうとしたが、その時になって私は、彼もまた自分の右手を上げているのに気がついた。
ローレンスの右手。
その薬指には、私がしているのと全く同じ指輪がはめられていた。
きらきら……きらきら……。
永遠を刻むように、指輪が輝きを放っている。
私とローレンスの右手薬指に光る、全く同じ指輪。
……婚約の……証し。
人々が興奮気味に話し始めるなか、ローレンスは私の目をじっと見つめた。
美しい瞳が一瞬だけ、何かを探るような煌めきを宿す。それに私が対抗しようとしたのも束の間のことで、すぐに彼は元の優しい目に戻っていた。
なぜか、彼は安心したように見えた——。




