指に……
どれほどの沈黙が続いただろう。
静けさに耐えられず、誰よりも先に口を開いたのは私だった。
「……え?」
他に言うべきことはあったと思うし、もちろんエレノアの言葉を聞き逃したわけでもなかった。ただ、単純に聞き返さずにはいられなかったのだ。
(ローレンスが来た? だって……3ヶ月の準備期間はどうなったの?)
エレノアは自分を落ち着かせるように目を閉じると、一呼吸置いてから、もう一度ゆっくり言った。
「この屋敷に……つい……先ほど……ローレンスさまが……いらっしゃったのよ……」
この部屋にいる全員が同じことを感じていた。
それは“戸惑い”だ。まさしく当然の反応だった。
あのローレンスが、「3ヶ月の準備期間を設ける」というしきたりを無視した。
誰もが予想だにしなかったことだ。エレノアの様子を見れば、彼の行動がいかに異例なものかわかる。準備期間の真っ只中に、相手の屋敷へ押しかけてくる不届き者など、これまでいたためしがないのだろう。
もしもローレンスが噂通りの人物ならば、彼は当然「しっかりと3ヶ月の準備期間を与えてくれ」、やって来る時には「前もって、その旨を知らせてくれ」、アンドレアへの気遣いとスペンサー家への配慮を怠らないはずだ。
間違っても、「突撃訪問」のような真似は絶対にしない。
当たり前の如く存在した「ローレンス」に対するイメージを、彼の性急な行動はあっさりと打ち砕いてしまった。
私には、ただ“解せない”としか言えない。
それとも彼は、私たちが思っているような人物ではないのだろうか……。
レンの表情は硬かった。
彼は軽く目を細め、思案しているように見える。
エレノアは口を閉ざし、立ち尽くしていた。
娘とローレンスの婚約に大喜びだった彼女が、今では「どうしましょう」とばかりに顔を強張らせている。求婚に対して勝手に『承諾』の返事を出したことを、ひどく後悔しているようにも見えた。
『公爵令息を決して手放してはならない』
狂気じみた勢いで、そう私に叩き込んだエレノア。
あの時のエレノアと今のエレノアが、同一人物だとはとても思えなかった。時に脅しの様相を見せ、色仕掛けも辞さないと考えていた彼女は……もうどこにもいなかった。
(不思議なことじゃないわね。だって……エレノアは変わったんだもの。文字通り、以前とは別人なのよ……)
かつては「娘を良家の者と結婚させる!」と執念を燃やしていた女性が、今はただ娘を心配している。
ローレンスに抱いていた『品行方正で思いやりのある青年』のイメージが、エレノアの中でも揺らいでいるのだ。
そして私も、ローレンスに対して疑念と不信感を抱き始めていた。
(……どうしてなの? 婚約式まで3ヶ月の準備期間をくれるはず……。アンドレアにとって、それは正当な権利だわ! それなのになに? まだ2週間くらいしか経っていないじゃない……。そんなに待てないって言うの? そんなに忍耐力がないの? そもそも、早く会いたいからって会いに来て良い問題でもないわ。……それとも……他に何か理由が……? まさか……婚約破棄するつもりなのを察知された? そんなことってある? まさか先手を打って、何が何でもアンドレアとの婚約を成立させるつもりなの?)
自分の焦りと不安が強まるにつれ、それは他者への怒りへとすり替わった。つまり、まともな準備期間も与えてくれず、何の連絡もよこさず、突然押しかけてきたローレンスに対する怒りへ……と。
これからしばらくの間、レンと穏やかに過ごせる時間を持てる。そう思っていた私にとって、ローレンスの予期せぬ訪問はまるで裏切りのように感じられた。
その時、レンが軽く息を吸うのが聞こえた。
彼は意識を現実へ引き戻すように目を閉じ、その後に小さな溜め息をついた。
それから落ち着いた口調で、エレノアに尋ねた。
「ローレンス殿は……今どちらに?」
「あ……ローレンスさまは……ジェームズと……二人きりで話しています。なんでも……重要な話が……あるそうで……。ローレンスさまは……数人の護衛だけを連れて……ひっそりと現れたんですよ。あんな隠れるようになんて……普通じゃないわ。それに、あの護衛の目つきといったら……。護衛の一人……そう……あの人は……特に警戒心が強くて……わたくしにまで厳しい目を……。あぁ……二人の話し合いが終わったら、大広間でローレンスさまをお迎えしなければならないのです……。アンドレアを急いで用意させないと……。ですが、ですが……なによりも……まずはレンさまにお伝えしないといけない……そう思って……!」
そう捲し立てるエレノアの顔は青白かった。
動揺しているせいで、彼女の話し方は理路整然としていない。とにかく思いついたことを手当たり次第、口にしている様子だった。
「落ち着いてください。大丈夫ですから……」
優しい声で言いながら、レンはエレノアに歩み寄った。
「どのような話し合いかはわかりませんが、ジェームズなら上手く対応出来るでしょう。アンドレアを辛い目に遭わせたりはしないはずです。今は落ち着いて、ローレンス殿を迎える準備をしましょう」
「そうですね……。では……まずはアンドレアの身支度に取りかかりますわ……。あ……! も、もちろんレンさまも同席を……」
レンが、やんわりとエレノアの言葉を遮った。
「いいえ、それには及びません。『アンドレアに会う時は、必ず私か伯爵を同席させてください』という私の言葉は、もう気になさらなくて結構です。今後、私が懸念していたようなことは二度と起こらないでしょうから……」
それを聞いたエレノアは、感極まった表情を浮かべ、しっかりと頷いた。
“エレノアは、もう娘に対して酷い真似をしない”
それをレンが見抜いてくれたことに、彼女は感謝しているように見えた。
「……ですが、行く前に少しだけ……アンドレアと二人で話をさせてください」
レンの言葉に、エレノアは「もちろんです」と答えて丁寧にお辞儀をした。
「アンドレア……あなたの部屋で待っているわね」
それだけ言うと、エレノアは部屋を出て行った。彼女から私に向けられた表情は柔らかく、優しさを感じさせるものだった。
扉が閉まった瞬間、私はレンに駆け寄った。
「……見ました? エレノア……まるで別人です! ……そ、それよりも、どうしましょう……! まだなんにも準備が出来てないのに……! だって、まだまだ2ヶ月以上も時間があるって思ってたんです! ローレンスさんって、こんなに強引に推し進めるような人なんですか?」
パニックになる私を落ち着かせようと、レンが私の背中に手を当てた。彼の手の温もりが、私の身体中から寒気を取り払う。
「沙希、深呼吸をして……。大丈夫だから。確かに予想もしていなかったことだが、何か事情があるのだろう……」
「さすがに……無理矢理、婚約を成立させようとはしないですよね? もしも私に何も言う隙を与えてくれなかったら? もし断っても、聞き入れてくれなかったら……?」
レンは私の右手を優しく手に取り、薬指を指差した。
「婚約成立の証は、ここに指輪をはめることだ。たとえ何も言葉を口に出来なくても、ここに指輪をはめられなければ良い。万が一、ローレンスが力づくで指輪をはめようとしたなら、その場で私が彼を押さえつける。だが、そんなことは起こらないよ。いくら予想外の行動を取ったからといって、ローレンスはそこまでの暴挙に及ぶような人物ではない。なにより……私もジェームズも、そんな野蛮な行為は決して許さないから安心してほしい」
私を見つめるレンの瞳は、力強さに溢れている。全身を守護のベールか何かで包まれているような感覚になり、私は微笑んだ。
(良かった……。これなら頑張れそう)
部屋の外から、使用人たちがバタバタと走り回る音が聞こえてくる。大広間でローレンス一行を迎えるため、大急ぎで準備をしているのだろう。
「さぁ……部屋の前まで送ろう」
レンの言葉に、私はゆっくりと頷いた。




