紋章
そのタペストリーは、インディゴブルーの生地に、金色の糸で紋章が刺繍されたものだった。
紋章は、周りを額縁のような枠で囲まれ、その中は右上にひとつの輝く星が、そして右下から左上にかけて豊かに生い茂る草花が施されている。
非常に美しさを感じる……とはいえ、それ自体は何の変哲もない紋章だ。
ただ、これが引き起こした私の反応は、どうにも理屈に合わなかった。突き抜けた奇妙な感覚、その正体は“紋章に見覚えがある”というものだった。
(どうして?)
真っ先にその疑問が浮かんだ。
だって、“見覚えがある”なんて、そんなはずはない。この世界は全く知らない場所なのだから……。
ありえない。
そう思いながらも、私はその紋章から目を離すことができなかった。
自分の勘違いだと無視しようとしても、どうしても気になってしまう。
きっと……多分……もしかしたら……? いいえ、絶対に見たことがある……。
この世界に来てから見たのではなく、『元いた世界』で。
でも、どこで? 当然、紋章を目にするような生活など送っていないし、仕事漬けの毎日では、そもそも仕事以外の何かに触れる機会さえない。
それでも、私はなんとか思い出そうと、懸命に記憶を探り始めた。探しているものは、すぐ水面下まで浮かんできているように感じられたが、水が濁っていて下が見えないようにハッキリとはしない。
すぐ近くにあるのに、届かない。
思い出せそうで、思い出せない。
もどかしかった。
(この紋章を知っているのなら……まさにこれが、私とこの世界をつなぐものかもしれない。私がここに来た理由と、何か関係があるかもしれない……!)
私がここにいる理由を知る、唯一の手がかりだ!
紋章に“見覚えがある”という感覚は、いまや全身を包みこむまでに広がり、私は興奮気味に記憶を辿った。
手がかりを得た喜びはあるが、思い出せなければ何にもならない。藁にもすがる気持ちだった。
その時、アンドレアの名を呼ぶエレノアの声が聞こえ、私は仕方なく彼女の方へ顔を向けたが、意識は自分の記憶を探り続けていた。
そのせいで視界はぼやけ、エレノアの顔もハッキリとは見えない。彼女が何か話しているのはわかるが、それを聞こうともしなかった。なぜなら、エレノアに焦点を移した途端に、もう少しで届きそうな、この紋章の記憶が消え去ってしまいそうな気がしたからだ。
今はこんなことをすべきではない。エレノアに注意を払った方が良い! 私の中でそう警告する声が聞こえたが、それでも私はやめなかった。この世界と私とのつながりを教えてくれるかもしれない……その唯一の手がかりをハッキリとした形で掴みたかった。
(お願いだから……あともう少し……もう少しで、何か思い出せそうなの……)
バンッ!
突然響いた大きな音に、私はビクッと体を震わせた。
エレノアがテーブルを力任せに叩いたのだ。
そして、彼女は自身の大声で、ついに私の意識を完全に奪ってしまった。
「アンドレア! わかったなら、はっきり返事をなさい!」
私の目には苛立つエレノアの顔が鮮明に映り、それとは対照的に、紋章にまつわる感覚はサーッと遠ざかっていく。思い出せそうだった何かは、あっという間に記憶の底に沈んでしまった。
伯爵がたしなめるように、エレノアの腕に手を伸ばしたが、彼女はそれを振り払って叫んだ。
「あなたは下がっていてちょうだい! これにはこの子の人生がかかっているのよ! ……アンドレア、わかったわね?」
(人生がかかっているですって? 私の人生だって、思い出すことにかかっていたのに……!)
エレノアが返事を待ち、じっと私を見ているのはわかるが、失意から私の頭は働かなかった。
「はい?」
思わず口をついて出た言葉に、私はハッとして口に手を当てた。
(しまった! なんて言い方を……!)
案の定エレノアは、私の伯爵令嬢らしからぬ返事の仕方に眉をピクリと吊り上げた。そして、叱責しようと口を開く。
私は飛んでくる甲高い声を予想して、体を強張らせた。
しかしエレノアは、急に思い直したように口を閉じた。そして、背筋を伸ばすと、口元に笑みを浮かべ、ツンと顎を軽く上げる。
彼女は改まった口調で、こう言った。
「わかれば、いいのよ」
???
最初、私は彼女が何を言っているのか、わからなかった。
しかし、すぐにエレノアが『何』をしたか悟った。
彼女は、明らかに疑問形だった「はい?」を、承諾の「はい」にすり替えたのだ。私を咎めるかわりに、自分に都合の良い方へ利用することを思いついたらしい。
でも、無理矢理にも程がある!
発する言葉は同じでも、「はい?」と「はい」では抑揚が全然違うじゃない! そんなやり方は認めないわよ!
私は勇気を振り絞り、再び口を開いた。
「あの……」
「アンドレア、お前は理解が早くて本当に良い娘ね」
「お母さ……」
「あなたは『はい』と言ったわ。わたくしとの約束を守ってくれると、信じていますからね」
「それは……」
「さぁ、忙しくなるわね。あぁ、そうだわ! 早くアルフレッドに連絡しなくては! あなたに一番相応しいドレスを作ってもらうのよ! そうね、いったい何着必要かしら? ローレンスさまがいらっしゃる前に……」
何か言おうとする度に、エレノアはまくしたて、私に訂正する隙を与えない。
むしろ今回、隙を与えてしまったのは私の方だ。油断してはいけない人間の前で、他のことに気を取られてしまった。
(この紋章めっ……!)
私はタペストリーにチラリと視線を向け、自分の注意を引きつけた紋章を睨みつけた。
結局、この紋章は何も思い出させてはくれず、ただエレノアに好き勝手する機会を与えてしまっただけだった。
「それでは……」
不意に、エレノアの甲高いものでも、私のか弱いものでもない声が聞こえた。
大きな声ではないのに、人の意識を惹きつける声。エレノアでさえ、すぐに口を閉じて彼に視線を向けた。
今までずっと黙っていたレンが、口を開いたのだ。




