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疑いを超えて

 咄嗟に身をすくめることしかできなかった私と違い、相手は素晴らしい反射神経の持ち主だった。私にぶつかる寸前で、キュッと立ち止まってくれたのがわかる。おかげで衝撃は一切なく、代わりに私が感じたのは毛布に包まれるような暖かさだった。


 もちろん毛布がいきなり出現したわけではない。その温もりは、衝突を避けようとして私の腕に添えられた手から生じたものだった。安心感を与えてくれる温もり……。

 こんな手を持つ人物を、私は一人しか知らない。


 私は、その相手の顔を見上げて笑顔を浮かべた。


「……レンさん!」


 だが、そう言った瞬間に、頭の中で「しまった!」という声が響いた。誰かに見られるかもしれないのに、うっかりレンを「さん」付けで呼んでしまったという理由もあるが、目の前に立つレンが、私の顔を見て心配の表情を浮かべたというのが一番の理由だった。


 「此処は小説の中か否か」という問題で気持ちが昂っていた私は、自分が泣いたことなどすっかり忘れて部屋を飛び出してきてしまった。だが、零れ落ちた数滴の涙は、しっかりと私の頬に跡を残していたのだろう。その証拠に、レンの目は私の頬を見ている。

 彼は視線を私の頬から目に移し、優しい声で尋ねた。


 「どうした?」


 彼が慰めようとしているのが瞬時にわかったが、泣いた理由を話すのは私には不可能だった。衝動のように『彼を傷つけてなるものか』という強い想いが湧き上がる。


(此処を「小説の中」だと疑ったなんて、知られたくない……。この世界に生きる人たちに、そんなことを言うなんて本当に無神経よ! ただ疑っただけ? それだけでも充分失礼だわ。こんな疑い……一ミリだって察して欲しくない)


 レンの“力”が全く気に留めていない以上、この「小説の中?」という疑いを抱くのも、気にするのも、こだわっているのも、たった一人……この私だけだ。

 つまり、私が自分の内に秘めていられれば、誰かを傷つけてしまうこともない。

 結局のところ、疑いよりもレンたちへの愛しさの方が強いのだ。誰かの前で、この疑いを口にするつもりはなかった。


 どう答えようか迷っている私を、レンは催促せず静かに見つめている。そんな彼の青い瞳を見つめ返すうちに、私は不思議な感覚に包まれた。

 時間の経過がゆっくりになり、周囲のものが動きを止めたように感じる。時間が止まったわけではなく、まるで1秒が数十秒に引き延ばされたような、一瞬が永遠になったような……今まで味わったことのない感覚だった。


 その時、はっきりとわかった。

 レンの圧倒的な存在感を前にすれば、疑いは雲散霧消する……と。


 私の中で何かが吹っ切れ、自然と微笑みが浮かんだ。

 頭には「小説と全く同じ紋章なんて変よ! なぜなの? どうしてなの?」という考えがしつこく残っているが、心がそれを「馬鹿げている」と一蹴する。


 私はレンに向かって、笑顔で「大丈夫」と「何でもないの」を繰り返した。

 これが通用するとは思っていないし、無理があるのはわかっている。けれど、泣いた原因を『言わない』ことは譲れない——特に、私の疑いが「ひどくちっぽけなもの」に思えた時には——。


 レンが無理に聞き出そうとはしないとわかっていたが、彼が再び口を開く前に、私は急いで“アンドレア”を演じ始めた。


「スペ……お父さまとのお話は終わったの?」


 私が話を逸らそうとしているのを見て取り、レンの眉がわずかに動く。それでも、彼はすんなりと私に話を合わせて返事をした。


「ああ、ちょうど終えたところだよ。ジェームズとの話は今日で一段落したから、今後はもっと君と過ごせるようになる。これまで君を一人にしてしまうことが多くて、すまなかったね。そうだ……今朝、ルーベンから手紙が届いてね。そのことも君に伝えようと思っていたんだ」


 レンがそう話している間に、廊下の向こうから2人のメイドが現れた。私とレンの会話を邪魔しないように、彼女たちは軽くお辞儀をして通り過ぎて行く。

 レンは彼女たちに優しく微笑みかけ、私は自然と会釈を返した。その時、私は彼女たちが掃除道具を抱えているのを見てハッとした。


 この広い広いお屋敷。

 どの部屋も常に綺麗なのは、きちんと掃除をし整えてくれる人たちがいるからだ。何もせずに埃がないわけではなく、勝手に整理整頓されているわけでもない。

 当たり前のことなのに、考えもしなかった。


 「メイドなんだから、掃除をするのは当然」とは思わなかった。屋敷を綺麗にしてくれることへの感謝がただただ溢れ、私は彼女たちに向かって、心の中で「ありがとうございます」とお礼を言った。


 一度「此処が小説の中かもしれない」と疑ったことで、この世界の人たちを見る目も変わったようだ。より深く見ようという意識が、私の中に芽生えている。

 だから屋敷で働く人たちのことも、「あの人は執事」「あの人はメイド」「あの人は庭師」という認識ではなく、一人の「人」として見ようとしているのを感じた。


 自分の変化に少しだけ戸惑いながらも、私は再び“アンドレア”を意識して話し始めた。


「……ルーベン!? 彼がどうしているか気になっていたの! ケヴィンも元気にしているかしら? それに、あなたとお父さまが何を話していたのかも知りたいわ。もう何日間も、ずっと長いこと話し込んでいたでしょう?」 

「……わかった。確かに、君にも話しておいた方が良いだろう。ルーベンの手紙の件もあるし……では私の部屋へ行こうか」


 レンの言葉に頷いて、私は彼と一緒に歩き始めた。

 人が行き来する廊下では、“私”とレンの会話は難しい……。私が“私”として振る舞えるのは、やはりレンの前でだけだった。


 レンの部屋は居心地が良くて、私の大好きな場所だ。

 テーブルの上に積み上がった書類や本は、いつも彼の忙しさを物語っていたが、それに振り回されない落ち着きが部屋を満たしている。私にとっては、レンが連れて行ってくれた“美しい森”よりも安心できる場所だった。


 レンが開けてくれたドアから先に部屋に入ると、私はすぐに目を丸くしてピタリと立ち止まった。


 彼の部屋には何度も訪れているが、それは初めて見る光景だった。


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