紋章の記憶(4)
この部屋の窓からは、広い庭園の一角が見える。私の目が捉えていたのは、そこに佇むエレノアの姿だった。
セシルはもちろんのこと、誰もエレノアに付き添っておらず、庭園で頻繁に見かける庭師のジョージや彼の弟子たちの姿も周囲にはない。
ひっそりと、たった一人……。考え事をするように俯いたかと思えば、顔を上げて咲き誇る花々を見渡す。エレノアはそれを何度も繰り返していた。
(エレノア……こんなところにいたのね……)
そう思いながらエレノアを眺めているうちに、私の目からは涙が零れ落ちた。その涙を拭うこともせず、私は何かに立ち向かうように彼女を見つめ続けていた。
エレノアが纏う“穏やか”さに、私は目を見張った。表情がよく見えなくても、彼女が醸し出す雰囲気が明らかに変わっているとわかる。
今の彼女には尊大さなど欠片もなかった。ギラギラとした計算高さも感じられない。あの「指輪の大きなエメラルドを見せつけようとしていた女性」はもういなかった。
初めて会った時とは、まるで別人だ。
(……この変化が、ただの幻だっていうの? 創作に過ぎないっていうの?)
その考えが浮かんだ途端、私は自分がまだ『此処は架空の世界なんかじゃない!』と、確信を持っているわけではないと悟った。
涙の原因は、まさに“これ”だ。
エレノアに起こった変化、そのきっかけとなったレンやスペンサー伯爵が持つ優しさ、そして、変わることを自分自身で選んだエレノアの決断。
私はその全てに敬意を抱き、大切なものと受け止めていた。
その「大切なもの」が単なる「作りもの」かもしれないと思ってしまうから、切なくて涙が出るのだ。
一度でも頭をもたげてしまった「この世界は小説の中かもしれない」という疑念は、完全には消え去らない。いくら自分に言い聞かせても、一旦は落ち着いた気がしても、気持ちを切り替えられたと思っても、心の底から信じ切れてはいなかった……。
誰かが「此処は実在する世界だ」と保証してくれない限り、この疑いは私に付きまとい続けることになるだろう。
(レンの“力”が、言葉を使ってハッキリと「此処は小説の中ではないよ」って言ってくれれば良いのに……。でも、きっとそんなことは起こらないわね。現に、私が紋章の記憶を思い出す手助けはしてくれても、この「小説」に関わる部分は完全に無視の状態だもの……)
ただ、“力”が注目したのが紋章のみということは、実は朗報なのかもしれない。それは「小説には何の意味もない」ということの現れのはずだからだ。
それに、もしも小説ならば、エレノアの変化は「あり得ない」「都合が良すぎる」として、むしろ起こり得ない。
しかし、それが起こるというのが『現実』だ。
「傲慢な伯爵夫人は変わらないよ。ずっとずっと嫌な奴さ」なんて決めつけも意に介さない。「事実は小説よりも奇なり」というように、小説の中でも起こり得ないようなエレノアの変化が、現実の世界では確実に起こり得る。
しかも、それが周りに与える影響は絶大だ。
ゆっくりと歩き出したエレノアの後ろ姿を見送りながら、私は静かに窓を閉めた。それから、テーブルの上に落としてしまった本を棚に戻す——今はとても“本”を読む気になれなかった——。
葛藤は消えていない。けれど、それを越える強い想いが私の心に溢れていた。それは、レン、スペンサー伯爵とエレノア、アメリアやアネット、ルーベンにケヴィン……といった、この世界で出会った人たちへの愛情だ。
私は彼らのことを愛しく思っている。この愛しさ以上に、今の私に原動力を与えてくれるものはない。
結局のところ、もし此処が小説の中だったとしても、私が抱いている愛しさは本物で実在している。そして、小説の中だったからといって、私が「もう、どうとでもなれ」と投げやりになることは絶対にない……!
私はドアを開け、胸を張って部屋の外へと出て行った。
(さぁ、セシル! 来るなら来なさい! 今の私は、あなたを恐れたりしないわ!)
セシルに会っても、エジャートン夫人と出くわしても、たとえイヴォンヌが目の前に現れたとしても、私が怖気付くことはないと思えた。
今はアンドレアの手紙を探すことをやめ、とにかくこの世界の人たちに会いたかった。彼らの声を聞き、たくさん話したい。彼らの顔を見て、笑顔を交わしたい。
キリリと眉を上げて勇ましく廊下を闊歩し、階段を下りて行く。そのまま2階の廊下を突き進もうと角を曲がった瞬間、誰かにぶつかりそうになり私は身をすくめた。




