紋章の記憶(3)
この世界は「小説の中」……。
確かに、別世界だからこそ成り立つ『容姿は西洋人+言語は日本語』の不思議な組み合わせは、「此処が小説の中だから」という理由でも成立する。
ただ、この「小説の中」という考えを、私は全くもって歓迎していなかった。可能性が頭をよぎった途端に、心が拒否反応を示したのがわかる。
私にとっての「別世界」とは、実在する世界のことだ。そこに架空の世界は含まれていない。
(だいたい……内容も登場人物も知らないのに、此処が小説の中だとわかったところで何になるのよ……!)
グアァッと怒りが込み上げたが、それでも私の頭はフル回転で分析を始めていた。
「小説の中」だと認めていないにも関わらず、次々とあらゆる推測が溢れ出してくる。
(もしも、その小説の主人公がアンドレアだとしたら……?)
そう考えて真っ先に思い浮かぶのは、あの「ハンサムで誠実な公爵令息」のことだ。アンドレアの恋のお相手として、まさにローレンスはうってつけの人物といえる。
『欲望と争いが渦巻く公爵家。その中で過酷な環境に耐えながらも、アンドレアとローレンスは愛を育んでいく』
……なんて、物語として充分あり得る設定だし、もちろんドラマチックな描き方も可能だ。
そうした小説が流行ることに違和感はない。
ただ、そうなると「婚約破棄」なんていうのは、明らかに展開としてNGだった。そもそも「婚約破棄」という選択が生まれたのは、タイミング悪く“何も知らない私”がこの世界に来てしまったからだ。それがなければ、婚約は無事に「成立」したかもしれない。
そう考えたところで、私は思わず頭に手をやった。
(……そうか……だって、もしアンドレアが此処にいたら、彼女は「自分が公爵令息との婚約を承諾した理由」をレンにきちんと説明したはずよね? そうよね? 理由が伯爵令嬢としての義務感からなのか、実はローレンスのことが気になっていたからなのかはわからない。でも、アンドレアの想いに納得できたなら、レンは彼女の気持ちを受け入れて「婚約」を認めたかもしれないわ! それはローレンスにとっても喜ばしいことだし……ということは……“私”はアンドレアとローレンスの間に芽生えたはずの愛を潰してしまったの?)
ショックを受けつつ、私はすぐに「いやいや、そうとは限らない……!」と自分に言い聞かせた。
もし恋のお相手がローレンスでない場合、むしろ婚約破棄こそ必須! 私とレンが目指している「婚約破棄」の方が正しい選択だ。
では……もしアンドレアがヒロインではなかったら?
随分と突拍子もないが……もしも悪役だったら?
侯爵令嬢イヴォンヌや、少し前までのエレノアのように、「性格の悪い貴族」は物語の定番キャラだ。
何かのきっかけで、アンドレアがその一員になってしまう可能性もゼロとはいえないのではないだろうか?
そして、冷静に考えれば、そんな簡単な話でもない。
例の紋章はスペンサー家のものではなく、「貴族の紋章」だ。つまり貴族であれば、あるいは貴族に関わりのある者であれば、誰でも主人公の可能性があるということ……。
それならば、アンドレアがいわゆるモブキャラということも、当然あり得る話だった。
誰もが主人公に成り得るし、誰が主人公かによって物語の視点は全く変わってしまうし、物語がどう進むのかについては、何百、何千という数のストーリーが存在する。
ジャンルでさえ定かではない。
純粋な恋愛ものか、愛憎渦巻く神経衰弱ストーリーか(私としては、これはご遠慮願いたいが……)、気分爽快なハッピードラマか、魔法溢れるファンタジーか、考えさせられる哲学的物語か……。
(それに……話の内容を知ったとして、“私”はどうすれば良いの? 話の筋書きに、忠実に従うべきなの? それとも、全く別の新たな物語を紡いでも良いの?)
何を選べば良い?
何を選べば正しい?
考えるにつれ、どんどん膨れ上がる苛立ち。
それに心を支配されそうで、私はそのイライラを吹き飛ばすように、両手でバンッとテーブルを叩いた。
その瞬間、あることに気がつく。
(いいえ、違う……違うわ……。このイライラ……こんなに私が腹が立つのは、「小説の詳細を知らないから」、「色々な可能性がありすぎて、何もわからないから」だと思ったけど、本当はそんな理由じゃない。もっと、ずっと根本的なことよ。私は「この世界は小説の中」という考えそのものが、耐え難いんだ!! だって、レンたちが「ただの作りもの」だと言われたように感じたから……。レンたちが「ただの小説の登場人物に過ぎない」……そう言われた気がしたから……)
この世界に来てからの様々な瞬間が、頭の中を駆け巡る。特にレンの青い瞳を思い出すと、心を揺さぶられた。
これほど優しい目を、私は見たことがない。彼の目から溢れる愛、微笑みに宿る思いやり。たまに「からかう」ような子供っぽさが浮かんだり、時には圧倒されるほどの凄みを感じさせることもある。
(私にとって、レンがどれほど大きな存在か……。此処が「小説の中」だなんて、受け入れられるわけがないじゃない)
息苦しさを感じ始めた私は、急いで窓へと駆け寄った。
勢いよく窓を開け放つと、入ってきたそよ風が髪を揺らし、新鮮な空気が部屋中を満たしていく。
私は深く呼吸をしながら、目を閉じて、陽射しの温もりを感じ続けた。自分の存在を確かめるように、“生きている”という実感を得るように、ただ佇んでいた。
(そうよ、私は此処に“いる”。感じるでしょう? 大丈夫。架空の世界なんかじゃない。……私と同じように、レンも、みんなも……ちゃんと此処に“いる”の)
その感覚をしっかりと味わってから、私はゆっくり目を開けた。
青空の美しさや太陽の温もり、頬を撫でる風の心地良さのおかげで、気持ちが切り替わっていくのを感じる。
しかし、落ち着いたのも束の間、ふっと視線を落とした先に見つけた人物が、私の心を再び揺さぶることになった。




