紋章の記憶(2)
雑踏に放り込まれた感覚に包まれると同時に、私にはある記憶が蘇っていた。
ザワザワとした喧騒。
足早に歩く大勢の人々。
放送が流れ、電車が発車する。
せかせかとして、落ち着きのない雰囲気。
考えなくても、それが何かはすぐにわかる……「通勤ラッシュ」の記憶だ。
非常に馴染み深い光景だが、懐かしさは感じない。
けれど、ここで重要なのは通勤ラッシュ自体ではなく、その際に「目にしていたもの」の方だった。
駅構内の至る所に貼られたポスターや、電車内にある広告。その中に例の“紋章”が描かれているものがあったのを、私は鮮明に思い出したのだ!
それは、私がいた世界で流行っている「小説」のポスターや広告だった。「累計◯◯万部突破!」や「アニメ化」の宣伝文句が踊っていたが、私の目を引いたのは他でもない例の“紋章”だった。
流行りに疎い私でさえ、その小説の人気ぶりは認識していた。シリーズで、新刊が出る度に同僚の間で話題になっていたし、今思い出した通り、通勤中にやたらと広告を目にしていたのだから当然と言えば当然だろう。
問題は……この小説の内容を私が全く知らないことだ。
本好きならば興味を持っても良さそうなものを、睡眠不足でお疲れモードの私は関心を全く持たなかった。読書をする気力も余裕もなかったというのが正確かもしれない。
同僚が話を振ってくれても、私は困ったように微笑んで「読んでないの」という一言を返すだけ。本の話題に乗り気じゃないこちらに対して、相手も無理に話してこようとはしなかった。
今となっては後悔しかないが、「どんな話なの?」くらい聞いておけば良かった……。
関心を持たなかった結果として、私は「あらすじ」さえ知らないままだ。
私は少しでも手がかりを得ようと、ポスターや広告の詳細を懸命に思い出そうとした。
タイトルは……「◯◯の物語」……だった。
この◯◯部分に何が入るのか……人の名前なのか、地名なのかは思い出せない。同僚の間では「ほら、あれあれ!」で話が通じる上に、会話に登場する際も、略して「あの本」「あの物語」と呼ばれていた。
……でも、さすがに略し過ぎじゃない?
そして、タイトルよりも目立っていたのが「シリーズ累計350万部突破!」という文言だ。あれ? ……ゼロがもっとあったかな? ……でも3500万部は多すぎよね?
う〜ん……綺麗なイラストだったし、壮大な景色が描かれていたみたいだから……ジャンルはファンタジーかな?
キャラクターが2人描かれていた気がする。……たぶん人間。……だって、エルフとかじゃなさそうだし……よく見てないけど……たしか男性か……あるいは女性……。
髪の色は……黒? ……いや、金だったかな。ううん、茶色……いいえ、アンドレアのような赤銅だった……!?
……。
……。
……あまりの「覚えてなさ」に言葉が出ない。
あれだけ通勤時に目にしていながら、実際には全く「見ていない」という事実……。
こうなったら家のカーテンの模様だって覚えているか怪しいものだ。「花の模様」だったことはわかっている。それなら、どんな花のデザインだった?
……。
毎日見ていた家のカーテンだって、ろくに覚えていない……!
……それでも……ポスターや広告に、例の“紋章”が描かれていたのだけは間違いない。その確信はあった。
あまりにもハッキリと思い出された“紋章の記憶”に、なぜ今まで思い出さなかったのかと不思議に思う。
ポスターでも広告でも、その小説のシンボルのように紋章は強調して描かれていた。「ぷっくりとした可愛らしい葉っぱ」を始め、その形を私はしっかりと覚えている。
覚えている理由はただ一つ。
その紋章が「可愛かった」からだ。
疲れていても、その小説に興味がなくても、「可愛い!」と心が動いたものだから記憶に残っていた。
この世界でも「元いた世界」でも、私がこの紋章に抱く感想は「可愛い」。
世界も外見も違えど、私の感性は変わらない。
(それにしても……これまで……あんなに思い出そうとして何一つ浮かばなかったのに、気のせいだと諦めた途端に思い出すわけ!?)
納得がいかないが、これが普通の思い出し方とは違うということに私は気がついていた。
雑踏に放り込まれた感覚は、まさしく通勤ラッシュの中にいる感覚に似ていて、それが引き金となって私は「どこで紋章を見たか」を思い出せたのだ。
雑踏の中にいるリアルな感覚は、自分でもたらしたものではない。私は、レンの“力”が思い出す手助けをしてくれたのではないかと感じていた。
彼の力が私を助けようとしてくれている。
そう思うと嬉しかった。
しかし、心がときめいた紋章以外について、私の記憶はかなり曖昧だ。
(どうせならタイトルやキャラクターのビジュアルも思い出させてくれれば良いのに……)
そう思ったところで、私はハッとして胸に手を当てた。
(ちょっと待って……。大切なことを忘れているわ。そもそも……どうして小説の広告に、この“紋章”が描かれているの?)
元いた世界の「小説の紋章」。
今、目の前にある「テーブルクロスの紋章」。
2つは全く同じものだ。
……まさか……まさか、この世界が「小説の中」だなんて言うつもり?
しばらく考え込んだ後、私は唇を噛み締めた。