紋章の記憶(1)
素早く扉を閉め、慎重にゆっくりと鍵をかける。
微かに出てしまったカチリという音を、セシルの大声が掻き消した。
2階から上がってきたばかりの人物に向かって、彼女が「遅い! 何をしていたの! 早くしろとあれほど……」と文句を言っているのが聞こえる。
私は扉に顔を寄せ、耳を澄まし続けた。
しばらくの間、セシルはまだ何かぶつぶつ言っていたが、やがて廊下をバタバタと走る足音が響き、部屋の外が静かになった。みんな揃ってどこかへ行ってしまったようで、人の気配も感じられない。
私はホッとして、ようやく自分が駆け込んだ部屋に意識を向けた。その途端に、安堵の溜息が漏れる。
(……この部屋を選んで正解だった!)
ふかふかの絨毯、なめらかな質感のソファ、がっしりとした立派なテーブル。そうしたものがあるのは、多くの部屋と変わらない。
だが、部屋の雰囲気は、他のどの部屋とも違っていた。
しん……と静まり返った中にも穏やかさが存在し、“護られた場所”のように神聖な空気を肌に感じる。窓から入ってくる陽射しはワインレッドのテーブルクロスを照らし、普通のテーブルもまるで祭壇のように見えた。
たった一つの扉の向こう側に、こんなにも静謐に満たされた空間が広がっているとは驚きだった。
頻繁に使用されてはいなさそうだが、隅々まで掃除が行き届いていて埃っぽくはない。大きな本棚にぎっしりと収められた厚みのある本は、磨かれているのかと思うくらいピカピカだった。
それに……この匂い!
もちろん臭いのではない。気持ちが落ち着く良い匂いで、私は高校時代によく過ごした図書室を思い出した。この部屋と共通するのは「本があること」くらいかもしれないが、匂いがどことなく似ている。
改築されたばかりで、とにかく空気も室内も全てが綺麗だった図書室。最新の設備が整えられ、広々としていて、天井近くまである大きな窓からは陽射しが降り注ぎ、真っ白な壁は輝いて……。
曇りや雨の日は、陽射しの代わりに柔らかな照明が部屋全体を明るく照らしてくれる。いつ訪れても“光を放っている”ように感じられて、私にとって癒しの場所だった。
(……あの図書室も、この世界には存在しないんだ……)
そう思い、私はセンチメンタルな気分になった。同時に、自分がとてつもなく不思議な状況にいることを改めて思い知る。
(まったく……随分と遠くまで来たものね……。距離どころか、時間や世界さえ越えてきたんだから……。こんなこと、普通では考えられないことなのよ? わかってるの?)
自分に語りかけながら、私はテーブルへと近づいた。
引き出しには鍵がかかっておらず、中には数冊の本と書類が入っていた。便箋とペンもあったが、アンドレアの手紙はない。
(まぁ……あるわけないよね……)
引き出しを閉めた私の視線は、自然とテーブルクロスに向かった。そこに金色の糸で描かれているのは“紋章”だ。
周りを額縁のような枠で囲まれ、その中は右上にひとつの輝く星が、そして右下から左上にかけて豊かに生い茂る草花が施され……。
それはスペンサー伯爵の部屋にあるタペストリーにも描かれ、私が『見覚えがある』と感じた、あの“紋章”だった。
その紋章を指先でなぞりながら、私は軽く微笑んだ。
結局、見覚えがある理由はわからないままだったが、紋章自体のことはレンから教えてもらって知っている。
これは「スペンサー家の紋章」というわけではなく、全ての貴族が共通して掲げる「貴族の紋章」だった。
初の貴族であるライザが作り、全ての貴族たちへ「理念として掲げてほしい」と与えたものだ。
右上の星は「闇の中でも輝き続ける光」を、豊かに生い茂る草花は「繁栄・豊かさ」を表している。
「光の下でこそ、豊かさは育まれる」。
それが、紋章に込められたメッセージだった。
この「光」が象徴するものとして、ライザはありとあらゆるものを挙げた。
愛、優しさ、思いやり……知性、敬意、気高さ、高潔さ……そして、考える力、真実を見抜く力。
実はこれだけではなく、まだまだたくさんある。
今後の貴族社会を気にかけていた彼女は、思いつく限りの大切なものを、この「光」に込めたのだった。
競争心に駆られる一部の貴族たちを、ライザが心配していたのは事実だろう。けれど、彼女はそうした人たちに、厳格な態度で説教したかったわけではないと私は思った。
そう感じる理由は、紋章の形にある。
真剣で重要なメッセージが込められているとはいえ、決して厳しくはない。草花の部分には「まるっとした花」や「ぷっくりとした草」という可愛らしいものも描かれていて、それこそ「フェアリーテール——おとぎ話——」に登場しそうなデザインだ。
ようするに、説教に使うには愛らしすぎるのだ。
ライザは堅苦しい教訓を与えたかったのではない。美しいものを用いて、ただ『大切なものを見失わないで』とみんなに言いたかったのだと思う。
そんなライザの気持ちを思うと切ないが、今では、この紋章は一種の「競争道具」に成り果ててしまっていた。
もちろん貴族の誰もが、屋敷内や馬車、あるいは身につけるものに紋章を施してはいる。しかし、純粋に理念として掲げているのは少数派で、多くの者は「紋章をどれだけ豪華にできるか」で競い合っていた。
どんな素材を使っているか、どれだけお金をかけているか、どれが最も人々の目を引くか、使われている宝石の大きさは? 金塊は使用しているのか? ……そんなことばかり。大抵の人たちにとって、紋章は「どちらが上か」を決めるのに利用するお飾りでしかなかった。
そうした人たちは、スペンサー伯爵が掲げる「上質な布に金色の糸」といったシンプルな紋章を全く相手にしない。だが、本来あるべき形で紋章を扱っているのは、間違いなくスペンサー伯爵の方だった。
(まぁ……そんな大層な紋章を、私が知っているはずもないのよね。見覚えがある気がするなんて、きっと気のせい……!)
私は気持ちを切り替えようと、本棚に駆け寄って一冊の本を手に取った。元いた世界では、仕事が忙しいあまり、もう長いこと本を読む気になれなかった。
しかし、さすが本好きの私。久しぶりに本に触れて、心は弾む。
私は再びテーブルに戻ったが、椅子には座らずに立ったまま本をパラパラめくった。
まとまらない考えを振り切り、本に集中しようとしたその時……急に、雑踏の中へ放り込まれたような感覚に全身を包まれた。
動揺して手からは力が抜け、落とした本はテーブルにぶつかりガタンッと大きな音を立てる。
その後、静まった部屋の中で、私の荒い息遣いだけが聞こえていた。




