侍女セシルの誤算
今もその不満を撒き散らすが如く、セシルが捲し立てている。まるで「不満も不満! 大不満よ!」と叫んでいるようで滑稽にも見えるが、実際にそれをぶつけられる側は「もうやめてほしい」というのが正直なところだろう。
セシルはストレスを発散しようと一人で喚いているわけではない。先ほどは気づかなかったが、こちらに背を向けた状態のセシルの前に、二人のメイドが佇んでいた。このメイドたちが今、彼女の八つ当たりのターゲットだった。
セシルは、機嫌が悪いと周囲に当り散らすタイプだ。
この屋敷で働く人たちは、そんな彼女にもう慣れっこだった。失礼な態度にもいちいち腹を立てず、八つ当たりは常に『聞き流す』ことで乗り切っている。
セシルについて彼らが耐えられないものがあるとすれば、それはアンドレアに対する無礼な言動だった。
ここのところ、セシルが他の使用人たちに対し「いちゃもんをつける」頻度が高くなっている。アメリア曰く、「毎日、セシルは誰かに喧嘩を売っている」状態らしい。幸いなことに「売られた喧嘩」を買う者は誰もいなかった。
セシルの様子は、それだけ彼女が不満を抱え込んでいることの表れだった。別の言い方をするなら、「エレノアの変化に大打撃を受けた表れ」ともいえる。
これまで伯爵夫人の庇護があるおかげで、セシルはかなりの好き勝手が許されてきた。アンドレアに無礼な態度を取れたくらいなのだから、よほどのものだ。当然、セシルには「自分は特別だ」という思いがある。
エレノアに認められた“忠実な侍女”。
しかし、そのセシルも、今では「状況が変わった」と認めざるを得ないのだろう。
エレノアはアンドレアを“教育”するどころか会うこともせず、自室に籠もりがちになった。その上、身支度等の必要時以外は、侍女を近寄らせることもないという。
“忠実な侍女”の出番は少なく、エレノアが大人しくなればなるほど、それに応じてセシルの勢いも衰える。
これはセシルにとって危機的状況だった。
アンドレアとローレンスの婚約を知って、いったいセシルが何を喜んだか……もちろん「婚約」自体を喜んでくれたわけではない。彼女は「公爵令息との婚約式に向けて、これまで以上にアンドレアに厳しく当たれる」という期待に、胸を膨らませていたのだ。
アメリアから切々と“セシルの所業”を聞かされた私には、セシルが何をしたかったかが容易に想像できた。
エレノアの前で大袈裟に声を上げ、嫌味ったらしく喋るセシルの姿が目に浮かぶ。
「まぁぁぁっ! なんていうことでしょう。まさかお嬢さまは、今のままで良いとお思いなのですか? はっきり申し上げますが、お嬢さまには足りないものがたくさんございます。そうですわよね、奥さま! ええ、ええ、そうですとも……。ローレンスさまが心変わりをされないように、ここはしっかりと準備しなければなりませんわ」
「もちろんですわっ! 奥さまの仰る通り、今のままではいけません。お嬢さまには、婚約式を迎えるまでに“それなりのもの”を身につけていただかなければ……」
そうやってエレノアと結託し、「ああしろ」「こうしろ」とアンドレアを厳しく“教育”する。
それがセシルが思い浮かべていた“楽しい未来図”だ。
だが、その目論見は、エレノアが変わったことであっという間に崩れ去った。
「公爵令息との結婚を成功させるため」という大義名分の下、アンドレアを“いじめる”ことができると思っていたセシルにとって、エレノアの変化は大きな誤算だったに違いない。
「セシルは、エレノアさまが“大人しく”していらっしゃるので物足りないのです。まさに欲求不満といった感じで……。その苛立ちをお嬢さまにまで向けるかもしれませんから、お部屋を出る際は気をつけてくださいね。エレノアさまがあの状態ですから、セシルが自分から率先して近づいてくることはないでしょう。ですが、うっかり顔を合わせることのないように、こちらも意識した方が安心ですわ」
……そうアメリアが言っていたのを思い出しながら、私は心の中で呟いた。
(完全に油断した……)
最初のうちこそ警戒していたものの、これまでセシルに会う気配を全く感じなかったことで私は気を緩めていた。
「こんなに屋敷は広いんだから、会う確率は高くないわ」と思うようになった上に、「セシルは休憩室と厨房に入り浸っている」というメイドたちの話を耳にしたことで更に気が緩んだ。それはもう、アンドレアの手紙を探して回る際にも気に留めないほどに……。
(メイドさんたちも、こんなところでセシルに会うなんてびっくりよね。まさかとは思うけど……八つ当たりする相手を探して3階にまで来たわけじゃないわよね……?)
今は後ろ姿しか見えないが、久しぶりに目にするセシルは確かにピリピリとした雰囲気だ。
それでも彼女がこちらへ背を向けていることへの安心からか、私は思った以上に物陰から顔を覗かせていたらしい。ふっとセシルから目を逸らしたメイドの一人が、私に気づいて軽く目を見開いた。
彼女の名前は……そう、ナディアだ。
セシルがもう一人のメイドに注意を向けている隙に、ナディアは懸命に視線と身振りでこう言った。
『お嬢さま、早くここから離れてください!』
守ろうとしてくれる彼女に、じんと胸が温かくなる。
私はナディアに身振りでお礼を伝え、そっと2階に戻ろうとした。しかし階段を一歩降りたところで、私とは逆に2階から上がってくる人の足音が聞こえてきた。
それが誰にしろ、この後の展開は予想がつく。
きっと私の姿を見た途端に、彼——又は彼女——は笑顔で声をかけてくるはず……。
普段であれば嬉しいし、もちろん私も笑顔を返すが、今の状況ではマズい……。声をかけられた時点で、私がここにいるとセシルに気づかれてしまう。
私は2階に行くのを諦め、サッと踵を返した。
3階に戻った私の視線が、逃げ道を探して周囲を彷徨う。だが、迷っている暇はない。
私は目に留まった一番近い部屋へ、足音を忍ばせながら一目散に駆け込んだ——。




