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タペストリー

 伯爵は期待と不安が入り混じった表情で、私が何か言うのを待っている。


 「私」の答えなら簡単だ。考えるまでもない。

 既に「そんな人と婚約なんて、できるわけないでしょう!」と、体は全身の毛が逆立つような拒否反応を示していたし、この不愉快極まりない未来を避けろと心が叫んでいた。


 だが、それに抗ったのも私の心——生真面目で、間違いを犯すことをひどく恐れる部分——だった。

 その声は冷静に私を諭した。

「一度受け入れると言ったのに撤回するの? それは無責任というものじゃないの? 婚約を拒否したら……本当に伯爵はその決断を喜んでくれるの? この状況を理解できてもいないのに、アンドレアの決断を勝手に変えてしまうなんて危険よ……」


 幸いと言うべきなのか、その声はそれ以上の言葉を続けられなかった。

 私が葛藤の渦に巻き込まれてから、ほんの少しの時間しか経っていない。だが、エレノアはそのわずかな時間さえ娘に与えることを良しとしなかった。

 彼女は、夫と娘のやり取りを断ち切るように口を挟んだ。


「……いいも何も、ローレンスさまへのお返事ならとっくに差し上げましてよ」


 部屋の中がシン……と静まりかえり、息遣いさえも聞こえない。

 私たち3人が物分かりの悪い人間のように、エレノアは苛立ちを隠そうともせず続けた。


「アンドレアが受け入れると言ったのです。彼女の応えをすぐにローレンスさまにお伝えするのが、礼儀というものでしょう。公爵家をお待たせするなんて……そんな真似はできませんわ! 手紙はローレンスさまから直々のものであっても、結婚の申し込みは『アスター家からの申し出』そのものなのよ! ジェームズ……」


 そう言ってエレノアは伯爵を見つめた。彼女は怒りを滲ませている夫の目にも怯まず、挑むように畳みかける。


「あなたまさか……本当に……この申し出を断れるとお思いなの?」


 伯爵が口を開いたが、エレノアはそれを遮った。


「……えぇ、えぇ、わかっているわ。あなたはアンドレアのためなら、そうなさるおつもりでしょう。でも、あの名家に楯突いたら、どうなるか……! そんなことも想像できないとは言わせませんわ。いいですか! これはローレンスさまとアンドレア個人の問題ではないの! 公爵家と、わたくしたち伯爵家の問題です!」


 伯爵の苦渋に満ちた表情から、エレノアの言ったことは真実なのだとわかった。

 さっきは葛藤していたくせに、断る選択肢がないとわかった途端に、私の中には、この婚約を受け入れてなるものかという気持ちが強烈に芽生えていた。


 伯爵は深い溜息をつき、ゆっくりと口を開いた。


「私にもそれはわかっている……。だからこそ、妙だとも思うのだ。娘が公爵家のご子息と結婚することで、我々が得るものは非常に大きい。しかし、彼らは何を得る? 国の半分は彼らの領地……それをほんの少し拡大するなど、そんな小さなことを望んでいるとは考えられん。……アスター家の有する財産は莫大なものだ。その点でも我々から何か得たいものがあるとも思えないだろう? 我々伯爵家とつながることで、彼らにどんなメリットがある?」


「ローレンスさまは、アンドレアを手に入れますわ」


 そう言ったエレノアの淡々とした声に、私は体が震えた。

 怒りからではない。むしろ怒りを感じられた方がマシだったかもしれない。私は自分が物のように扱われていることに激しいショックを受けていた。同時に、自分の未来が誰かの手中に収められてしまうという無力感を覚えてもいた。

 この婚約はアンドレアの問題だ。だが今、彼女として存在しているのが「私」である以上、これは私自身の問題でもある。アンドレアと私は運命を共にしているのだ。


「財産、領地、権力……彼はその全てを既にお持ちですから、結婚でそれを手に入れる必要などないわ。ローレンスさまがご結婚される理由はただひとつ、愛ですわ」


 はっ! 愛ねっ!

 エレノアの言葉に、私は心の中で嘲笑しながら呟いた。


「ローレンスさまはアンドレアを、わたくしたちは公爵家との深いつながりを手に入れ……そして、アンドレアはいずれ公爵夫人になるのです」

「納得がいかん! ローレンス殿とアンドレアは会ったことさえないというのに……」


 イライラとした様子を見せ始めた伯爵に、エレノアは眉を吊り上げた。


「なぜそんなことがわかるのです⁉︎ アンドレアがハッキリしたことを言わないから、あなたはそうやって疑念ばかり抱くのでしょう。大方、娘が婚約を拒否するものと思っていたのに承諾したから、焦っていらっしゃるのよ」


 エレノアの指摘は鋭かった。痛いところを突かれて伯爵は言葉に詰まり、厳しい顔をして黙り込んでしまう。


「確かにローレンスさまは、社交の場にほとんど顔を見せない方です。ですが、皆無というわけではないわ! アンドレアが気づいていないだけで、舞踏会や夜会で彼に見初められた可能性は充分考えられます。ローレンスさまがどれだけ多忙な方だろうと、いずれは結婚しなければならない身……望む条件に合う良家の娘を、彼だけではなく彼の周りの方たちも探していたはずですわ。その中の誰かが、アンドレアのことを見つけたのかもしれません」


 エレノアの話はまだまだ終わらなかった。

 彼女はこのアスター公爵家がいかに素晴らしく、どれだけの財産と権力を持っているかを熱心に語り続けた。まるで、自分が既にその公爵家の一員であるかのように……。

 私はエレノアの表情を見て悟った。

 申し出など形だけ。アンドレアがたとえ拒否したとしても、最初からこの婚約は決まったも同然だったのだ。


 エレノアの話が公爵家と王族のつながりにまで及んだ頃には、もう彼女の顔を見ていられなくなった。私は彼女から視線をそらした。


 この部屋を出て行くことも叶わない。当てもなく不安げにさまよった視線は、しばらくして、伯爵の背後にあるタペストリーでとまった。


 あれは……なに……?


 奇妙な感覚が体を突き抜けた。

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