「ある」もの、「ない」もの
「お嬢さま……最近、笑顔でいらっしゃることが増えましたね」
紅茶を飲む私を見つめながら、アメリアがしみじみと言った。それに応えるように、私は紅茶の入ったカップをゆっくり置いて微笑んで見せる。
アメリアは顔をほころばせると、幸せそうな様子でテーブルの上を整え始めた。彼女の手つきは優雅で、パッパッと素早く物を動かしても大きな音はしない。
この世界に来て2週間が過ぎた。
ようやく“アンドレアの日常”にも馴染んできて、私には気持ちの余裕が生まれ、大分どっしり構えられるようになった。
今は、日課のティータイム。
アメリアは毎日、私が部屋にいるのを見計らって美味しい紅茶とスイーツを用意してくれる。
山盛りクッキーも食べる枚数は自分で決められるし、ケーキ類もミニサイズ。こうしたところが、健康面や体型維持に配慮されている気がする。
アンドレアはきっと甘いもの好きだろう。
本日のスイーツは、丸型のバニラクッキー。
昨日はパウンドケーキ、一昨日はチョコタルト、その前はまさかのシュークリームで——そう、この世界にもある——、さらにその前はプリン……と、スイーツの種類も非常に豊富だ。
「この世界にもある」もの、「この世界にはない」もの。
そうしたものが、少しずつわかってくる。
スイーツなら、シュークリームは「この世界にもある」が、エクレアは「この世界にはない」。モンブランはあるがチーズケーキはなく、ドーナツはあってもマドレーヌはない。
一人称なら、「私」「わたくし」「僕」のいずれかが普通で、「俺」はない。つまり、この世界では自分のことを「俺」と言う人がいないのだ。
稀に「余」を使う人はいる。
他にも、「この世界にもある」が、私の世界とは微妙に違うものもある。
私のいた世界では、一般的に目上の人から目下の人に使うとされる「殿」。これが、この世界では「さま(様)」と同様に目上・目下の関係なく使われている。
「さま」を使うか「殿」を使うかは、完全にその人の好みによる。ただ、私の印象では、女性はあまり「殿」とは口にしないようだった。
スペンサー伯爵の屋敷には多くの人々が訪れ、私は状況が許す限り、陰から彼らの話に耳を澄ました。この世界を知る上では、彼らの会話もためになるというもの。
ちなみに、聞くだろうと予想していた「閣下」や「卿」という言葉は、いまだに耳にしていない。もしかしたら、「この世界にはない」表現なのかもしれない……。
私のいた世界と通じるところもあるが、全く違う世界。
ついつい「私は知っている」という目線で見てしまうものの、本当は知らないことの方が格段に多い。
私は心身をリラックスさせようと、小さな溜息をついた。
あの美しい森から帰った後……レンはスペンサー伯爵と長い話し合いに入った。それからというもの、この二人は毎日、共に過ごす時間を設けている。
しかも、頻繁にだ。
深刻な表情のスペンサー伯爵や、時々話し合いに参加する彼の秘書たち。蚊帳の外状態の私は寂しくもあるが、『彼らの話し合い』を尊重すべきとはわかっている。
それに、忙しい中でも、レンは時間を見つけて私の様子を見に来てくれた。たとえ一緒に過ごせなくても、常に気にかけてくれる彼の想いは私を幸せな気持ちにさせる。
私とアンドレアの身に起こった件の真相も、馬鹿らしい噂の理由も、いまだに解明されてはいない。
それでも私に笑顔が増えたのは、絶対的な安心感を与えてくれるレンの存在があるからだった。
温かさと安心を感じ、再び微笑みを浮かべた私の目が、不意にハート型のクッキーを捉えた。
お月さまのような丸いクッキーが溢れるお皿の中に、一枚だけハート型のクッキーが紛れていたのだ。
私の世界のお菓子にもたまにある、レアなアイテムのように思えた。
もしかして、見つけたらラッキーってこと?
そう思いながら、私は「見つけたよ!」と言わんばかりに喜びの声を上げた。
「ハート!」
すると、アメリアが不思議そうな顔で振り向いた。
「……はあと? それはいったい何でしょ……まぁ! 形が崩れたものがあったのですね! 失礼いたしました! どうぞ、それをこちらに……」
形が……崩れた!?
「いいえ、大丈夫よ! 私が食べるっ……!」
私はアメリアに取り上げられる前に、そのかわいらしいハート型クッキーを急いで口に放り込んだ。
まさか“ハート”がないなんて……。
(ほらね、「ハートマークはある」と思い込んでいたのが間違い。この世界に「ある」もの、「ない」ものを網羅するには、やっぱり2週間では足りないわ……)
クッキーを噛みながら、私はそう心の中で呟いた。
♦︎♦︎♦︎
「ない」ものといえば……。
私には、探しても見つから「ない」ものがある。
それは手紙だ。
アンドレアはレンやルーベンと手紙をやり取りしていたのだから、その手紙がどこかにあるはずだった。
手紙を読めば、アンドレアたちの関係性を理解するのに役立つだろう。もし、手紙の他に日記もあったら? 私はそこからアンドレアのことを知ることができる!
プライバシーを覗くのは気が咎めるが、私にとんちんかんな振る舞いをされるよりは、アンドレアも自分のことを知ってほしいと望むかもしれない。
しかし、日記はおろか一通の手紙さえ、アンドレアの部屋からは見つけることができなかった。
鍵付きの引き出しがあるとはいえ、彼女の部屋には毎日たくさんの使用人たちが入ってくる。いくら信用できる人が多くても、自室は大切な手紙や日記を置いておくのに適した場所ではないのだろう。
……ということは、この屋敷のどこかに、アンドレアの秘密の隠し場所があるのでは?
そう考えた私は、毎日屋敷中を探し回っていた。
実際に見つけられる可能性は低い。しかし、この“探検”で屋敷の中を詳しく知ることができるし、屋敷で働く人々のことをもっと知るきっかけにもなる。
私にとっては、“アンドレアのティータイム”同様に、これも大切な日課だった。
今日は3階の部屋をいくつか調べる予定だ。
階段を上がり奥の部屋へ向かおうとしていた私は、視線の先にある人物の姿を見つけた。
考えるまでもなく、体が瞬時に動く。
音を立てないよう、気配を察知されないよう、私は最大限に気を配りながら、大急ぎで物陰に身を隠した。




