忠誠
「あ……」
ルーベンが小さな声を発した。
皆の注目を浴びる中、ヒョロリとした細身の男性が転がるように勢いよく走ってくる。黒い髪——わずかに白髪交じり——は方々に跳ねまくり、彼があちこち駆けずり回っていた様子を窺わせた。
その男性は私たちの前までやって来ると、上品な仕草で深々とお辞儀をした。それから姿勢を正し、意外にも落ち着いた声で言った。
「皆さま、お久しぶりでございます。レンさま、本日もなんと麗しい……。アンドレアさま、今日もまたお美しいですな。アネットさん、貴女はいつも溌剌としていらっしゃる。大変素晴らしいことです」
男性が言い終わるのを見計らい、ルーベンはキラキラと輝くような笑顔を浮かべて口を開いた。眩しいほどの爽やかさを放っている。
「やぁ、ケヴィン」
すると落ち着いた様子から一転、ケヴィンはルーベンを見据えて語気を強めた。
「『やぁ、ケヴィン(キラキラ)』では、ございません! 森に到着して早々、振り返ればお姿は見えず……いったいどこへ行かれたのかと……。ずっと貴方を探し回っていたのですよ! 『1時間』! この森への滞在は1時間だけと約束したのですから、それこそ……」
「いや、だからこそ1秒も無駄にはできないと、大急ぎでアンドレアを探しに行ったんだよ! そうして正解だったんだ。真っ先に向かった図書館では会えず、彼女を見つけるまで時間がかかったんだから……。慌てていて君に声をかけ忘れたのは申し訳なかったけれど、1時間という約束を守ろうとしてのことなんだ……わかってくれるだろう?」
「ええ……それは……事情は理解しております……。申し上げにくいのですが……まさにその1時間が経とうとしているのですよ、ルーベンさま」
ケヴィンはそう言ってから、私たちに目を向けた。
やや青白い顔に神経質そうな顔つきだが、瞳は実直で温かみがある。ルーベンを気にかけているのが伝わってきて、私は彼に好感を抱いた。
「久しぶりの再会のところ、皆さまには大変申し訳ないのですが……ルーベンさまはすぐに屋敷へ戻らなくてはなりません。本来は北の領地から真っ直ぐ屋敷へ向かうはずだったのですが、ルーベンさまに懇願されて此処へ立ち寄った次第でして……」
「アンドレアに会って、イヴォンヌの件を早く報告したかったんだ。今の時間ならきっと会えると思ったから……どうしてもこの森に来たかった。1時間も貰えるなら充分だと思っていたけれど、今となっては去りがたいな……。せっかくみんなに会えたのに……」
ルーベンは努めて笑顔を保とうとしていたが、話しながら表情は曇っていく。それを見て、ケヴィンは心を痛めたようだった。
だが葛藤するように眉間に皺を寄せながらも、彼は控えめな声でルーベンを諭した。
「……お気持ちはわかりますが、此処に留まるわけにはいかないのです。これ以上、屋敷に戻るのが遅れれば、旦那さまと奥さまから要らぬ叱責を受ける羽目になります」
「べつに父たちには言わせておけば良いさ。小言を言われるのには慣れているよ」
ルーベンの言葉にケヴィンは目をカッと見開き、悲鳴じみた声を上げた。
「じ、冗談じゃございません! 私にその光景を見ていろと言うのですか!? それがどれほど苦痛なことか! あの方たちが言うのは小言なんてものではなく、非常に意地の悪い嫌味ではないですか! 本当に些細なことへ、大げさに文句を……」
その先を、ケヴィンは歯を食いしばるようにして続けた。
「できることなら、旦那さまにハッキリと申し上げたい。ルーベンさまへの文句など、いったいどの口が言えるのかと……! 自らが任された土地をろくに管理もできず、結局は全てを息子であるルーベンさまに丸投げしておいて……。旦那さまも奥さまも、貴方を支える気さえないではありませんか! 『ルーベンさまに感謝こそすれ、文句を言う資格などお前たちにはない』と、どれだけ言ってやりたいことか……」
もはや『申し上げたい』が『言ってやりたい』へと、ヒートアップしている。
なかなか言うなぁ……と思いながらも、これがケヴィンの正直な気持ちで、ルーベンの両親の実態を表しているのは感覚でわかった。私はレンが言っていた『ジェームズの弟夫婦には気をつけてもらわねばならないな……』という言葉を思い出していた。
何がきっかけか、ケヴィンは急に冷静さを取り戻し、澄ました表情になった。昂る感情を抑えるように、ゆっくりと低い声で彼は話し続ける。
「……と、旦那さまたちへ申し上げたいことはございますが、いかんせん私は旦那さまの秘書という立場です。実際はルーベンさまの秘書として動いているというのに……! どれだけ不服でも、不満でも、納得がいかなくても、受け入れ難くとも、拒否反応がでようとも……契約上は旦那さまが私の主なのです。それが現実です。つまり、私は旦那さまに楯突くことができません。そんなことをすれば、あっという間に私は屋敷を追い出されてしまうでしょう。それは絶対に困ります! ルーベンさまをお支えできなくなってしまう事態は、なんとしても避けたいのです。どうか私の立場もご理解ください。ルーベンさま、私が忠誠を誓う相手は旦那さまではなく貴方です。そして、ルーベンさまを叱責するような隙、場面、口実を旦那さまたちに与えないのも私の務めなのです。ですから今回も、ルーベンさまには『直ちに屋敷に戻って報告しろ』という旦那さまの指示に従っていただく必要がございます。それを守りつつ捻出できるのが、『1時間』なのです」
ルーベンは何も言わずに話を聞いていたが、ケヴィンの気持ちをとっくに理解しているように感じられた。
色々と頭ではわかっていても、此処で過ごす心地良さを前にして「屋敷に戻る」というのは辛い選択だ。
成り行きを見守っていたレンが、ここで動いた。




