『これ以上は話さない』
抱いた疑問は全て解消しておきたいと言いたげに、ルーベンは真剣な表情でレンに尋ねた。
「つまり……どうしてアンドレアが、急にイヴォンヌの標的になったのかってことだよ。だって、同じ場に居合わせたことなら何度もあるのに、例の夜会以外では何もされなかったって言うじゃないか……。いったい何が違うんだろう? やっぱり『人の目』かな……?」
人の目……。
その言葉が妙に引っかかった。関連する『何か』を知っている気がして、私は記憶の中を探る。
次の瞬間、不意に侍女アメリアの声が頭の中に浮かんだ。昨日、アメリアが“愛しの坊や”の話を打ち明けてくれた時……話の流れで彼女はこう言っていた。
“どれだけ取り繕っても、どこかで素の顔は見えるものです。お嬢さまのお側にいただけで、私はあのイヴォンヌ嬢の裏の顔さえ見ているのですよ。あのご令嬢にとって、私は見えもしない……いないも同然の存在ですから、そもそも隠す気さえなかったようですが……”
思い出した内容に、私は「あ!」と叫びそうになった。
(そうだ……! イヴォンヌの話を聞くのは、アネットの口からが初めてじゃなかったんだ。アメリアも言っていたのに、どうしてすぐにピンとこなかったんだろう……!)
“愛しの坊や”に気を取られていた私は、「イヴォンヌ」の名前などすっかり忘れていた。だが昨日から既に、この意地悪令嬢の存在はきちんと仄めかされていたのだった。
(知れば知るほど、タチの悪いご令嬢ね……)
私は不快な感情を抱いて、むっと黙り込んだ。
人の目があるかないかで言動を変えるあたり信用ならないが、この「人の目」というのがまた曲者だった。
イヴォンヌにとっての「人の目」とは、スペンサー伯爵やレンのように、イヴォンヌが自分よりも『格上』だと認めた者。あるいは、善い顔を見せた方が得だと判断した相手のことだ。
アメリアのような使用人や、イヴォンヌに歯向かえないような令嬢たちは「人の目」に当たらない。イヴォンヌは、彼女たちのことを人として見ていないのだ。
ふつふつと苛立ちが湧き上がる。
さらにそこに加わったのは、私が抱えていた鬱憤だった。この世界にいきなり放り込まれた理不尽さ、元いた世界で味わっていた「上手くいかない人生」への不満……。
イヴォンヌとは関係がない鬱憤によって、私の怒りはどんどん膨れ上がった。感情が昂り、まるでマグマのように煮えたぎっている。
もはやイヴォンヌに対する腹立たしさだけではない。彼女のことをきっかけに、私自身が抱える苛立ちが噴出していた。
それがわかっていても、イライラするあまり何か一言でも言ってやらないと気が済まない状態だった。
都合の良いことに、怒りをぶつける相手としてうってつけの人物——イヴォンヌ——がいる。
イヴォンヌを批判する理由には事欠かない。
心優しいアンドレアに酷い言葉を吐き、アネットの友人の息子さんを酷い目にあわせ、“心優しい令嬢”を装いながら身分の低い者を容赦なく見下す。
相手が貴族でなければ会話もしようとしないなんて、いったい何様のつもりなんだろう!
(……イヴォンヌを非難する準備は万端よ。正論で簡単に叩きのめせるくらいだわ。的確な言葉で思う存分、こき下ろしてやる。アンドレアは実際に酷いことを言われたの。今ここで私がイヴォンヌを非難したって、それは正当化されるでしょう?)
私は意気揚々——これから言おうとしている内容から考えると不思議な心境だが——と口を開いたが、それを合図にしたかのようにレンがすかさず言った。
「さぁ、ここらへんでイヴォンヌ嬢の話はやめておこう」
柔らかな口調だが、非常に厳かな声だった。彼の優しい目には、揺らぐことのない不動の芯が見える。
私は肩透かしを食らったような気分だった。
レンの視線はルーベンに向いているが、確実に「私が今から言おうとしていたこと」に気づいている気がした。
(私が言おうとしたのは悪口じゃないわ。ただイヴォンヌの酷い言動をきっちり非難したかっただけよ……)
弁解するように心の中で呟くものの、これから自分が口にしようとしていた辛辣な言葉を思うと、なんとなく居心地は悪い。おまけに、憂さ晴らしや八つ当たりをしたい気持ちがあったのも事実だ。
私は恥ずかしさから、頬が赤くなるのを感じた。
レンはルーベンに向かって優しく言った。
「確かにイヴォンヌ嬢を語る上で、『人の目』というのは重要な点になる。いつも舞踏会では私がアンドレアに付き添い、夜会や茶会ではジェームズがアンドレアを見守っていた。だが例の夜会では、そんな私たちの目が届かない時間が生じてしまった。それがイヴォンヌ嬢に絶好の機会を与えてしまったのは事実だろう……。だが、それが全てではない。様々な要因が重なっているんだよ。イヴォンヌ嬢のことを分析しようとするなら、いくらでも出来るだろう。彼女のことについて議論しようとするなら、いつまでだって出来るだろう。だが、それは賢明なこととは言えないな。今後の対処については、私たちの間で話はまとまっているだろう? これ以上、イヴォンヌ嬢に関心を向けるべきではない。時間もエネルギーも、“愛するもの”のために使いなさい。今、君はこの森にいて、目の前にはアンドレアとアネットがいる……」
「もちろん貴方もね、レン」
すかさずルーベンが付け加えると、レンはそれに応えるように微笑んだ。その麗しい微笑を目にして、アネットの頬がパッと赤くなる。
レンの微笑みは特別だった。
もし“優しさ”そのものが微笑んだとしたら、こういう微笑みになるだろう。そう感じるような優しい微笑みだ。
「この時間を大切に過ごそう。景色の美しさや、愛する人たちと再会した喜びに関心を向けるんだよ」
そう言ってレンがにっこりすると、この場の空気がパッと変わったように感じられた。
(……。あれ? 私、何を言おうとしていたんだっけ……?)
今、私の全意識はレンの微笑みに向けられていた。
面白いことに、先ほどまで渦巻いていた苛立ちが消えている。イヴォンヌに対する執着めいた思考も浮かばず、自分の不満もどこかにいってしまった感覚だ。
なぜ、あれほど攻撃的な気持ちになっていたのか……不思議に思った。冷静さを取り戻した私は、イヴォンヌを非難しなくて良かったと心底ホッとしていた。
顔を歪ませて辛辣な言葉を喚き散らすなんて、想像しただけでゾッとする。もう少しで、アンドレアのイメージまで壊すところだった……。
この貴重な時間をイヴォンヌの話題に費やしたくない。素直に、シンプルに、そう思えた。
彼女について『これ以上は話さない!』と決めると、その途端に私は気が楽になった。こんな簡単なことで、苛立ちが握っていた手綱を完全に取り返したのだ。
ルーベンとアネットを見ると、2人とも我に返ったようにスッキリとした表情をしている。レンが言ったことの意味を理解し、納得している様子だった。
和やかな雰囲気に包まれ、私たちは顔を見合わせて笑顔を浮かべた。何か楽しい会話が始まりそうな感じがする。
しかし、そんな中へ突如飛び込んできたのは、切羽詰まったような男性の声だった。
「ルーベンさまー!!!」




