正体不明の貴族たち
レンがスペンサー家に滞在すると聞いて、ルーベンは嬉しそうだった。同時に、安心しているようにも見える。
そんな彼の気持ちを代弁するかのように、アネットがしみじみと言った。
「アンドレアさまと過ごされると伺って、とても嬉しく思いますわ。……レンさまはお忙しく、この森へはなかなかいらっしゃられませんので、しばらくお見かけしないのは普通のこと……。ですが、まさかアンドレアさまとお会いすることもできないご状況だったとは……。この半年間、ずっと離れて過ごされていたのですね……。こうして今、ルーベンさまも北の領地からお戻りになり、レンさまとアンドレアさまも再会されて、大変喜ばしいことです!」
レンは「私も嬉しいよ」と言って微笑んだが、なぜかアネットは急に申し訳なさそうな表情になった。
「レンさま……『次にいらした時はもう大丈夫です』なんて自信満々でお伝えしていたのに、結局は大勢に囲まれる羽目になってしまい、申し訳ございません。アンドレアさまにまでご迷惑がかかってしまいましたわ。皆にはきちんと注意していたのですが……」
レンは穏やかな表情のまま、アネットの言葉を優しく遮った。
「気にしなくて良い。最初は興奮気味だった彼らも、すぐに落ち着きを取り戻したよ。そして、互いに譲り合いながら順番に話してくれた。皆、礼儀正しい振る舞いをしてくれたのだから大丈夫だ。……それより……私が不在の間に何か変わったことはあったかい?」
その問いかけは、半年ぶりに訪れたレンがするには自然なものだった。だが私には、彼が『アンドレアに関する何か』がないかどうかを探っているように感じられる。
アネットは考えながら、ゆっくりと話し始めた。
「変わったこと……ですか? ……いいえ、特には……。皆、いつも通り楽しく働いていましたし……。これもまたいつものことですが、此処を初めて訪れる方もたくさんいらっしゃいましたわ。その中には、貴族と思われる方々もちらほらと……。もちろん詮索はいたしませんが、やはり身なりや雰囲気からわかってしまうものですから……。皆さま、この森の噂を聞きつけ、安らぎを求めて此処までいらっしゃるのでしょう。そういえば……印象に残っている方が……」
アネットは当時のことを思い出すように視線を上げた。
「実はわたくしの店で、あるお嬢さまが急に泣き出してしまわれたのです。心配して声をかけましたら、その方は『安心して気が緩んだだけ』だと……。隣にいらしたお母さまが話してくださったのですが、お嬢さまに『良家との結婚』を求める父親から、毎日相当な圧力を受けているようで……。長い間、そのお嬢さまは気が張り詰めた状態だったのですね……」
「泣き出すなんて、よほどだね……。いったい、どこのご令嬢だろう?」
ルーベンが尋ねると、アネットは首を横に振った。
「残念ながら存じません。彼女たちは名前を言いたがらなかったのです。此処に来たことを、誰にも知られたくないようでした。かなり遠方からいらっしゃった様子でしたけれど……」
「正体不明ってことか……」
ルーベンが言うと、アネットは困ったように小さく微笑んだ。
「正体不明……。そのような方は、たくさんいらっしゃいますわ。此処に初めて来られた方はもちろん、通い始めてまだ日が浅い方も、基本的に名乗りたがりませんもの。この森は安心できる場所だと話には聞いていても、やはり警戒してしまうのでしょう。ルーベンさまも、そのお気持ちはおわかりになるのでは?」
ルーベンはしばらく黙り込んだ後、落ち着いた声で答えた。
「そうだね……。こちらが貴族であると知った途端に、目の色を変える人たちがいる。ほんの一瞬で、その人の目に『利用してやりたい』という欲や策略が浮かぶのがわかるんだ。あれはとても嫌な気分だよ。もちろん、この森にいる人たちはそんな反応はしない。相手が貴族だろうが、ただ純粋に『会えて嬉しい』と言ってくれるような人たちばかりだ。でも、此処のことをよく知らない人には、それがわからない。どうしても不安を感じてしまうんだろうね。名乗らないことで、自分を守ろうとしているんだ」
「貴族の方々にとって、この森は“避難所”ですわ。魂胆を持つ者から狙われることもなく、駆け引きに巻き込まれることもなく、詮索されることもない。安心して過ごせる時間を求めて、此処にいらっしゃるのです。そのような場所で働くわたくしたちには、むやみに名前を聞き出すような真似はできません。ご本人が自ら名乗ってくださるまで、ただお待ちするだけですわ。それに、名乗りたくなければ、それでも別に良いのです。まぁ……大抵は何度かいらっしゃるうちに大丈夫だと確信されて、身分を明かしてくださいますが。とにかく此処で大切なのは、身分なんて関係なく、誰もが安心して時間を過ごせることですわ」
アネットとルーベンのやり取りを、レンは静かに聞いていた。人々に想いを馳せているように見える彼は、優しく穏やかな表情をしていて、そこに心配は浮かんでいない。
アネットが力強く言った。
「お名前はわかりませんが……その泣き出してしまったお嬢さま……彼女も元気を取り戻されたのですよ! お食事をたくさん召し上がられて、店に来た人たちとも楽しそうに会話をされて……。お帰りの際には、まるで別人のように明るい顔つきになっていましたわ。痩せようと、ずっと無理な食事制限までされていたらしく、『それも良くなかった』と彼女は呟いていました。1日に野菜スープとクッキー5枚……だけだなんて、それは身体が持ちませんわよ。彼女は皆の前で『これからは自分を大切にして、きちんと食事を取る!』と宣言され、またこの森に来たいとも言ってくださいましたわ」
その時の彼女の様子を思い浮かべているのか、アネットが嬉しそうに笑う。ルーベンはそんなアネットを優しく見つめていたが、急に真面目な顔になって言った。
「そのお嬢さまの件は良かったけれど……。レンの気がかりの方はどうだったの? ほら、アンドレアからの手紙の頻度が減って、文字にも違和感がって……」
私は衝撃を受けたように固まって、慌ててレンに視線を向けた。




