婚約
後ろを振り向くと、アメリアの姿はない。彼女は部屋に残らず、すぐに出て行ってしまっていた。
私も逃げ出したい……。
まるで、台本も読んでいないのに、本番の舞台に放り出されてしまったような心境だ。
どう動けば良いのか、台詞もわからず、演じる役柄さえ知らないのに、観客がまだかまだかと展開を待ちわびている。
舞台となるこの部屋にいるのは、私とレンと……。
部屋にはどっしりとした大きなテーブルが置かれ、この屋敷の主の為に用意されたビロードの椅子に一人の男性が腰かけていた。
白髪混じりの焦茶色の髪、思慮深い黒い瞳、そして、がっしりとした体格。威厳のある風貌だが、その穏やかな眼差しは、私を見ると一層優しさを帯びる。
私たちを待っていたのがこの人だけなら、安心できたのに……。事実を話す気にさえ、なったかもしれない。
だが、彼の傍らに立つ女性を見て、私はその気持ちがすぐに消え去るのを感じた。
緑色の煌びやかなドレスを身につけたその女性は、アンドレアと同じ赤銅色の髪をしている。だが、アンドレアよりも少し暗い色だ。彼女は胸を張り、姿勢をピンと伸ばして私たちを待ち構えていた。
アメリアが焦っていたのは伯爵のせいではない。この女性が原因なのでは……?
私の勘が「気をつけた方がいい」と囁いていた。
女性はにっこりと笑顔を浮かべているが、上向き加減の顎は尊大な印象を与えた。
そして、彼女の視線は、アンドレアの頭からつま先までを、まるで品定めするかのように行き来する。
その嫌な視線に、私は思わず眉をひそめた。
それを悟られる前に、レンが彼女の気を引いたことは幸いだった。レンは麗しい微笑みと、やや明るい声色で、彼女の意識を自分に向けさせた。
「これはこれはエレノアさま、お早いお戻りで……。たしか来週末までは、お兄さまのお屋敷に滞在なさるはずでは?」
レンの口調は柔らかく丁寧だ。
それなのに、何か刺々しさを感じるのは私の気のせいだろうか……?
エレノアと呼ばれた女性は笑顔を全く崩さず、優雅な動きで胸に手を当てた。そして、指輪にはめられた大きなエメラルドを見せつけるように指を動かす。
彼女は、わざとらしくさえ感じる甘ったるい声で答えた。
「あら、レンさま。おかしなことをおっしゃるものではありませんわ。大事な一人娘の婚約話が持ち上がったというのに、つまらない親戚づきあいをしている場合ではありませんもの。なんといっても結婚を申し込んできた方は、公爵のご令息ですのよ。……貴族という身分に関心がないレンさまでも、さすがにご存知ですわよね? ……あのローレンスさまですわ」
……愛想の良い声だが、どことなく嫌味っぽい。
私はチラチラと2人を交互に見つめた。
笑顔を浮かべ、丁寧な姿勢を見せてはいるが、お互いを好ましく思っていないのが、私でもわかる。ほら、伯爵だって、引きつった顔をして困っているじゃない。
そう思いながら伯爵の顔に視線をうつした途端、それを感じ取ったかのように彼がこちらを見た。
愛情深く、しかし何かを悩ましく思っている瞳と目が合う。彼は深くため息をついてから、口を開いた。
「アンドレア……そしてレン……突然すまないね。だが、話さねばならないことがある。他ならぬローレンス殿からの結婚の申し出のことだが……」
ええ、ええ、そうですよね。
アンドレアは婚約が決まったとか……しかもこうしゃく……公……爵……漢字はこれで合っている? ……のご令息なんだ。でも爵位のあれこれは、私にはわからない。貴族の青年……とでもとらえておけば良いのよね?
アンドレアは伯爵令嬢だから、まぁ、貴族の青年と恋に落ちるのが普通か……。
目まぐるしく考えながらも、私はこの優しそうな伯爵に微笑みかけた。そして「はい」と返事をしようとして口を開く。
「はい」と答えるのが唯一無難な発言だと判断した。ただそれだけの理由で——。
しかし、私の声はエレノアの甲高い声にかき消された。
「そうですわね! あぁっ! 本当になんて喜ばしい話ですこと! しかもお前はこの話を聞いてすぐに、申し出を受け入れるとお父さまに言ったそうじゃないの! さすがわたくしの娘です! 結婚に興味がないような顔をして、本当は何が1番良い選択かわかっているんですもの。お前のことを、こんなに誇らしく思ったことはないわ!」
こ、声が高すぎて、耳がキンキンする……。
あの……とりあえず、私はお礼を言った方が良いの?
私としてはなんか引っかかるけど、この母親は、娘の婚約をちゃんと喜んでいるのよね?
でも、この喜びようは、なんだか異様なくらい……。
アンドレアとそのローレンスさまがお付き合いしていたのなら、いずれは結婚の話が出るのは当然じゃない?
でも、伯爵はあんまり喜んでなさそうだし、隣にいるレンからは、もはや凍りつくような空気を感じる。しかも、その凍てつく空気の下に燃えさかるような怒りも……。
すると、伯爵が苛立たし気に口を開いた。
「エレノア! わからないのか? この子は伯爵家のことを考えて、この申し出を受け入れると言ったんだ。それなのに、お前はこの子の気持ちも考えず、浮かれるなどっ……! 私は……アンドレア……おまえに聞きたいのだ……本当に良いのか? 本当に望んでいるのか? 会ったこともない男との婚約を……」
それを聞いて、私の顔が一瞬で強張った。
い、今なんて……?
頭が回らなくて、本当に理解できているのか自信がない。それでも、うかつだった自分への苛立ちがふつふつと湧き上がってくる。
(……あぁっ! ……もうっ! どうして、こんなことに気が回らなかったのっ……!)
昔見た映画のせい? 読んだ小説のせい?
——貴族のロマンス。
それに抱いていたロマンチックなイメージのせいで、アンドレアの婚約話を聞いても全く考えもしなかった。
政略結婚という可能性を——。