姿を見せ始めた人たち(12)
「しがない元男爵夫人とはいえ、見くびってはいけませんわ」
アネットは少しだけ冗談めかして言った。その顔には優しく穏やかな微笑みが浮かんでいる。
これまで彼女はルーベンに対して敬意を滲ませていたが、今はそれよりも「優しく子供を見守る」ような眼差しの方が強かった。
様々な表情を見せるアネットを目の当たりにし、私は『不思議な女性だな……』と思った。
初めて出会った時のアネットは、腕まくりをして木箱を運んでいた。その逞しく生き生きとした様子からは、彼女が“人生を楽しんでいる”のがわかるほどだった。
だが、そうした「朗らかな女性」とは別に、「かつて男爵夫人だった」という顔もアネットは持っている。
貴族について触れる際、彼女の表情に現れるわずかな陰り……。それは貴族社会への懸念によるものだけではなく、彼女が順風満帆な人生を歩んできたわけではないことを物語るものだった。
輝くような明るさを持ちながらも憂う婦人の顔があり、貴族の青年に敬意を表していたと思ったら、今度は親のような眼差しを見せる。
そんなアネットが、私には奥が深く魅力的に映った。
「まいったな……。アネット……君はどこまで知っているんだ?」
ルーベンは困った様子で頭に手をやった。
元男爵夫人と聞いても驚かないところを見ると、ルーベンはこの事実を既に知っていたようだ。
確かに、彼とアネットの間には気さくに声をかけ合うような親しさがある。お互いのことを色々と知っていても、当たり前だと思えた。
ルーベンをまっすぐ見つめながら、アネットは話を続けた。
「各地を駆け巡っていたルーベンさまが、この半年間はその北の領地に留まっていらっしゃったことは存じております。その間、全くこちらにお戻りになられなかったのは、何かよほど大きな理由があったのでしょう……」
「……その理由が何かまでは知らない?」
「そこまで知っていたら、わたくしはスパイではないですか……」
アネットがいかにも真面目くさった顔で答えたので、ルーベンも私も思わず笑ってしまった。
場の空気が和み、ルーベンはホッとした様子で言った。
「安心したよ。僕の行動が筒抜けだなんて困るからね」
「さすがに節度はわきまえていますわ……! 急にルーベンさまのお姿をお見かけしなくなったので心配になり、友人たちに情報を求めただけです!」
アネットは言いながら、恥ずかしそうに赤くなった。
「……話を戻しますが……つまり……わたくしがここで言いたかったのは……遠い地にいても、どれほど忙しくても、ルーベンさまはアンドレアさまを気遣っていらっしゃったということです。遅いだの何だのとご自分を責める前に、その事実を認めるべきですわ。きっと長い時間をかけて、懸命にアンドレアさまとやり取りをされたのでしょう?」
ルーベンは小さな溜息をついた。
「……イヴォンヌの良からぬ話を耳にし始めたのが、北の領地にいる時だったんだ。真っ先にアンドレアのことが気になったよ。もしイヴォンヌから何かされていても、誰にも言わずに耐えてしまっているだろうと思ったから……。すぐにでも会って確かめたかったけれど、タイミング悪く、僕はその場を離れられない状況だった。もはや手紙でやり取りする他なかったんだ。……そこから僕とアンドレアの攻防が始まった」
ルーベンはそう言って、困ったような微笑みを私に向けた。
「心配をかけまいとする君の気持ちは立派だと思うよ。ただ、それがあって、君はなかなか教えてくれなかったね。曖昧な返事を送ってきたり、『大丈夫』の一点張りだったり……。ようやく『父が開いた夜会で酷いことを言われたことがある』と認めたと思ったら、『その1回だけだから気にしないで』なんて書いて寄こして……でも、僕は全く納得できなかった」
「それは……そうですわね。またいつ同じ目に遭うかわかりませんもの」
アネットがそう口を挟む。
「まぁ、そう簡単に話してくれないだろうとは思っていたんだ……。ただこちらも引く気はなかったよ。ようやくアンドレアが自身の体験を教えてくれてからは、1ヶ月半をかけて伯父に話すべきだと説得した。しつこくて申し訳なかったが、最終的に受け入れてくれて良かったよ」
ルーベンは優しく私の手を取り、しっかりと目を見つめながら言った。
「君のお父さんから伝言だ。『今後、イヴォンヌ嬢が我が家の夜会に来ることがあったら、おまえは自室にいなさい。来客から何か言われても、私が上手く理由をつくるから心配しなくて良い』そうだ。これまで通り、舞踏会はレンが付き添って君から離れないから大丈夫だね。問題は、伯父やレンの目が届かない“令嬢たちだけで過ごす機会”だ。これは伯父たちもなかなか口を出せない領域になる。例の夜会以外では、そうした機会にイヴォンヌと鉢合わせすることはなかったんだろう? それなら大丈夫かもしれないが、どこかで同じ状況になりそうな場合は、君自身がそこからさりげなく離れるんだよ。そして、すぐに伯父やレンのそばに行くんだ。これは君の望み通り、穏便な対処だよ。イヴォンヌや侯爵に食ってかかるような真似はしない」
これならアンドレアも納得するんじゃないかしら。
そう思いながら私が「ありがとう」と言って頷くと、ルーベンもアネットも安心して明るい笑顔を見せた。
その後、ルーベンは少し間を置いてから、深刻な表情になった。そして、私の肩に軽く手を乗せ、彼は言い聞かせるような低い声を出した。
「ここまで話しておいてあれだが、実は重要な話がある。どうやら僕も君も……最も侮ってはいけない人物を忘れていたんだ……」




