姿を見せ始めた人たち(9)
これ以上はもう我慢出来ないというように、青年はすぐに相好を崩し、親しみのこもった眼差しを私に向けた。
「ごめん。まさかそんな反応をされるとは思わなかった」
そう言うと、彼は足早に近づいてきて私を抱きしめた。青年はかなり逞しい体つきをしているが、その抱擁は優しく、こちらに対する配慮を感じさせる。
耳元で彼の嬉しそうな声が響いた。
「久しぶり! アンドレア、会いたかったよ」
「……ぁ」
何か言わなければと思ったが、咄嗟の出来事に適切な言葉が何も思い浮かばない。
しかし、この場に沈黙が訪れることはなかった。
アネットはホッとしたように溜息をつくと、すぐさま不満を露わにした。
「ルーベンさま、驚かさないでください! しばらくお見かけしないうちに、あちら側の人間になられたのかと思いましたわ……」
アネットの言葉に、青年は声を上げて笑った。
「“あちら側”って何だい? まさか僕が父のような人間になるとでも? ……それはからかいたくもなるさ。真剣な表情でいったい何を話しているのかと思えば、“自惚れ貴族”の話なんかしているんだから……。わざわざあんな連中のことを話題にしてどうする? 時間の無駄だよ」
……ルーベン?
会話を二人に任せ、私はアネットが呼んだ名前をしきりに思い出そうとしていた。
……ルーベン……。
待って……すごい最近、この名前を聞いた気がする……。
誰だったっけ? ……いつ聞いたの?
ルーベンは腕の中から私を解放すると、アネットの反論を待ち構えるように彼女に向き直った。
アネットは、そんな彼へ訴えかけるように話し始める。
その様子からは、彼女がルーベンに敬意を抱いているのが感じられた。それは『彼が貴族だから』ではなく、この若者自身のことをきちんと認めているからのようだった。
「そんなこと……わたくしだってわかっていますわ。ですが、こんな状態がずっと続くなんて、納得はできませんもの……! 少しずつでも良い方向に変わるという希望は必要です。ようやく、これまでの状況を変えてくださる方が現れたと……ローレンスさまに期待していたのに……どうです? まさかイヴォンヌ嬢とご婚約なんて……それは嘆きたくもなりますわ!」
「あぁ、それか……。イヴォンヌ……あの性悪ねぇ」
そう言いながら、彼は貴族らしい品のある微笑みを浮かべた。その微笑みに高貴さは感じるものの、美しい瞳は鋭く光り、口元にはわずかに冷たさが宿っている。
これまで見せていた屈託のない様子がガラリと変わり、私も一瞬たじろいだ。
「ルーベンさま! なんてことを……! しょ、性悪だなんて……そんな風に言うものではありませんわ!」
アネットはルーベンの迫力に怯みはしたが、懸命に咎めるような声を上げた。
しかし、ルーベンは至って冷静だ。
「いやいや、アネット。君も彼女が性悪だと思っているから、そうやってローレンスとの婚約話に危機感を抱いているんだろう?」
「……。そ、それは……それは確かに人間性が良いとは思いませんが、何も性悪などと言う気は……。友人の息子さんが酷い目にあわされたので、イヴォンヌ嬢には良い印象がない……だからですわ」
「なるほどね……。その息子さんが、どんな目にあわされたかは察しがつくよ。残念ながら、それほど珍しい話じゃない。良いことを教えてあげようか。イヴォンヌに裏の顔があることは、最近ではそれなりに有名な話だ。身分が高い者、あとは美形や金持ちなんかの前では“心優しいご令嬢”を装っているが、自分より身分の低い者を容赦なく見下すし、相手が貴族でなければ会話さえしようとしない。イヴォンヌからひどい仕打ちをされたご令嬢たちが次々と声を上げ始めているし……最初は上手く本性を隠せても、少しずつボロは出てくるってことだね。侯爵令嬢だからといって、彼女は好き放題しすぎたな。まぁ、『あの美貌ならそれでも構わない』と言う男も割といるけどね」
「それは……あまり聞きたくありませんでしたわ」
アネットが力なく呟くと、ルーベンは笑った。
「重要なのはそこじゃない。つまり何が言いたいかというと、もしもローレンスが評判通りの男なら、イヴォンヌを選ぶわけがないってことだ。聡明で思いやりのある男が、『侯爵家の令嬢だから』『見た目が美しいから』という理由で結婚相手を決めると思うかい? あ! 彼が騙されているかもしれないと心配しているなら、その必要はないよ。1年前ならいざ知らず、今の公爵家がイヴォンヌの所業を知らないわけがない。彼らは、どの貴族よりも情報収集能力が高いからね。ローレンスだって、もはや騙されようがないさ」
「ですが、現に婚約話が……!」
「そこだよ。そもそも、そんな話を鵜呑みにするのはどうかな。この前、会合で伯父と会った時に少しだけ話題に上がったけど、彼は全く気に留めていなかったよ。ただの馬鹿らしい噂だと捉えていた。むしろこの噂の広がり方の方が気になっているようで、不審を抱いたみたいだ」
「まぁっ! スペンサー伯爵が?」
アネットがピクリと反応したが、スペンサー伯爵の名前に反応したのは彼女だけではない。「ルーベンの伯父」がスペンサー伯爵だということに気がついた途端、私の中でレンの言葉が甦った。
“……ジェームズの弟夫婦には気をつけてもらわねばならないな……。彼らは異様なまでに愛想が良いが、その本心は全くの別物だ。だが、彼らの息子ルーベンとは、きっと仲良くなれると思うよ”
(そうだわ! ルーベン……! さっき馬車の中で聞いたばかりなのに、どうして忘れていたんだろう!)
私はサッと顔を上げ、長身のルーベン——アンドレアのいとこ——をまじまじと見つめた。
ルーベンはその視線に気づくと、安心させるように私の肩を抱いて微笑んだ。
「大丈夫。きちんと伯父には話しておいたよ」




