姿を見せ始めた人たち(8)
(まさかここで彼の名を聞くとは……)
そう思いながら、私はそっと自分の耳に触れた。
熱を帯びた耳とは対照的に、背中には冷や汗が滲んでいる。熱と冷たさを同時に感じて奇妙な感覚に包まれたが、それを気にする余裕はなかった。
私の頭の中は、ローレンスに関わる秘密でいっぱいだった。
“婚約”、“婚約破棄”という2つの秘密——。
ローレンスとアンドレアの婚約は、まだスペンサー伯爵の“屋敷の中”だけに留めておくべき話だ。外部に話が漏れるのを伯爵が避けたがっている以上、私の口から婚約を匂わせる発言があってはならない。
そして、その婚約よりも知られてはいけないのが、“婚約を破棄する”という私とレンの重要な秘め事だ。もしも誰かに知られれば、私たちの運命の歯車は大きく狂ってしまう……。
これは絶対に守り抜かなければならない秘密だった。
(屋敷の中は婚約話で持ちきりだからわかるけど、まさか“外”に出てまで彼の名を聞くことになるなんて……。他にも話題はいくらでもあるでしょうに……どうしてわざわざ“ローレンス”なの?)
心構えが出来ていなかった私は、上手く聞き流すことさえままならず焦っていた。
幸いにも赤銅色の髪に隠され、私の真っ赤になった耳はアネットに気づかれていないようだ。だが、私の顔に現れた動揺ぶりは見逃されるはずもなかった。
ほてった頬に、彷徨う視線、言葉もなくキュッと閉じられた口……。
アネットはすぐに私の異変を察した。
「まぁ……そのご様子では……やはりお嬢さまも……」
彼女は私を見つめながら、こちらへの気遣いを感じさせる穏やかな声で先を続けた。
「確かに……未来を左右するお話ですもの。さぞ気がかりなことでしょう……。本来は他人が口を出すことではないのかもしれませんね。……ですが……それでも……やはりローレンスさまのご婚約となれば、どうしたって気になってしまいますわ」
こっ……! 婚約っ!?
私は息をのみ、さらなる緊張が全身に走った。
(ど……どういうこと? 私が言おうが言うまいが、もう婚約の件はみんなに知れ渡っているの!? でも……それなら……ぇぇぃっ! それなら婚約についてはもういいわっ……! だって、既に知られているなら仕方がないじゃないの。こうなったら、変に誤魔化さない方が良い。むしろ隠さずに済むんだから気が楽になった……。それに、婚約破棄のことを知られるより、ずっとマシだわ……!)
私は瞬時に覚悟を決め、ローレンスとの婚約を潔く認めようと口を開いた。
しかし、私が言葉を発するよりも前に、アネットの声が耳に飛び込んできた。呟くような声だったにも関わらず、何を言っているのかは明瞭だった。
「まさか、あのローレンスさまがイヴォンヌ嬢とご婚約なんて……」
……。
……?
……え?
……い……イヴォ……?
……誰?
先程から動揺の連続だったが、今の私はもはやパニック状態だ。
(ちょ……ちょっと待って……。ローレンスって、あのローレンスのことよね? ……彼が誰と婚約したって? 彼が婚約したのはアンドレア……アンドレアよ! ……誰なの? そのイヴォ……ンヌって……)
情報社会で鍛えられてきたせいもあって、これまで、次々と知る『この世界』のあらゆる事柄を理解し、受け入れ、対応することに苦労は感じなかった。
毎日毎日たった1つの機械——スマホやパソコン——から溢れるほどの情報に晒され続けていたのだから、私の情報処理能力は高い……はず……。
けれど今は、その私もさすがに話についていけない。
「……そ、それは、あのローレンスさまのお話ですか? あのアスター家のローレンスさまの……。その……い、イヴォンヌ嬢とのご婚約というのは、いったい……?」
アネットにそう尋ねる私の声は、わずかに震えている。
彼女は不思議そうに私を見たが、すぐに頷いた。
「……ええ、もちろんアスター家のローレンスさまのお話ですわ。……お嬢さまがご存知なのは、このことではないのでしょうか?」
「えっ? え……ええ、婚約……のことは知っているんですけれど……そのイヴォンヌ嬢のことは把握しておりませんので……」
「まぁ! そうでしたか……。実は1ヶ月ほど前から、貴族の友人たちの耳にローレンスさまのご婚約話が入ってくるようになったそうなのですが……そのご婚約のお相手というのがイヴォンヌ嬢だそうで……。正式に発表があったわけではありませんから、誰も公然と口にしたりはしないそうですが……なんと表現すれば良いのか……密かに……ただ着実に……貴族の方々の間ではこの話が広まっているようです」
「……」
どういうこと……?
私は胸にざわざわとした不穏なものを感じた。
単純に『事実と違う話が広まっている』ことが不快なのだが、それだけではない。なんとなく、嫌な感じがする。
……ただの噂……よね……?
でも、それよりは……もっと……こう何か意図を感じない?
疑い過ぎかしら?
私の考え過ぎ? それとも……。
考え込む私を見て、アネットもまた悩ましげな表情を浮かべた。
「そうですね……。お相手がイヴォンヌ嬢と聞いては、あまり喜べませんわ。なにしろローレンスさまは、あの公爵家の方ですもの。あのお方のご結婚は、貴族社会にも、私のように貴族ではない者にとっても大きな影響があります……。なによりローレンスさまは思いやりがあり、高い志をお持ちの方ですから……わたくし共としては、やはり結婚のお相手はそれに相応しい方をと望んでしまいます。友人の子爵ご夫妻がよく口にしますが、まさしくローレンスさまは“希望の星”ですもの……」
「“希望の星”?」
「ええ! 残念ながら、今の貴族社会では“誠実さ”や“高尚さ”は価値あるものとされていません。スペンサー伯爵のように高潔な方は少数派……ですから、理不尽な提案に異を唱えようとも数の力で押し切られ、傍若無人な言動を咎めようとも逆に嘲笑され……と、スペンサー伯爵やわたくしの友人たちのような方々は非常に困難な状態にあります。ですが、ローレンスさまなら、そんな状況をご覧になって黙ってはいないでしょう。今でこそまだ活動の範囲は狭いですが、これからどんどんご活躍の場は増えます。絶大な権力を持つローレンスさまの支えと助けがあれば、形勢逆転さえ期待できますわ。わたくしたちの身近でも良い変化が起きると思うのです」
アネットは小さな溜め息をつくと、「今の貴族社会は……」とやや熱い口調で話し続けた。
「腹立たしいことに、わたくしが男爵夫人だった頃から何も変わっていません。むしろ悪くなっているように感じられるくらいですわ。いい加減で傲慢な者がより幅を利かせるようになり……彼らは何もしないくせに偉そうで……。そうです! いつだって、ただふんぞりかえっているだけなんですよ!」
「それは僕の父のことかな?」
不意に面白がるような男性の声が聞こえ、私とアネットはギョッとして振り返った。
私たちの視線の先にいたのは、黒髪の青年だった。
やや日に焼けた顔に、深い茶色の瞳。こちらを見透かすような目をして、口の端はわずかに上がっている。からかっているのか、気分を害しているのか……判断に迷う表情だ。
上半身が薄手のシャツ一枚という軽装ゆえか、鍛え上げられた逞しい体つきがよくわかった。
非常にラフな格好で、一見すると普通の若者に見えるが、先程の台詞から推測するに彼も貴族なのだろう。
(……誰?)
窺うような視線をその青年に向けると、彼は真剣な表情で私を見つめ返してきたが、それもほんの一瞬のことだった——。




