姿を見せ始めた人たち(7)
ほんの少し前まで楽しそうな様子を見せていたアネットだが、今は深刻な表情だ。
「『昔々』……本当にその通りで、これは昔の話なのです。かつての話であって、今の話ではない。当時は事実であっても、“今”もそうとは限らない……。そんな当たり前のことを、わたくしは見落としていたのです」
そう言うと、アネットは私に優しく微笑みかけた。
「お嬢さまは、幼い頃から貴族社会の現実をご存知ですから、この物語を読んでも“今”と混同はされないでしょう。ですが、わたくしは商人の娘で、およそ貴族の方と接する機会はありませんでした。彼らが乗る豪華な馬車を目にしては、ただただ憧れと敬意を感じましたわ。『こうして彼らは、平和と繁栄の道を進み続けます。守護者に支えられ、崇高な理念と希望を胸にして……』。子供の頃に読んだこの言葉が、“今”もそうだと思い込んでいたんですもの」
アネットは悔やむような感情を滲ませたが、ふと何かに気づいたように宙を見つめ、冷静な声で先を続けた。
「……それはそうですわよね。物語の最後を『けれど、数十年後はわからない』なんて言葉では締めくくれませんもの。……それにリアムは、暗に示してくれていたのです。本の空白のページ……あれは『物語はこれで終わりではない。この先がどのようなものになるかは未知だ』という意味なのだとわたくしは思います。このお話を書いた時、彼は当時の状態が維持されることを望んでいたはず……。それでも『どうなるかはわからない』ということを理解されていたのでしょう。現状維持か発展か、あるいは衰退か……。そんな想いが込められた空白のページだと感じるのです」
「ちょっとした仕掛けみたいなものですね……。確かに意味があると思いますし、とても興味深いです。……その空白のページについて、どなたも意味を教えてくださらなかったのですか? 本の最後に白いページが何枚も続くなんて、不思議に思う人はたくさんいそうです……」
私の質問に「ごもっともですわ」とアネットは苦笑した。
「ですが、少なくともわたくしの周りには深く考える人はいませんでした。父も母も空白のページなんて気にも留めていませんでしたし、わたくしもただの不良本かと思っていたくらいで……。驚くことに、男爵家にもこの本がありましたのよ。形として置いてあるだけで、誰も読んでいないようでしたが……。その本にも同じように空白のページがあったことで、それが“あえて”なのだとようやく気がついたのです」
しばらく黙り込んだ後、アネットはぽつりと呟いた。
「……リアムが、貴族の現状を知ったら残念に思うでしょうね」
私は考えるまでもなく、すぐに小さく頷いていた。
まだ多くを知らない私にも、貴族社会が悩ましいところだということはわかる。スペンサー伯爵やローレンスのように立派な人たちが苦労する環境だ。決して喜ばしい状態ではない。
(ライザやリアムの時代とは、かなり変わってしまったんだろうな……。『欲望と争いが渦巻く』今の公爵家を目の当たりにしたら、彼らは仰天するんじゃないかしら……)
アネットは溜息をつきながら、記憶を辿るように遠くを見つめた。彼女から、やるせない気持ちが感じられる。
「わたくしは……貴族社会へ自分が実際に足を踏み入れて初めて、本来あるべき立派な姿勢を持つ方たちは少数派なのだと知りましたわ。元夫の男爵を含め、大多数の貴族が地位や権力誇示にばかり関心を寄せていたんですもの……。そのことにも驚きましたが、実は男爵家に嫁いで一番衝撃を受けたのは、あれほど会いたいと願っていた守護者がいなかったことなのです……! もうずっと前から、貴族がどんどん守護者を追放してしまったという事実を全く知りませんでしたの。今だって、村人の中には知らない人がいると思いますわ。わたくしが結婚した25年前の時点で、守護者がいる貴族はほんのわずかだったのです……」
「そして今はもう、守護者は一人……」
私はそう言いながら、人だかりの方へ視線を向けた。あの中で、レンはどんな風に人々に接しているのだろう。
今すぐ人混みを掻き分けて、レンの元に行きたい衝動に襲われた。だが、そんな私をアネットの声が引き留める。
「ええ……。スペンサー伯爵は、とても賢いご判断をされています。“守護者をそばに置く”ということを守り続けていらっしゃるんですもの。レンさまをご自身ではなく、お嬢さまの守護者とされているのも、何か深いお考えがあるのでしょう。この貴族社会の中で、お嬢さまを守りたいという伯爵の愛を感じます。時が経過する中で、守護者の役割も変化してきたのでしょうが、その類まれな力と聡明さは変わりませんわ。レンさまは素晴らしい方です」
私は微笑んだが、アネットが先ほど言った「貴族がどんどん守護者を追放してしまった」という話が引っかかっていた。ショックな上に、納得も出来ない。
そんなことをしたら貴族は衰退の一途をたどると、彼らは考えなかったのだろうか?
そう思うと胃がムカムカして仕方がなかった。
アネットは私の葛藤に気づかず、穏やかな声で話を続けた。
「わたくしはもう男爵夫人ではありませんが、貴族の友人はまだ何人かいます。彼らは、相手の身分で態度を変えるような人ではなく、スペンサー伯爵のように高い志を維持しようと懸命に努力されていますわ。いつも貴族社会の近況を話してくださるのですが、彼らからもスペンサー伯爵はとても高潔な方だと常々伺っております」
私は自然と、“アンドレアだったらするであろう”表情を浮かべていた。誇らしさと喜びの表情だ。
高潔な在り方が過小評価されている貴族社会の中でも、あの優しい伯爵のことをきちんと認めている人がいる。そのことが純粋に嬉しかった。
アネットは友人たちとの会話を思い出すように、視線を少し上に向けて考え込んでいる。
「……そうですね。あと最近よく彼らの話に上がるのは……あぁ……! そうそう、公爵家のローレンスさまですわ」
ローレンス。
その名前を聞いた途端、私は自分でも驚くほど動揺し、耳がカアァッと熱くなるのを感じた。




