伯爵
アメリアに続いて歩く私の足取りは重い。
アンドレアの父親に会う前に、レンには聞いておきたいことが山ほどあった。
だが「行く前にちょっとレンと話をさせて」というささやかなお願いも、早く早くと目で訴えるアメリアには非情な依頼だろう。私もレンも素直にアメリアの後に続くしかなかった。
ただ、このままアンドレアの父親に会うのは無謀だ。
彼はどんな人物なんだろう?
たしか……アメリアが朝食を運んできてくれた時、「朝から、この伯爵家は婚約の話で持ちきりだ」というようなことを言っていた。
つまり、父親は伯爵で、その娘であるアンドレアは伯爵令嬢……あぁ、アメリアの話をもっと聞いておけばよかった! 彼女は色々話していたはずなのに、詳しい話を全然思い出せない。あの時の私は、これが夢か現実かということばかり考えていたんだもの。
父親……伯爵の前では、アンドレアはどのように振る舞っていたの?
そもそも、アンドレアがどんな人物なのか理解できてもいないのに、彼女のフリをするなんて不可能よ!
これまでのアメリアの様子から、アンドレアがいつもと違うとはそれほど感じていない。……というか、ちょっとおかしい感じがするのは婚約話のせいだと捉えている。
それもそうか……。
恋人との結婚を見据えていても、いざ婚約が決まれば、これまでの生活が一変することに不安を感じるのは自然よね。“お嬢さま”だって同じ人間だもの。
今朝部屋に飛び込んできたアメリアの興奮ぶりから、アンドレアのお相手はきっと文句のつけようがない人物だというのは間違いない。きっと身分も高い人だろう。それなら生活水準は今まで通りか、もしかしたら上がる可能性だってある。経済的なことは不安の種にはならない。
むしろ大きいのは、彼女が慣れ親しんだこの屋敷を出て、新しい環境で暮らして行くことの方だ。
婚約の話を聞いて、こうして駆けつけてくれたレンという優しい人とも、これまでのようには会えなくなるかもしれない。それだけでも、アンドレアを落ち着かない気持ちにさせるには十分な理由だと思った。私でさえ、会えないと考えただけで胸が苦しくなるのだから。
それなら、アンドレアの父親も、娘の異変を婚約のせいだと解釈してくれるに違いない。大丈夫。きっと大丈夫……。
……それとも……。
一旦は覚悟を決めた私の頭に、別の考えが浮かぶ。
それとも……事実を話してしまおうか……。
もしかしたら……もしかしたら……伯爵もレンのように受け入れて、助けてくれるかもしれない。
わずかな希望を抱きながらそう思い至った時、アメリアがひとつの部屋の前で立ち止まった。
十数もの扉の前を通り過ぎ、長い廊下の先でようやくたどり着いたその部屋は、天井から扉の上ギリギリまでワインレッドの幕が垂らされていて、まるで人々から隠されているかのようだ。
磨き抜かれた金色のドアノブを光らせて、その部屋の重厚な扉が私たちを出迎えていた。
中からは物音ひとつ聞こえてこないが、レンが鋭く言った。
「中にいるのは、伯爵だけではないな?」
アメリアが途端にビクッと肩を震わせ、「はい……申し訳ございません」と小さく呟く。
その様子を見て気の毒に思ったのか、レンは安心させるようにアメリアに声をかけた。
「いや……君が謝る必要はない。言いづらかったのは理解できる。それに、私たちを呼んだのが伯爵自身であることに間違いはないからね……」
何かを見通すような目で、レンは考え込んでいる。
アメリアはホッとした様子でお辞儀をし、自らの仕事を全うしようと、意を決して扉を開けた。
「早々にお出ましか……」
扉が開く音にかき消され、レンのその小さな呟きは、私にしか聞こえなかったようだ。
「お嬢さまとレンさまをお連れいたしました」
アメリアは深々とお辞儀をして、中に入るよう私たちを促す。レンはちらりと部屋の中に視線を投げてから、私の背中にそっと手を当て、軽く頷いて見せた。
「大丈夫。私がついている」
彼の目がそう言っているように感じて、私もかすかに頷く。それでも、私たちの背後で扉が閉められた瞬間、まるで閉じ込められたような不安に襲われた。