守られた場所
レンの手に支えられて馬車から降りると、そこは森の中だった。
天に向かって伸びる逞しい木々。生命力に溢れる葉や枝の間からは、太陽の光が射し込んでいる。
陽射しのおかげなのか、あるいは木々や大地そのものが発しているのか、この森全体が淡い光をまとっているように見えた。
私はレンが差し出した腕に手を添えて、ゆっくりと歩き出した。
数歩行ったところで後ろを振り返ると、馬車の近くにあるベンチに御者が横になり、日向ぼっこを始めるところだった。彼はとても寛いだ様子で、ここで過ごすのに慣れているようだった。
私は再び前を向き、レンと一緒に歩きながら辺りを見回した。
森の中にはお店らしき小さな小屋がいくつもあり、ちらほらと人の姿も目に入る。
私は人がいることに驚いていた。レンが私を連れて行きたいと言った場所は、アンドレアが安心して過ごせるところだと聞いていたからだ。
てっきり、他には誰もいなくて、一人で静かに過ごせるような場所だと思っていたのだ。
馬車の外に出た瞬間から、ずっと歌声が聞こえている。
男女の複数の声が重なりあって見事に調和し、その美しさに私は聴き惚れた。その歌声の出所を探ったが、なぜか歌っている人々の姿は全く見当たらなかった。
歌声は響き渡り、談笑する人たちの声もある。時には大声やたくさんの笑い声だって聞こえてくるほどだ。
しかし、賑やかだとさえ言えるこの場を満たしているのは、“静謐”だった。
誰かの話し声や笑い声があれば、静けさは破られる。そんな考えなど通用しないような、揺らぐことのない静謐さだ。
神聖な雰囲気に包まれている場ながら、誰も「お静かに!」なんて注意はしない。人々は遠慮なく話し、笑い、駆け回り……と、全く普通に過ごしている。
そうして様々な音が起こりながらも、清らかなる静謐さは侵されない。お喋りと静けさが同時に存在するなんて矛盾しているが、此処にある静謐さはいかなる音によっても乱されることはないのだと感じた。
まったく、この世界は未知に溢れている!
初めての経験に、私は何度も驚かされていた。
魔法のような力、圧倒されるほど美しい場所……。いつだって、想像以上のものを私に見せてくれる。
「気に入ったかい?」
レンの声に、私は感極まった目で応えた。
「もちろんです! ここは……」
「ここは私の家が代々受け継ぎ、守ってきた森なんだ。一時期は王家に奪われていて、その間にかなり荒れ果ててしまったんだが、数年前ようやく我々に返してもらえた。だから、こうして元の状態に戻すことが出来たんだ……! 本当によかったよ」
「え……」
レンがさらりと言った言葉に、私は足を止めた。それに合わせて彼も立ち止まる。
(……王家が森を奪った? う……奪った? なんなのそれ! あれ……? レンは今、王家の森を管理する仕事をしているんだよね? ま、まさか、その森も本来はレンたちの森なんじゃ……。だいたい森を奪っておきながら、仕事をさせるなんて厚かましいにも程があるんじゃない!? こういうのを厚顔無恥っていうのよ!)
私の表情は硬くなった。
頭の中で「不当だわ!」と喚く声が聞こえてきそうだが、私は極めて冷静に尋ねた。
「あの……森は……きちんと“全部”、返してもらえたんでしょうか……?」
それを聞いて、レンは困った顔で私を見つめた。
わかっている。
彼が言いたかったのは、荒れ果てた森が、こんなにも美しく神聖な場へ戻れたという喜びだ。その感動を私に伝えようとしてくれた。
だが、私の気を引いたのは『王家に森を奪われた』ということの方だった。
まさか私がそこに食いつくとは思わなかったのだろう。
レンは答えることに躊躇する様子を見せていた。
私の怒りの炎に油を注ぎたくないのだ。
しかし、これで答えは容易に想像がついた。
私はレンを困らせたくなくて、彼から目を逸らし話題を変えた。
「ここは……本当に素敵なところですね」
それを受けて、レンは周りを見ながら穏やかな声で話し始めた。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。村の人たちに場所を提供しているから……ほら、彼らがここでお店を開いているんだよ。ゆっくり食事をすることも出来るから、とても有難いことだ」
次にレンは、この森のある特殊な面を口にした。
「この森には私がシールドをはっていて、暴力性や悪意を持つ者は入ってこられないようになっている。だから、ここに来る全ての人が安心して過ごせるんだ。それに一部の貴族にとっては、避難所のような場所だ。彼らに対して何らかの魂胆を持って近づく者は多いが、ここではそうした人物に会う心配がないからね。アンドレアのように、政略的なものを好まない貴族もいるんだよ。彼らはこの森で、不安を感じず平和に時を過ごせる」
(なるほど! この森はレンの力に守られているのね! それでか……あの金の門をくぐった瞬間に空気が変わったのが、馬車の中にいてもわかったもの)
私の顔に微笑みが浮かんだのを見て、レンは安心したようだ。
ふと私は、何人もの人々がこちらに近づいてくるのに気がついた。レンも同時に気づいたようで、そちらへと視線を向けている。
人々はとても嬉しそうで、興奮したように小さな歓声を上げる者もいた。
「レンさま! お久しぶりでございます!」
「なかなかお会いできず、寂しかったです! 前回いらっしゃった時から、もう半年以上が経って……」
「新作のケーキが完成したんですよ! ぜひこの後……」
「レンさま! この前、子供が生まれまして……」
彼らはあっという間に私たちの前まで来ると、口々にレンに向かって話し始め、私はその勢いに押されて思わず後ずさりした。
レンがいると耳にしたのか、遠くから走ってくる人の姿まで見える。
(ここは安全な場所だから、レンから離れても大丈夫。むしろ今、私はこの人だかりから離れていた方が良い……)
レンが私をそばに引き寄せようと腕を伸ばしたが、私はそれをやんわりと断り、「あっちで待っていますね」と指をさして彼から離れた。
人々がレンと話すのを邪魔しないようにしつつ、私は状況が落ち着くのを待つことにしたのだ。
だがその時、私は目の端に奇妙な動きを捉えた。